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令嬢 VS 聖女

作者: ナハ子

pixiv様にも同じ内容のものを投稿しています。

 1


 私――ローラ・アシュレイは、今年からウィンテルワイズ魔法学院に通うことが決まり、最初のうちは期待と希望で胸を膨らませていた。

 私の生家であるアシュレイ家は高い家格と、それに相応しい優秀な魔術師を何代にも渡って輩出してきた名門一族だ。私はこの家名を誇りに思っており、この誇らしい家名に負けないようにありたいと、いつだって自己研鑽を怠ることなく、常に自分を高める努力をしてきた。その努力が実ってか、私も同年代の中では一番優秀であり続けた。一番を取る事で、両親や兄弟だけでなく、周りの大人や友人たちまで、皆こぞって私を聡い子だと褒めた。それが嬉しくて、私は更に努力を続けた。

 人に褒められるのは好きだ。褒められれば褒められるだけ、私という存在が認められた気がして、私という個を確立出来ていくのが実感できる。

 少しでも多くの人に褒められたい。皆に褒められるのはとても気持ちが良いものだ。

 だから、私は誰よりも努力をしてきたし、そのための努力ならば全く苦にはならなかった。


 魔術師の中でも優秀な者しかその門を叩けないと言われているウィンテルワイズ魔法学院に合格したことも私にとっては当然のことだった。両親や上の兄弟たちの卒業した学院であるため、私も必ずここに通うと、幼い頃から決めていたのだ。合格通知が届いたときは、当たり前という顔をしながらも、こっそりと喜んでいたが。

 しかし、問題はその先――入学のセレモニーで新入生徒主席として紹介されたのは私では無かった。つまらなそうな顔を隠そうともせずに学長からの称賛を受け取っている、聞いたことも無いような家名の彼女――名前はアン・サマーズというらしい。私はその様を遠くで見つめながら、心の中は荒れ狂い、とてもではないが穏やかでいられる事など出来なかった。

 自分が主席になると信じ切っていた私にとっては、まさに青天から稲妻が落ちてくる心地だった。期待に胸が躍り、華やいでいた気持ちは一転して陰鬱な靄に覆われてしまった。

 入学するのは当たり前で、その先が大事だったのに。この優秀な者だけが集まるウィンテルワイズで一番になってこそ、私だったのに。

 周りの子は皆、アン・サマーズに注目している。小声で、彼女を凄いと褒める者もいる。私が今まで受けて来た称賛を横取りされたような気分だった。

 私は井の中の蛙だったのだろうか。所詮、私が凄かったのは狭い世間だけで、精々子供の中だけだったのだろうか。周りで私を褒めていた人たちも、私がアシュレイ家の子だからそうしていただけで、この学院のように、本当に優秀な人間が集まる場所では、この私でさえも埋もれてしまうのだろうか。


 その暗い気持ちが余程表情に出ていたのだろう。共に入学した親友のマリー・クヮントが、私の様子に気遣わし気な視線を送っている事に気が付いた。

「どうしたの? 難しい顔して」マリーは心配するように言った。

 私は小さく息を吐くと、ある種の戒めを籠めて、敢えて正直な胸中を吐き出した。「いえ。このわたくしが、主席の座を逃すとは思っていなかったものですから」

 口に出してしまうと、猶更その事実を強く実感し、身に重くのしかかる。

「私もローラさまが一番になると思ってたから、驚いちゃった」

「入学して早々、憂鬱ですわ」私はため息交じりに言った。「入学試験のために、あれほど勉強しましたのに」

 私は更に険しい顔をしてしまったのだろう。マリーはそれを認めると、一段と穏やかな表情を見せて私の頭に手を遣った。

「よしよし」

 優しげな手つきが、二度、三度と髪を撫でる。この子はいつもそうだ。少しばかり私よりも背が高いからと、こちらを子供扱いしてはばからない。昔はそう変わらない身長だった筈なのに。いつごろからか、姉妹と間違えられるほどに差が開いてしまった。

 私はその腕を振り払って言った。「もう。子供扱いはよしてくださいませ」

 それでもマリーは一際相好を崩し、さらに私の頭を撫でようと手を伸ばしてきた。私もそれを防ごうと攻防を繰り返している内、こちらに近付いてくる人影が二つ――キャサリン・キッドソン、マーガレット・ハウエルの旧友の二人だった。

「ご無沙汰しております、ローラさま、マリーさま」キャサリンがそういうと、二人は揃って頭を下げた。

 久しぶりに会う友人の前でいつまでも落ち込んでいるわけにもいかず、私はゆっくりと息を吸って、襟を正した。

「キャス、メグ、お久しぶりです。ご息災のようで、安心いたしました」

 私がそう言うと、マリーも久しぶりの再会に喜んでいるようで、二人に笑顔で両手を振っている。

 マーガレットは私をじっと見ると、頭の一番上から爪先まで視線を移し、その後でにっこりと微笑んだ。「ローラ様も、お変わりがないようで安心いたしましたわ」そう言って、マーガレットは私の頭に手を伸ばした。

 また頭を撫でられる。私は頭を大きく振ってそれから逃れた。

「だから、子供扱いはやめてくださいませ!」

 その様子を見ていたマリーまで私を撫でようとしてきたり、キャサリンまで面白がって混ざってきたりと、結局、三人がかりで頭を撫でられ抱き上げられ、おもちゃのような扱いを受けるなどと散々な目にあっていた。散々な目だが――けれど、少しだけ心は軽くなっていた。


 この様な事で悩むのは私らしくない。アンという子の事も。

 現在の学年首席。しかし、それは現在だけだ。

 すぐに私がその座を奪い、私の下に跪かせてみせる。私は”ただの人”で終わるつもりは無い。この優秀な子が集まるウィンテルワイズで頂点を取ってこその私だ。その為の努力ならば、どれだけでも苦にはならない。


