第一話
暴走したトラックに轢かれてなんていない。
通り魔に刺されてもいないし、過労死してもいない。
ただ川で溺れて死んだだけ。
なのに気づいたら俺は俺の記憶を持って、また一人の人生を生きていた。
これは生前に小説や漫画で流行っていた転生というやつなのだろう。
だけど、女神様に『あなたは間違えて死んじゃったから代わりに別の世界で命をあげるわ』なんて雑な折衷案を提示されてもいないし、神様に『チートな能力を授けるからこの世界を救ってくれ』なんて矛盾した他力本願なお願いもされていない。
何で俺が今ここでこうして再び生きて動いているのかはさっぱり記憶になく、五歳のある時、俺には前世があったことを思い出したのだ。
そうして周りを見回せば、同じようなビルが立ち並び、アスファルトの上を無限と思えるほど次々と車が走り抜けていく。
そこかしこを歩く人々は黒い髪がほとんど。
大きな手に繋がれて「ただいま~」と帰れば、家は靴を脱いで上がるし、フローリングのリビングを通り過ぎたところには畳の部屋もある。
やり込んでたゲームの中世ヨーロッパ的な風景ってわけじゃないし、ハマってた小説のキャラクターも見当たらない。
見慣れすぎた光景。
完全に日本だった。
「優、帰ったらまずは手を洗ってうがいをしようね」
言われて洗面所に立てば、映るのはふくふくの丸いほっぺにまん丸つやつやの瞳、細くて柔らかい髪の毛が汗で額に張り付いた五歳児の顔がそこにある。
母親は芙美、三十七歳。こんな体で子どもを産んだのかと心配になるほど痩せているが、俺と全力で遊ぶし、仕事に家事、育児にといつもパワフルに動き回っている。
父親は健治、四十歳。いつもにこにこ温和な人で、俺が叱られたことはほとんどない。こうするんだぞ、と見本を見せるように注意するだけだ。
そんな二人を親にもつ、どこにでもいる平凡な日本人の子ども。
特別な能力もチートも何もない。
何故わざわざそんな人間に転生なんてしたのか。
そもそも誰の差し金なのか。
前世でもただの凡庸な日本人だった俺がまた平凡な日本人に転生して誰に何の得があるというのか。
それとも気が付いていないだけで、今世の俺はものすごい能力を秘めているとか?
すんごい頭脳の持ち主で、超天才だとか――
待てよ?
前世のことは成人式もとっくに終えた大人だったってことくらいしか覚えていないが、一般常識とか日常的なことはわかる。
五歳児でありながら、俺は掛け算だってできるのだ。
ちらちらと部屋の中を見回したところ、子どもの目には字が読みにくいが、見慣れた漢字の読みはわかる。
これが世間に露見すれば、天才児だと騒がれることだろう。
テレビの出演依頼がくるかもしれない。ネットでバズるかもしれない。
喜んだ親はお受験で小学校からいいところに入れてくれて、エリート人生を歩むことになるだろう。
IQが高い人の集団に入れるかもしれない。ベースに一般知識があるのだから、これからレベルの高いことを勉強できるわけだし、画期的な発明やビジネスで成功を収めるかもしれない。
日本人が日本人に転生したってことは、つまりそれだけでチートなのだ。
平凡な人生を二度も歩むのはつまらない。
今世では俺は、一握りの人間しか味わえないだろう高みを目指し、面白おかしく生きるのだ。
そうして俺は意気揚々と新たな人生を歩き出した。
はずだったのだが。
今世の俺の親は欲のない人だった。
「子どもはよく遊んで健康でいてくれたらそれでいいわ」
「できるなら優しい子に育ってほしいな」
「そうね。そのお手本になれるように私たちも頑張らなくちゃね」
そんなことを言って、俺が五歳ながらに「でぃすいずあぺん」とボールペンを掲げてみても、「昨日見てた教育テレビで覚えたのね。すごいわ!」とにこにこ笑って終わり。
もっと高度な英語を喋ってやろうと考えたが、ロクなのは出てこなかった。
あいきゃんとすぴーくいんぐりっしゅ! という大矛盾を抱えた言葉だけはすぐ出てきたから、もしかしたら前世の俺は英語が苦手だったのかもしれない。
前世の不勉強がこんなところで響くとは思いもしなかった。惨敗だ。
「さざんがく! ししじゅうろく!」
掛け算だって五歳児がそらんじたら大騒ぎになるはず。
だが俺の親は一筋縄ではいかない。
「そういえばこの間遊んだまさくんのお兄ちゃんが九九の歌を流してたものね。よく聞いてたのねえ」
芙美こそ、そんなことまでよく覚えているものだ。
にこにこと子どもの話をよく聞いてくれる母親だが、感心するだけで俺の五歳児らしくないポテンシャルには全然食いついてこない。
俺がいかに天才かアピールする方法は他にないだろうか。
いいくにつくろうかまくらばくふ!
とか。
いや、今は確か違うんだったな。当時は歴史が変わるなんて思いもせず、あんなに必死に暗記したのになんなんだよ。
他は……、
他は…………、
思い出せない。
まあ焦っても仕方ない。
今の俺はまだ五歳なのだ。
前世の知識を全部思い出したらそれこそオーバーヒートしてしまう。
きっと本能的にロックがかかっているのだろう。
前世の俺が何ていう名前で、どこに住んでいて、どんな人生だったのか覚えていないのもきっとそのせいだ。
俺という人間を思い出したら、そこからどんどん何十年分もの人生が蘇ってきてしまうだろうし、そんなものは五歳児には処理しきれないに違いない。
今世の赤ん坊の頃のことだって何も覚えていないが、それはまあみんなそうだろう。
ただ、五歳になって突然前世のことを思い出したように、ふと見た光景や音をきっかけに前世の記憶が蘇ることがある。
そうして徐々に他の知識も取り戻すだろう。
エリート人生を始めるのは、それからでも遅くない。
今はとにかくこの戦場を平穏に生き抜かなければ。
保育園というものは、甘くない。
そう思い知ったから。