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第60話「愛と呪い」

 魔王軍の人族領侵攻開始の前日の夜。ゼベルトは鍛錬を休み、久しぶりに自室でピアノを弾いて、明日に迫る侵攻への緊張感を紛らわしていた。雑多に曲を弾く、種類も曲調も気にしない。作曲のための材料を探すわけでもなく、ただひたすらゼベルトはピアノを弾いて、心を落ち着かせていた。


「ゼベルト様、何を弾いてらっしゃるのですか?」

「びっくりした、アニアか。」

「珍しいですね、ゼベルト様が音に気づかないなんて。」

「あー、ちょっとピアノに集中しすぎてたかもしれない。」

ピアノを弾いているゼベルトにアニアがやってきて、声をかけた。貴族のお嬢様と騎士が部屋に二人きりとなった。


「弾いていらっしゃった曲の名前を教えていただけませんか? 琴線に触れるところがありまして、演奏中に声をかけてしまいました。」

アニアがゼベルトの隣に座って、曲について尋ねた。

「曲名は『アンネリーゼ』。この曲は女性に狂気的な愛を向けられた作曲家が書いた曲で、その女性の名前が曲名になってる。」

「なるほど。狂気的な愛、ですか。」

「ああ。ただ最終的には作曲家はその女性の愛を受け入れて結婚するから、最初はおどろどろしいけど、最後の方は情熱的な曲調になってる。まあ、その最後の方でもちょっと狂気的な面は感じるんだけどな。」

ゼベルトの解説にアニアは興味津々といった様子で頷く。


「その女性は実際にどんな風に愛を注いだのですか?」

「歌唱曲でもあるから楽譜に歌詞が書いてある。読んでみるか?」

「はい、ぜひ。」

手渡された歌詞をアニアはじっと見つめて読んでいく。


「あの、ゼベルト様…。」

「ん? どうした?」

アニアが歌詞を読んで怪訝そうな表情をしていた。

「この女性のどこが狂気的なのでしょうか?」

「え?」

「いえ、愛する殿方の人間関係を探ったり、変な虫がつかないよう牽制したりすることは狂気的なのか、と思いまして…。」

「あー、まあなんとも…。」

ゼベルトは楽譜を受け取って、狂気的と言っても差し支えない部分を探す。


「ここの、相手の服とか手巾とかを回収して色々と再利用してるのは?」

「狂気的でしょうか…?」

「血液とか髪の毛とかを保存しておくのは?」

「狂気的…?」

「相手の独り言を聞くために、魔道具を相手の部屋に忍ばせておくのは?」

「…?」

ゼベルトは聞くのが段々と怖くなっていった。アニアは対照的にけろっとしている。


「じゃ、じゃあ相手を監禁したり、自分以外の異性との会話を禁止させたりするのは?」

「あー、これは…。」

やっとアニアは嫌悪感を顔に表した。ゼベルトは少しほっとする。

「監禁や会話禁止などの相手に対する強制的な制限は悪手ですね。」

「あ、悪手…?」

「はい、愛する殿方を独占したくなる気持ちは理解できますが、その独占欲によって愛する殿方に精神的・肉体的負担をかけるのは良くありません。『愛と呪いは紙一重』、『健全な呪いは健全な生活から』です。」

ゼベルトは言葉を失った。アニアは解説を続ける。


「ですので、自身の独占欲は生かさず、殺さず、上手く飼い慣らして、愛する殿方からも自身に独占欲を向けていただけるようにした方が得策ですね。お互いがお互いだけを愛し合う関係性を構築できれば、監禁などする必要はありません。いつでもどこでも、お互いの世界は二人だけになるのですから。」

「…。」

ゼベルトは何も言えなかった。アニアがゼベルト自身に愛を持っていることは知っている。ただその愛の質を理解していなかった。そしてここまで異常だとは思わなかった。すぐ隣にいる少女から狂気的な偏愛を向けられていると、この時改めて強く感じた・