 2


 ――どうやら、私は負けてしまったらしい。

 貼り出された学力テストの成績を睨みながら、私は屈辱に震えていた。


 あれから、私は学年首席奪還を目指し、今まで以上に勉強に心血を注いだ。

 入学後しばらくしてから行われる実力テストにも万全を期して挑んだつもりだった。

 それなのに、今、私の名前の上には別の誰かの名前がある。

 アン・サマーズ――最早、この学院でその名前を知らない者はいないほどになっていた。市井の生まれながらも、稀有な力――聖女の魔力――を持って生まれた特別な子。

 私が勝ちたかったあの子は、”ただの人”では無かった。今では誰もが彼女を特別と認め、口々に称賛する。他の人の口から彼女を褒める言葉を聞くたび、私の胸中にはドロドロとしたものが渦巻いた。

 私が称賛を受けるのは、努力した結果だ。それなのに、あの子は優秀なだけではなく、聖女という特別な力も持っている。

 ――狡い。

 と、思ってしまった。そう思った後で、すぐにその考えが愚かだと思い直した。

 家柄、容姿、財産、服装――そんなものを褒められても、私は少しも満たされない。所詮親から受け継いだものでしかないからだ。私が私自身の努力によって得られたものこそ、褒められるに値する。聖女の力だって同じだ。仮に私が聖女の力を持って生まれたとしても、それを誇る事は出来なかっただろう。

 ならば、私に出来る事は、例え彼女が唯一であっても、変わらずに一番であり続け事。その為に今までと変わらずに己を研鑽し続ければ良い。そう思っていたのに――


 私は順位表をより一層の力を込めて睨んだ。何度見たって結果は変わらない。見間違いでもない。

 点数にすればたった一桁の差――とはいえ、負けは負けだ。

 ――悔しい。

 そんな感情がなみなみと、止め処なく内から湧いてくる。あれだけ努力をしたのに、それでも及ばないなんて。才能の差、聖女の力――そう言われてしまえばそれまでだ。いくら努力しても、その差は覆せない。


 不意に、頭に手を遣られる感触があった。

「よしよし、いい子いい子」マリーが私の頭を撫でながら、子供をあやすように言った。「次はきっと1番になれますわ」

「子供扱いしないでくださいませ!」私は手を上げて抗議する。

 しかし、マリーはニコニコと柔和な笑みを浮かべたまま、私の頭を撫で続けた。

「悔しいですわよね。今、どんな気持ちですの?」マーガレットが意地の悪い笑みと共に言った。

「最悪だったのが、たった今、これ以上ない程の最悪になりましたわ」

「泣かないでくださいませ、ローラさま。ほら、キャンディですわ」キャサリンが私にキャンディを差し出して言った。

 この子はいつもお菓子を持ち歩いており、何かにつけて私にお菓子をくれるのだ。

「泣いておりませんわよ!」

 とりあえず口では抗議するが、私は半ば諦めてキャンディを受け取った。この子たちはいつも、隙があれば私を揶揄って、どれだけ言い返しても余裕そうに笑顔を浮かべるばかりで、空気を叩くようなものだ。


 それよりも、今の私の関心はアン・サマーズにあった。私はあたりを見回して彼女の姿を探したが、どうやら、この場にはいないらしい。そもそも、彼女は一人でいる事が多い子だ。まともに姿を見かけるのだって授業中くらいで、空いた時間はどこにいるのか、何をしているのか、その姿を見かける事など殆どなかった。

 私は友人たちにアンの居場所を尋ねたが、揃って首を振ったので、「少し彼女を探してきます」とその場を後にした。この場にいても、最早馬鹿にされ続けるだけだというのもあったが、彼女と話がしてみたいというのも大きかった。

 私は当て所なく歩き回り、道すがら、彼女の姿を見なかったか他の生徒に尋ねてみても、はっきりと所在が掴めない。

 彼女は入学して早々に孤立していた。市井で育ったという事で扱いかねているのもそうだが、それ以上に彼女自身の性癖によるもの――厭人癖のようなものがあるのか、とにかく人と関わるのを徹底的に避けている節があった。

 純粋な興味や親切心からか――或いは将来聖女となる者と今の内に関わりを持っておくのが良いと思ったか――最初のうちは彼女を気に掛けてあれこれと話しかける者もいたらしい。しかし、そんな気遣いもどこ吹く風か、にべもない態度で返されるうちに皆諦めてしまった。

 生徒の大半が貴族という、それまでとは全く違う環境に気後れしているのかと思えば、そうでも無いという。我々に物怖じする様子もなく、それが当たり前だと言うかのように、ただ飄々と一人を貫いているようだ。

 そうして歩き回って、額に汗が滲み始めた頃、私は漸く彼女を見つけた。

 殆どの生徒が近付かない裏手の庭。一層木々が生い茂り、葉を透かす太陽の光と、少し湿っぽい土の香りに包まれる中――申し訳程度に備え付けられたベンチに腰掛けて本を読んでいた。

 なんとも絵になる光景だった。しなやかな四肢に、肩よりも少し短く切りそろえられた髪。手許の本に落とされた視線は、その長いまつ毛をより鮮明に際立てている。その整った顔立ちも含めて。もしかすると、令嬢達が当初、この聖女を構っていたのには、この容姿の所為も多分にあるのではないかと邪推してしまうほどに。

 ――綺麗な人。

 まるでオペラかバーレスクのズボン役のように、女性でありながら男性よりも魅力的に見えた。だからだろうか。私も少し緊張している事を自覚してしまう。

 私は小さく息を吸って、また吐いてから言った。「こんな薄暗がりで本を読まれては、目を悪くしますわよ」

 その声に反応して、顔は本に向かったまま、アンの視線だけがこちらに向いた。私の視線と、その流し目が合い、心臓がまた一段と調子を上げる。

「あなた、アン・サマーズさんですわね?」

「ええ、はい。そうですが――ええと――」私の言葉に、アンは視線を空に向けて、一拍置いて、また戻して言った。「――レディ」

 その言葉に私は唇を尖らせた。この子は私の名前を思い出そうとして、諦めたのだ。アシュレイ家は国内でも有数の貴族で、知らぬ者などいない筈なのに。私自身も、その優秀さでそれなりに名を馳せていると自負しているのに。

 彼女は今まで市井で暮らしていたため、その事情に疎いのは仕方がないのかもしれないが。それでも、この学院に入学した以上、私の名くらい知っていて然るべきだと思う。

 しかし、そんな事で怒っても仕方がない。私が長い時間をかけてまで彼女を探し回っていたのは、何も喧嘩をしたかったからではない。素直に彼女の優秀さを讃えるためだ。

「読書中でしたのに、突然、失礼いたしました。わたくし、ローラ・アシュレイと申します」私は笑顔を作って言った。「おめでとうございます。先日行われた実力試験、見事に首席だったようですわね。わたくし、負けるなどと思っていなかったものですから、正直に申しますと少し驚きました」

 私の言葉を聞いても、アンは得心がいっていないようで、不審そうに私を見るだけだった。

「本日から試験の結果が貼り出されているではありませんか」

「――ああ。そうだったんですね」ようやく心当たりを得たか、呑み込み顔になってアンは言った。「全然興味がなかったので知りませんでした」

 その、成績など気にしていないというような態度に、私は少し不快感を覚えた。これでは私が一人で勝手に敗北感を覚えているみたいだ。

「学年首席ですわ。もっと喜んでも良いのではなくて?」

「知っている問題ばかりだったので。進研ゼミでやったとこだ、ってやつです」

「しん……?」私は聞き慣れない言葉に首を傾げた。市井で流行っているものだろうか。そんな事よりも、と、私は右手を差し出して言った。「とにかく、あなたとは良いライバルになれそうですわ」

 この子は非常に聡明な子だ。この子と互いに切磋琢磨していけば、私は今よりもさらに成長できるだろう――そう思っていたのに。

「ならないと思いますよ。あまり興味も湧きません」

 その言葉に、私はいよいよ彼女に対して怒りを抱き始めた。「あなた、わたくしを馬鹿にしていますの?」

「してないですよ。本当に、興味が無かっただけです」

「気に入りませんわね。このわたくしに勝利したのですよ?」

「そう言われても、お嬢様の事、何も知りませんし」冷たい口調だった。

 その物言いに私の堪忍袋の緒もついに切れた。私の事を知らなかったのは、本当は非常に腹立たしいが、まだ許容できる。しかし、だからといって、一切知ろうともしない姿勢ははっきり言って気に入らなかった。この子は、最初から歩み寄ろうという気さえないのだ。あるのは、ただ冷たい拒絶の意思だけ。

 もしかしたら、過去に何かあったのかもしれない。家族関係や友人関係などで深く傷つけられて、人との交流を避けるようになったとか、そういう事情があるのかもしれない。或いは、突然聖女などと祀り上げられ、貴族の中に放り込まれた事に対するささやかなる反抗の意思だろうか。貴族と関わる気などないという、無言の意思表示として。

 けれど、そんな事はどうだっていい。私は私で、ローラ・アシュレイだ。その他大勢の中に入れられたくはない。それをこの子にわからせる必要がある。

「わかりました。次はあなたを下して、わたくしの名前を覚えさせましょう」冷たい瞳に向けて、私はそう言い切った。


 学院は中間試験の時期が近付いていた。アンは相変わらず、授業がない時は一人でいる。特に長い時間が空けば、あの裏庭で読書をしているようだ。

 私も殆どの休憩時間を勉強に充てているとはいえ、時折息抜きも兼ねてアンに逢いにここへ足を運ぶことがある。

 とはいえ、別に二人で一緒にいてすることがあるわけでもない。この子に話しかけたところで、返ってくるのは厭そうな表情と適当な返事だけなので、私も大抵の場合は挨拶を済ませると隣で大人しく教科書を読んでいるだけだ。

 わざわざこの場所に来る必要も無いと、自分でもそう思うが、確かにアンが入り浸るだけあって、落ち着く場所なのだ。自然の匂いが心地良くて、人通りも少なく、稀に男女の逢引現場に出くわして気まずい思いをする以外は、自分の時間を静かに過ごせる良い場所だった。

 しかし、今日はそんなのんびりとした休憩時間を過ごすつもりで来たわけでは無い。伝えるべき用件があって来たのだ。

 私は教科書を閉じ、コホンと咳払いを一つしてから、アンへと話しかけた。「そろそろ試験ですわね、サマーズさん」

「そのようですね」手許の本から視線を外さずにアンは言った。

 こちらに興味など持っていないような素振りもいつも通りだ。私は気にせずにさらに続けた。「あなたにもし、自信がおありならば――ひとつ、勝負をいたしませんか?」これほど綺麗なのに、可愛げなんてひとつもない横顔に向けて言う。「試験ですわ、サマーズさん。この学院では毎回、試験の度に一番から最後まで、しっかりと余すことなく、成績と順位が貼り出されますわね。それで、その試験で順位が下だったものは、上だったものの命令を何でもひとつ聞く。如何でしょう」

 面白い提案をしたつもりだった。ウィンテルワイズには生徒間で競わせることで成長させるという方針がある。そのため、頻繁に実力試験や魔技大会が開催され、都度順位が公表される。ただ私がこの子に一方的に突っかかるのでは面白くない。賭け事のような真似をするのは気が進まないが、しかし、こうして簡単な罰を設けて二人で競えばお互いに成長し合えると思った。

 しかし――

「お断りします」考える素振りも無く、アンは言った。視線は変わらず私には向けられていない。

「何故、断りますの?」

「逆にお聞きしましょう。何故、その様な事をする必要が?」

 こちらが質問しているのに、素気無い態度で返ってくる質問に、私は自分の目尻がぴくりと動いたのを自覚した。いや、しかし、こんな事でいちいち怒ってはいられない。この子がこういう子だというのは、存分に理解しているではないか。

 私は小さくため息を吐いてから言った。「坦々と点数比べをするよりも、少しは刺激的でしょう。こうして条件を付ける事で、お互い、本気にもなれますし」

 アンもため息を吐いた。本から視線を外さないまま。「わかりました。では、最初にわたしからのお願い事も一つ聞いていただけますか?」

「いいでしょう。お願い事とは?」思わず、弾んだ声が出る。しかし――

「わたしに面倒を言わないでください。例えば、勝負を仕掛けるとか、命令を聞かせようとするとか」

 本当に癇に障ることを言う子だ。苛立ちがどんどん募っていく。いっそ読んでいる本を奪って投げ捨てたくなるが、私は自分に言い聞かせるように、頭の中で「冷静に」と、何度も何度も思い浮かべた。