「…あー、そういう考え方は一般的に狂気的とされてるんだよ、アニア。」

「申し訳ありません。よくわからないアニアです。」

ゼベルトの耳はアニアから嘘の音を聞き取れなかった。すなわちそれは、アニアが至極真面目に、ここまで話しているということだった。

「『メルクル家の女ならば、愛する殿方を手に入れるために全力を尽くしなさい』とお母様からも、お婆様からも、私は教えられています。教育の違いですね。」

「教育の違いで片付けていいのか…?」

アニアの言葉にゼベルトの頭が固まる。

「そんなことよりゼベルト様、私からお伝えしなければならないことがあります。」

「ああ。」

(そんなことより?)とゼベルトは思ったが、アニアの話に耳を傾ける。


「『契縛の呪術』に関してなのですが…。」

自身に不利を賭すことを代償に利を得る呪術、『契縛の呪術』。戦況をひっくり返すほどの強力な利を得るためには、自身に相応の不利を賭さなければならない。

「前も言った通り、俺が触れてるか、もしくは許可しない限り使用禁止だ。」

ピシャリとゼベルトは言い放った。あの日のように、家族同然となった者を失いたくなかった。

「いえ、『私の好きにさせろ』と言いたいのではなく、『契縛の呪術』にはゼベルト様に話していない条件があるのです。」

「条件?」

ゼベルトは眉をひそめ、後遺症があるのかもしれないと予想した。


「『契縛の呪術』は一度賭した不利では発現しません。前回よりも大きな不利を賭さなければ、前回以上の利を得ることはできないのです。」

「なる、ほど…。」

ゼベルトの予想は外れた。ただ正解は予想と同じくらい厄介なものだった。

「フィラウディアと戦った時に命を賭けてたよな? 今後は命以上のものをかけなきゃいけないのか?」

「いいえ、あの時はゼベルト様が手を握ってくださったおかげで、『契縛の呪術』が完了する前に利だけ受け取って『契縛の呪術』を破棄しています、なので命をかける必要性はありません。」