「わたくしから逃げるおつもりですか? 自分の実力に自信が持てませんの?」私はわざと煽るように言った。

 しかし、アンはそれを受けても、然程気にもしていない様子だった。「挑発しても無駄ですよ、レディ」面倒くさそうな様子で言った。「勝負とか、命令とか、そんな面倒な事をするつもりはありません。他の方を当たってください」

 他を当たれだなんて、この子は本当に人の話を聞いていたのだろうか。私より成績の良い子が他にいないからこうして勝負を持ちかけたのに。これ程言っても、こちらに一瞥も寄越さない様子に、いよいよ我慢の限界がきた。

「許しませんわよ、そんな事。必ずわたくしと勝負なさい」私はアンの顔に自分の顔を近づけると、声の調子を一つ上げて言った。「これは命令よ!」

 そこでようやく、アンの顔がこちらへ向いた。心底厭そうで、面倒くさい者を相手にしている、と思っているのが透けて見える様な表情と共に。

「勝負の前から命令しているじゃあないですか」アンは肩を竦めて言った。それから、うんざりしたような、大きなため息を吐いた。「わかりましたよ、我儘なマイ・レディ」


 3


 半ば無理矢理だったが、アンとの勝負の約束を取り付けられた私は、それから実力試験に向け、研鑽に研鑽を重ねた。空いている時間は全て勉強に費やし、実技に向けてより魔法を練習し、魔力を高める修行もした。一つの手抜かりも許されない。やや過剰とも言えるほどの取り組みに周りの者から心配の声がかかる事も少なくは無かった。

 しかし、今回は何が何でも勝つつもりだ。どれだけやってもやりすぎという事は無い。きっとアンが私にする命令は、「もう私に関わるな」とか、「二度と話しかけるな」とか、そのようなことに決まっている。そのようなものを聞くつもりは一切ない。だから何としてもこの勝負には勝たなくてはならない。そうでなくとも、アンだって私の命令を素直に聞きたくはないだろうから、きっと前回よりも本気で挑んでくるはずだ。それを上回るためには、こちらも死力を尽くす他ない。

 そして迎えた実力試験の当日、必死の努力の甲斐もあって、手ごたえは非常に良かった。後はアンの出来次第だ。どうやら、アンを見ている限り、彼女は知識量が豊富で、特異な魔法を使うことが出来ても、まだ実践の方は座学よりも少しだけ苦手なようだ。もっとも、それは飽くまで座学に比べて――というだけであって、そこらにいる者ではとても及ばないくらい優秀である事には変わりないが。

 しかし、私が付け入る隙があるとすれば、確実にそこだ。座学ではどうしても僅かに及ばないか、或いは良くても同じくらいにしかならないだろう。私が彼女に勝つには、実技分野で絶対に彼女を上回る必要がある。


「サマーズさん、本日は試験結果が出る日ですわよ。覚悟はよろしくて?」

 試験結果が貼り出される日になっても、アンは相変わらず裏庭で一人、結果などに興味も無いような素振りでいたので、私は半ば無理矢理引っ張るようにして、試験結果が貼り出されている廊下へと連れ出した。

 アンの手を引きながら、しかし、私はひどく緊張していた。初めて蒸気機関車に乗った時よりもずっと。何せ、今後の人生を決定付ける一戦になるのだ。ここでこの子に勝たねば、私は今後この子と関わることはなくなってしまうだろう。

 恐る恐る、下から順番に、ゆっくりと、一人ずつ――順位表に記された名前に目を通していく。

 ――どうか、アン・サマーズの文字が先に見つかりますように。

 たった数十人の名前の羅列に目を通す――僅かな時間で出来てしまうこと。それだけのこと。けれど、その僅かだけの間で、私は何度も神様に願った。

「へぇ」

 そんな折、隣でアンが小さく感嘆の混ざった声を上げたのが聞こえた。

 それがどういう意味で出たのか――私は覚悟を決めて、上位陣の方に目を遣った。

 先に見つけた名は――アン・サマーズ。そして、一番上には――アン・サマーズの上には――他の誰でもない、私の名前――ローラ・アシュレイと載っていた。

 今まで、様々なもので一番を取ってきたが、この日ほど一番を取れて嬉しいと思った事は無い。このまま踊り出したい程に。もしこの場で演奏が始まれば、私は隣にいるアンの手を取って踊り出していたかもしれない。

 良い気分のまま隣に立つアンの表情を盗み見ると、その視線は興味深いものを見るかのように順位表に注がれていた。

 悔しがっている顔を見られなかったのは少し残念だが、それでも留飲はかなり下がった。

「わたくしの勝ちですわね、サマーズさん」ふふふふん、と、私は嬉しさを隠し切れずに、喜色が声に滲んでいるのを自覚しながら言った。「お約束の方、もちろん覚えておりますわね」

 アンはため息を吐いて、観念したように言った。「お手柔らかに」

 私はアンに向き合うように彼女の前に立った。少しだけ目線を上げて、彼女の顔をじっと覗き込む。

 遂にこの時が来た。ずっと決めていた、私の望みは――

「わたくしの名前はローラ。アシュレイ家の長女、ローラ・アシュレイよ」私はアンの瞳を見つめ、ゆっくりと、子供に教え聞かせるよりもずっと丁寧に自分の名を口にした。この名前が、彼女の中に、深く、強く刻み込まれるように。「わたくしの名前を呼びなさい」

 私の名前を覚えさせたかった。私をその他大勢の中の一人ではなく、たった一人の個人として、この子に私の名を呼ばせたかった。私を、他の誰でもない――ただのローラ・アシュレイという個人として、目の前の少女に認めさせたい。

 アンは呆気に取られた表情を見せた後、すぐにけらけらと声をあげて笑い始めた。

 こんな彼女を見るのは初めてだった。いつだってつまらなそうで、全てを諦めたような表情をしていたのに。そんな彼女が声を上げて笑っている。

 私としてはそんなに可笑しな事を言ったつもりは無い。尤も、まともな命令をしたというつもりも無かったが。しかし、ここまで反応されるというのも意外で、私もどうしたものかと、ただ楽しそうに笑うアンを見つめていた。

 ――この姿を皆の前で見せれば、あっという間に人気が出そうね。

 彼女がこの様に笑う事を知っている者は、少なくとも学院では他にいないだろう。元々整った顔立ちをしているのだ。つまらなそうに顔を俯かせるよりも、こうして笑っている方が余程映えている。

 不意に、アンの笑いが止み、視線が私の瞳を捉えた。一通り笑い終えて満足したのか、それでも微笑みを湛えたまま。「マイ・レディ――いえ、ローラ様。まさか、わたしに名前を呼ばせるために、それだけのために頑張ったのですか?」

 ようやくアンの視線がこちらに向いたのだ。今までとは違い、しっかりと、私を認識して。

「ええ。ですが、これだけで満足するつもりはございませんわ」私も笑みを作って答えた。「次はより完膚なきまでに勝利して、いずれ、あなたをわたくしの眼前に跪かせます」

「面白い人――ローラ様。そうですか」アンの笑みが不敵なものへと変わった。「次の試験でも勝負いたしますか?」

「当然ですわ。たった一度、勝利したくらいで勝ち誇るつもりはありませんもの。何度だってあなたを下して差し上げます」

「負けた方は勝った方の言う事を何でも聞く、でしたね」アンは念を押すように言った。「本当に何でもよろしいのですか?」

「ええ、もちろん。わたくしに出来る範囲でしたら、あなたの望みを何でも叶えましょう」

「わかりました」アンはくすり、と一つ笑いを零して言った。「わたしも、少しはやる気が出ました」はっきりと雰囲気が変わったのがわかる。「次も同じようにいくとは思わない事です、と言わせてもらいましょう」

 この子が何か、よからぬ事を企んでいるというのは私にも感じ取れた。しかし、私はそれよりも、彼女がようやくその気になった事に対する嬉しさの方が勝っていた。

「望むところです。本気のあなたに勝たねば、意味がありませんので」私も胸を張ってそう答える。


 これが、私とアンの始まり。魔法よりも、奇跡よりも、ずっと複雑で、おそらく生涯にわたって私を悩ませ続ける彼女との最初の1頁だった。


 4


 アンとの勝負が決まったからといって、すぐに試験が始まるわけでは無い。いくらこの学院が成長の為に生徒同士で競い合わせるのを是としているとしても、そう頻繁に試験や魔法大会などが開かれていては、流石に学ぶ時間がなくなってしまう。

 アンと約束した次の試験まではしばらく時間がある。その間――

「ごきげんよう、サマーズさん」

「ローラ様、ごきげんようです」

 私はなんとなく、アンと一緒に過ごす事が多くなった。

 変化は少しだけあった。

 まず、アンがこちらに興味を示すようになった。いつものように裏庭へ行き、声を掛けると、顔を上げて私に挨拶を返してくる。一応、今までも簡単な上辺だけの挨拶は返してもらえてはいたのだが、それとは明らかに違う。しっかりと、私を認識した上でのあいさつとなった。

 雰囲気も少し変わった。本は開かれたままだが、顔をこちらに向け、まともな会話も出来る。少なくとも、彼女がいつも手にしている三文小説よりは、私の方に興味を向けてくれるようになったようだ。


 そして、いつものように裏庭でアンと過ごしていると――

「ローラ様、そろそろ次の試験が始まりますね」アンが余裕そうに言った。

「ええ、この時を待ちわびておりましたわ」

「わたしもです。わたしは名前を呼ばせるだけ、なんてぬるい事はしませんので、覚悟をしておいてくださいね」

 既に勝ちを確信している言い方だった。その不敵な態度に、私も強気に受けて立った。「そちらこそ。次はわたくしの名前以外も覚えてもらいますわよ」

 名前こそ覚えられたようだが、この子はまだ私のことをほとんど知らない。精々、”ローラ・アシュレイという名前で、そこそこ優秀な、有名貴族の令嬢”程度にしか思っていないだろう。それでは私を知っているとは言えない。この子にはなんとか私という個を認識させて、他のものとは一線を画した扱いにされなければ納得がいかない。

「名前以外?」アンは首を傾げた。

「家族構成、生年月日、来歴、将来の目標とか、好きなものとか、嫌いな食べ物まで全部。あなたには、私のことを全て知っていただきますわ」

 アンは僅かに頬を紅潮させたかと思うと、悩ましそうに右手を額に当てた。「盤外戦術はやめてください」

 言っている意味がわからなかった。これがどう盤外戦術になるのかも理解できない。私が怪訝な目をアンに向けると、彼女はため息を一つ吐いた。


 それにしても、私は彼女が勉強らしい勉強をしているところを見た事が無かった。私はこの場所に来ても、教科書を読んだり、単語を暗記したりと、少しの時間でも勉強に充てているというのに。対して、この子はいつも新聞や大衆小説、俗っぽい女性誌ばかりを読んでいる。

 本当にやる気を出したのだろうか。こうして見ている限り、以前と何も変わっていないように思える。

「あなた、やる気が出たとおっしゃっていた割に、そのような本ばかり読んでいて。次の勝負は大丈夫なのですか?」

 正直、これでは拍子抜けするような結果で終わるのではないかと思ってしまう。折角見つけた好敵手なのだ。お互いにお互いを高めあえる存在なのだ。そのような出会いは貴重なはずだ。この先の人生で、二度と巡り会えるかもわからない、運命の出会いなのに。

 このまま勉強もせず、才能を腐らせていき、良かったのは最初だけで、後は落ちていくだけ――なんて事になったりしたら、あまりにも勿体ない。もし、そうなった時は私が無理矢理にでも椅子に括りつけ、強制的に勉強をさせるしかないだろうか。そんな危惧をしていると――

「ご心配には及びません」アンはくつくつと笑い、挑発的な視線を私に投げた。「こうして余裕を見せていた方が、ローラ様が負けたとき、より悔しがってくれるでしょう?」

 どうやら、無用な心配だったらしい。

 アンの人を小ばかにしたような態度にも、最早何も思わなくなった。もともと慇懃無礼という言葉が最も相応しい子ではあったが、近頃は輪を掛けて酷くなっている。一応丁寧な言葉遣いをしている以外は全く敬意など感じない。私もいちいち怒ったりするだけ無駄だと悟ってからは何も言わなくなった。