ゼベルトは我ながら詐欺みたいだなと思った。


「となると、レオンと決闘した時の『契縛の呪術』が最新か。」

「はい、その通りです。」

「じゃあ、結局『命』以上のものをかけないといけないんじゃないか?」

「厳密に言うと、状況があの時よりも苦しければ、同じように『命』を代償にしても『契縛の呪術』は発現します。」

アニアが一つ呼吸を置く。ゼベルトはアニアの説明に続きがあることを察した。


「侵攻において、私たちの敵になるのは勇聖教会の七星でしょう。そしてイグレブ山での風魔法使いとの戦闘を踏まえると、アレより強い者と戦う可能性もあります。」

ゼベルトとアニアが前回イグレブ山で戦った緑髪の人族『神風のセザール・シェロン』はあの実力で七星の五番だった。

「『契縛の呪術』を使用するにあたって、敵の力量も鑑みると、また『命』を賭けなければならない瞬間が来るかもしれません。」

アニアの赤い眼が曇り澄んでいく。ゼベルトはその眼があまり好きではなかった。


「可能な限り『命』は賭けないでくれ、アニア。」

ゼベルトは、アニアがいつも通り快活に返事をしてくれると願って聞いた

「…。」

しかしゼベルトに返ってきたのは沈黙だった。

「私がお伝えしたいことの本質。それは、ゼベルト様のためなら私は命も惜しまない、ということです。」

曇りないほどに曇り澄んだアニアの赤い眼がゼベルトの紺色の眼を貫く。それはアニアの決意であり覚悟であり狂気的な偏愛だった。

「そうか…、わかった…。」

ゼベルトはアニアと視線を合わせたまま頷くほかなかった。


「ありがとうございます、ゼベルト様。それでは…。」

「ん?」

アニアがピアノの椅子から降りて、ゼベルトの片手を握った。

「こちらへ…。」

ゼベルトは片手を取られてピアノの椅子から降り、アニアに部屋のベッドまで連れて行かれた。

「ゼベルト様、ベッドに横になってください。」

「ああ…。」

言われるがまま、ゼベルトはベッドに仰向けに寝転ぶ。

「ゼベルト様、失礼しますね。」

アニアがゼベルトの上に馬乗りになった。

「アニア…?」

何かがおかしい。そう思ってもゼベルトの体は動かない。


「愛しています。」

アニアがゼベルトに口づけをした。湿った官能的な音が部屋に響く。体を火照らせ、涙を流しながら恍惚の表情をするアニア。対して、ゼベルトは底知れない背徳感と共に、不自然なほどに強い快楽を感じた。そしてその快楽による違和感がゼベルトを我に返らせた。

「退いてくれ、アニア…。」

「嫌です。今日だけ、ゼベルト様はアニアの物です…。」

泣きながら、アニアはゼベルトの要求を拒否する。

「ごめんな、アニア。」

ゼベルトは力任せにアニアを引き剥がした。ゼベルトの体質が作用して、アニアの使っていた『服従の呪術』が解けた。

「…申し訳ありません、ゼベルト様。私は、私は…。」

引き剥がされたアニアはベッドの端に座って、大粒の涙を流し始める。

「いや、俺も...。」

かけていい言葉が分からないゼベルトはアニアの隣に座り、彼女を抱きしめた。


「1週間前の夜、私はゼベルト様とフィリアル様の会話を盗み聞きしていました。ゼベルト様はそこでフィリアル様におっしゃっていましたよね。『一緒に逃げよう』と。あの言葉を聞いてから、私は苦しくて仕方がないのです。」

ゼベルトの腕の中にいるのは、貴族の令嬢でも、呪術使いでもなく、ただの恋する少女だった。


「たとえ、ゼベルト様がそのような選択をしたとしても、私は割れるほど歯を食いしばり、血が滴るほど唇を噛んで受け入れます。私にとっては幸いなことに、フィリアル様はその選択を拒絶していた。だからゼベルト様がどこかへ逃げることはないでしょう…。それでも、私はまだ不安なのです。」

アニアもゼベルトの身体を強く抱きしめる。


「『今回の戦いでゼベルト様に、もしものことがあったらどうしよう』と。フィリアル様が話していた通り、戦争では誰かが死にます。龍と相対したとき、私は無力で動くこともできませんでした。前回はなんとかなりましたが、今回は違うかもしれない。そう思うと震えが止まらないのです…。」

アニアの手も、体も、瞳も、心も、彼女の全てが恐怖で震えていた。


「今夜、ゼベルト様の弾くピアノを聴いたとき『最期かもしれない』と思ってしまいました。その恐怖心から、私はゼベルト様に呪術をかけてみました。もしゼベルト様が私に心を許してくださっていて、呪術が効くのなら、ゼベルト様が万が一死んでしまう前に、私の愛を全て伝えてしまおうと…。」

アニアは神に懺悔するように、ゼベルトに心情を打ち明けた。


「ありがとう、俺のことをそこまで想ってくれて…。でも、ごめんな、アニア…。正直に言うと、俺はまだアニアの愛を受け止められない。」

「はい、そうですよね。」

涙でぐちゃぐちゃの顔を無理矢理に笑わせるアニア。

「アニア、侵攻が終わって、俺とフィリアルの夢が叶った時、俺は絶対にアニアの愛に答えを返すから、その時まで待ってほしい。」

ゼベルトはアニアの肩に手を当て、アニアの赤い眼と自身の眼を合わせる。 


「その時まで、これからも俺の味方として戦ってくれないか、アニア?」

「はい、いつまでも貴女の味方のアニアです。」

ゼベルトの紺色の眼を見つめ返して笑い、ゼベルトの胸の中で泣き崩れるアニア。こうしてアニアはゼベルトに自身の愛の一端を伝えた。愛の全ては分かち合えなかったものの、二人は抱き合い、その夜を一緒に眠り、朝日を迎え、戦いに身を投じていくのだった。

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