 代わりに真正面から受けて立つ。私はふん、と鼻を鳴らして言った。「精々、御足もとにご注意なさい」


 アンの無礼な物言いは、却って私の闘争心に火をつけた。絶対にあの子の言う通りにはならないと。精々、結果を見てから私を本気にさせた事を後悔すると良い。

 しかし、実際に試験の結果が出てみれば――私は逆に思い知らされる事になる。人を小ばかにしたような軽口も、あの余裕な態度も、全ては自信の表れだったと。

 頂点にはアン・サマーズの文字。点数は満点。唯一の付け入る隙だった実技の試験ですら、今回は完璧にこなしてしまったようだ。私の名前はアンのすぐ下にあった。彼女には僅かに及ばず、ほんの1点の差――紙一重の差。しかし、その僅かな1点がとても遠くにあるように感じた。

「わたしの勝ちですね。ローラ様」

 隣でアンがにっこりと笑っている。

 私は順位表からそちらに視線を移した。

「お見事です」私は努めて微笑みを作って言った。「さぁ、どうぞ。何なりとお望みを申しくださいませ」

 何とか表面上は平静を保っているが、内心には悔しさの大暴風雨が吹き荒れていた。正直、今回はかなり手ごたえがあった。実技も座学も、前回の試験以上に良く出来たと自負していた。このまま今回も私が勝つものだと信じていたのに。

 アンは少し悩む仕草を見せた。そして、すぐにまた笑顔を見せた。

「ここは人目がありますので、いつもの場所へ行きましょう」そう言って、アンは私に手を差し出した。

 私は周りに知り合いがいないのを確認すると、少し遠慮気味にその手を取った。アンは僅かに相好を崩し、そのまま外へと歩きだした。


 連れてこられたのはいつもの裏庭だった。エスコートされるように手を引かれ、私に歩幅を合わせて歩くアンの少し後ろから、僅かに見える彼女の表情を伺う。

 ――一体、何をされるのだろうか。

 私の中に不安が過る。わざわざ人気のない場所に連れてきたのだから、人前ではとても出来ないような事をされるのだろう。しかし、彼女の、今のような――女性に対して適切な表現かはわからないが――紳士的な所作を見るに、あまり酷い事はされないだろうが。

 私が身構えていると、アンは私の手を握ったまま周囲に視線を一回りさせた。そして、そのまま――本当に、何の前触れもなく――私は抱き締められた。アンの身長は私よりも一回りほど大きく、こうして抱き締められると、私はアンの胸元にすっぽりと埋まってしまう。妖艶な香りが、私の脳にまで侵入してくるような心地だった。

「これは、どういうつもり?」辛うじて顔を上に向けて私は言った。

「ローラ様を抱き締めているのです」

「それはわかります。何故このような事を?」

 アンは私の問いに答えず、ただ私の頭を愛おしそうに撫で続けた。

「小さくて、可愛らしい」アンが私の首元に顔を埋めた。「それに、良い香り。なんという香水ですか?」

 ぞわっと、背中の方に鳥肌が立つ。アンの望みがこのような事だったのも意外だが、しかし、これは友人間のスキンシップと言うには、あまりにも――

 女同士だから良いという気持ちと、女同士だからこそという拒否感が同時に湧いてくる。アンが女でよかった。このような事をしても、仲の良い友人で済まされるから。しかし、女だからこそ、これは女同士ですべきことではないようにも思える。

「やめなさい!」

 私は強く言って、アンから逃れようとしたが、アンは私を離そうとはしなかった。

「やめません。敗者は勝者の言う事を聞く、ですよね」アンは毅然と言った。

 そう言われてしまえば、どうする事も出来ない。元々言い出したのは私なのだ。それを反故にするわけにもいかない。

 私はため息を吐いた。「お好きになさってくださいませ」諦めを多分に含ませ、そう言った。


 私は同年代の子に比べてほんの少しだけ小柄なので、その事から必要以上に子供扱いされて可愛がられたり、揶揄われたりすることが多かった。お兄様はいつまで経っても私を赤ん坊の様に扱うし、従姉妹のお姉様は気に入った服があるとすぐ私に着せたがる。私をお人形だと勘違いしているのではないかと思うほどに。いや、兄や年上の従姉妹だけならばまだいい。実際に私よりも大人なのだから。しかし、同級生や、果ては年下の従姉妹たちまで、そのように私を扱ってくるものだから、それが納得できない。

 最初、アンもそのような理由で私を抱き締めたりしているのかと思ったが、どうも、私に触れる手から、子供が人形を愛でるような、或いはペットを可愛がるような、その様な可愛らしいものでは無い事が伝わってくる。

 マリーは私のことをしきりに撫でまわしたがるが、アンが私に触れる指は、その時とはまた違う熱を帯びている気がするのだ。


 5


 あれから、私とアンは試験だけでなく、授業中の簡単な実践の度にも勝負をした。魔法薬を調合する授業があれば、どちらの品質がよりよいか、精霊を召喚する授業があれば、どちらがより強力な精霊を召喚できるか。何度も彼女と勝負をしては、私は今の所、一度も勝てていなかった。

 やる気が出た、というのも強ち冗談ではなかったようだ。本気のアンは一縷の隙も無かった。私がどれだけ万全を期して臨んでも、アンは常にその上を行く。私も遊んでいるつもりは無かったので、その差はいつだって僅かだったが、その僅かな差には、決して覆せないような大きな差を感じていた。それでも私は諦める事も、手を抜く事もしなかった。常に次は必ず勝つと、全力を以て挑んでいる。

 その結果、度々行われる実力試験の成績発表では、常に私とアンの名前が首位に並んで――1位アン・サマーズ、2位ローラ・アシュレイ。このような並びも、学院中の人にとっては見慣れたものになっていた。

 この学院が生徒同士を競い合わせてお互いを高める事を由としているのなら、その最たる成功例が私たちだろう。アンと私の差は僅かだが、私とその下の生徒の成績には大きな差が出来ていた。

 この結果に教官たちは喜んでいた。非常に優秀な生徒が二人も入ってきたと。皆、口々にアンを褒め、そして私も褒めた。それがアンのついでか、引き立てるために言われているとは思っていない。皆、私の事も本心から優秀だと思っているのは伝わってくる。

 しかし、それが逆に冗談では無いと私は思った。

 あの子に勝てたのは最初の一度だけなのだ。あの子が本気を出してからはただの一度も勝てていない。私を称えるのならば、私が彼女を下した時にして欲しい。

 いや、最早、他人からの称賛さえどうでも良いと思うようにさえなってきた。以前はあれほど嬉しく思っていた家族や友人、教官などの周囲の人間が私を褒める言葉も、今ではそれだけでは満たされなくなっていた。ただ一人、あの子を打ち負かし、あの子に認められることに比べたら――


「またわたしの勝ちですね、小さなローラ姫?」

「どうぞ、お好きになさってくださいませ」諦めを混じらせて私は言った。

 私の言葉に、アンはにっこりと笑って、私の手を取った。「はい。では、遠慮なく」

 もちろん、敗者は勝者の言う事を何でも聞くという取り決めもずっと続いている。アンのやる事はいつも決まっており、私を抱き締めたり、自らの膝の上に乗せてずっと髪を撫でたり、逆に私の膝の上に頭を乗せ、そのまま幾らかの時間を過ごしたりと、いまいち理解できないことばかりだった。

 今もアンは私の手を両手で包むように撫でている。愛おしそうに、じっと私の目を見つめながら。

 元々、この取り決めは私が言い出した事なので、私はこれを大人しく受け入れるしかない。この先も、何をされようと――その覚悟は済ませている。とはいえ、今のところは精々身体を触られるといった程度で、痛くされているわけでもなければ、そこに不快感があるわけでもない。寧ろ、アンがいつも私に触れる手つきはいつも優しげで、どこか心地が良く、ふわりと身体が浮くような穏やかなこの感覚は、嫌いではなかった。

 だから、私はほんの世間話をするような気軽さで尋ねた。「あなたって、そういう趣味がありますの?」

 その言葉に、彼女の身体が微かに跳ねたのを握られた両手越しに感じた。いつものようにシニカルな態度で皮肉の一つでも返ってくるものだと思っていたのに。アンは握っていた私の手を放すと、ばつが悪そうに目を伏せた。

「趣味と言うと、少し違いますが――」アンはそこで言葉を途切れさせた。目線を下に遣ったまま。そして、暫くすると、決心したようにまた口を開いた。「女性しか好きになれないんです。それこそ、きっと、生まれる前から」心なしか、その声は震えている気がする。「気持ち悪いですか?」

 どこか、諦めが含まれた口調だった。いつもの飄々とした態度からは想像できない程に弱々しげに、今はその瞳が不安そうに逸らされている。

 そういった趣向の者がいるのは知っている。貴族の中でも奔放な者は、お遊びで同性の使用人や娼婦と遊んだりする者もいるとも聞いたことがある。殆どの者は火遊び程度だが、中には本気になってしまうこともあるそうだ。

 口さがない貴族の中には、そのような者たちを指してあげつらったり、揶揄したりする者も少なくない。

けれど、私は――

「いいえ」素直な気持ちを伝える事にした。「その程度であなたへの評価が揺らぐこともありません。あなたの性的趣向が如何であろうと、わたくしはあなたの事を尊敬しておりますし、敬意を以て接する事に変わりはありませんわよ」

 力なく私に触れる手を、私は握り返した。これで伝わるかはわからないが、ほんの少しだけでも、この気持ちが嘘ではないと知って欲しかった。

 この子のこんな表情は見たくない。いつものように澄ました表情で、ともすれば人を小ばかにしているとさえ思えるような気侭さで振る舞っていて欲しいのに。

 私は握る手に力を籠めた。

 それから、アンは少しの間何も言わずに、ただ私の顔を見つめて、少しして、「意外です。恋愛は男女でするものだ、とか言われるのかと」言ってから、意地の悪い言い方で付け加えた。「ローラ様、頭が固そうですし」

「一言余計ですわよ」心外な一言に、私はため息を吐いてから続けた。「――わたくしたちは動物ではなく、人間なのですから。別に繁殖を目的としない恋愛があっても良いと思っただけです。繁殖を目的としないのであれば、そこに性別は関係してこないでしょう」

 私の言葉に、アンは目を見張り、驚いたような表情を見せた。そして、顔を伏せると、弱々しく言った。「ローラ様を愛している、と言っても大丈夫なのですか?」

「気持ちはお返しできませんわよ?」

「構いません。否定されなければ」

「でしたら、思うままになさってください」微笑んで、アンの頬を撫でた。「優美高妙、窈窕淑女たるこのローラ・アシュレイに惹かれるのも、無理はありませんからね」

 アンも安心したように微笑んだ。「ありがとうございます」

 頬に当てた手に、さらにアンの手が添えられた。温かなアンの体温に包まれ、私の手も緩やかに温度を上げていく。

 きっと、この子はこれまでも、幾度となく謂れの無い誹謗中傷や、好奇の視線を浴びてきたのだろう。同性に思慕を抱くという、それだけで。彼女の人嫌いもその辺りに起因するものなのかもしれない。それならば、私は少しでも彼女を理解してあげたい。傲慢かもしれないが、せめて私だけでも――

 そう思っていると、突然、強く抱き締められた。

「ひゃあっ」思わず妙な声が口を衝いて出てしまう。「な、何をしますの?」

「可愛らしかったので、つい」

「あ、あなたの趣向を否定するつもりはありませんが、わたくしにその気は全くありませんのよ?」私は取り繕うように言った。

「わかっています」アンの口調に明るさがまた戻った気がした。「だから、もう少しだけ――お願いします」


 その日の夜、私はいつものように参考書を開きながら、頭では違う事を考えていた。

 ――私は、アンに愛していると言われたんだ。

 あの時はあの子にあのような表情をさせたくなくて、その事ばかりに思考がいって、深く考える事は無かったが。

 ――恋。

 知識では知っていても、それがどういうものかはまだ経験した事が無い。小さな頃は「お父様と結婚する」なんて無邪気に言っていた事もあったが、それが恋だとは思えない。

 アンはきっと、本心で私の事を慕っている。けれど、それがどういう感情なのか、私にはいまいち理解できなかった。

 彼女に言ったことも私の本心だった。一般的には、結婚して、子供を作るのが恋の行き着く先だろうけれども、しかし、それだけが恋ではない気がする。何も人と人とが繋がり合うのに、子供を作ることを目的とするのが全てでは無いと思う。私たちは動物ではなく、人間なのだから。人間だからこそ、誰が誰を好きになっても可笑しくはない。

 気持ちを向けられるのは悪い気がしない。例えそれが同性からだとしても。やはり誰かに好かれるというのは自尊心が満たされるし、女性として肯定されている気がして素直に嬉しい。いつもされているような過剰なスキンシップも、女同士なら――アンが相手なら――悪くないとさえ思ってしまうが。

 しかし、その気持ちに報いることが出来るかはわからない。自分の気持ちさえわからないのだ。だから、無暗に期待を持たせるような事もしたくない。

 アンは良い友人で、ライバルで――後は、何だろうか。気に入らない所も少なくないけれど、それ以上の尊敬に、そして密かな憧れも抱いている。けれど、そこに恋慕の情は無い――と、思う。

 アンが私にそうするように、触れてみたい、抱き締めたいと思う事が恋なら、私はアンにそうした感情を抱いていない。アンから触れられるのは嫌いではないが、こちらからしたいと思った事は無い。

 男女の恋愛なら、もっとわかりやすかったのだろうか。もしもアンが男性だったなら、私はそれをはっきりと判断できたのだろうか。私もアンも女だから、友情や憧れとの境目が曖昧で、自分でも判断が出来なくなっているのだろうか。

 確率論、心理学、歴史書に古典文学、美術書、哲学書――今まで様々な本を読んできた。大抵の問題にはすぐに答えられる自信だってある。けれど、自分の気持ちにだけはいつまで経っても答えなんて出ない気がする。知識ばかりあるのに、最も身近なものが、何よりも一番わからないなんて。

 知らず、ため息が口を衝いて出た。頭の中がごちゃごちゃと混乱していて、このまま考え続けても余計に酷くなるだけだろう。ふと視線を落とすと、ほとんど手を付けられていない手許の参考書が目に入り、勉強中だった事を思い出した。今日予定していた箇所まで、まだかかりそうだ。


 6


「そういえば、噂になってたんだけど」マリーはそう前置きをしてから言った。「ローラさま、最近あのサマーズさんと、密かに仲が良いみたいだね」

 密かに、という部分に僅かな引っかかりを覚えながらも、私は頷いた。「ええ、まぁ、自惚れでなければ、良き友人関係であると思います」

「まぁ」キャスが言って、くすりと笑いを零した。「入学したばかりの頃は、首席の座を奪われたと泣いていらしたのに」

「泣いてはおりませんわよ!」思わず声を荒げるが、すぐに自分を落ち着けるように小さく呼吸をすると、「――彼女は非常に優秀な子なので、一緒にいると良い刺激になるのです。友人として、ライバルとして、お互いを高め合っておりますので」

「わたしもお話してみたい!」マリーが手を上げていった。

「そうですわね。よろしければ、ご一緒にお茶会でもして、親交を深めたいですわ」メグが言った。

 その言葉に、他の二人も賛同するように頷いている。

「それは――」私はそこで、なんとなく厭だ、と思ってしまい、すぐに言葉を続ける事が出来なかった。一拍置いて、冷静になると、彼女と私の友人たちを引き合わせることに問題などないことに気が付き、続けた。「わかりました。彼女は、その――ご存知かとは思いますが――厭人的な嫌いがありますので、断られるとは思いますが、一応、声はかけてみましょう」

 皆の手前、前向きな返答をしたが、心の中ではどこか断られると良いと思ってしまった。アンが孤独であればよいなんて、そんな事は思っていないつもりなのに。

 楽しみだ、と声を弾ませるマリーたちを見ながら、あの子の、他人になど少しも興味がないとでも言いたげな、つまらなさそうに伏せられた表情を思い出した。アンがこの子たちに合わせて笑っている姿を想像できない。できないが――近頃は、私に向けられる表情が、少しは楽しそうに見えるのだ。もしかすると、彼女も少しは変わってきたのかもしれない。けれど、それが他の子にも向けられるというのは、何故だか胸にちくりとした痛みをもたらす。

 仮にアンに友人が増えるのなら、それはよい事だと思うのに。あの子がその程度で成績を落とすようなことになる子ではないというのはよく理解している。それならば、何故――と考えて、すぐに答えは出てきた。私はアンと二人で過ごす時間を気に入っている。アンに新しく友人が出来る事で、その時間が減ってしまうのではないか、と勝手に危惧しているのだ。そして、他の人には見せないあの表情を、自分以外にも向けられるのが厭だった。まさか、私が友人に対してそんな独占欲を抱いてしまうなんて。自分の心がこれほど狭かったものだとは思わず、胸に靄がかかったような心地だった。


 アンと二人きりになれば、先日マリーたちから言われたお茶会の件がずっと引っかかり、どう切り出したものかと、ずっと機会を伺っていた。

 視線が合い、咄嗟に逸らしてしまう。別にお茶会に誘う事を躊躇しているわけではない。断られたって、元よりこの子が参加をしたがるとは思えなかったし、そもそも、私も乗り気では無かった。

 しかし、思えばアンとはこうして空き時間に裏庭で自然と集まる以外に、二人で過ごした事なんてないのだ。他の友人とそうするように、お互いの寮の部屋に行き来したり、休みの日はどこかへ出かけたりといったこともない。そう思うと、少し寂しいような気がした。

 休みになれば、彼女を誘って出かけるのも悪くないかもしれない。いつも本を読んでいるが、観劇には興味があるのだろうか。或いは、演奏会や買い物巡りなどだろうか。いや、この子のことだから、どこかに出かけるよりも部屋で過ごしたがるかもしれない。それはそれで悪くないのだが、いつもと変わらないようで少しつまらない気もする。

 あれこれと頭の中で計画を立てて、私は本来の目的を見失っていることを思い出した。今はお茶会の件だ。

「そういえば」と、わざとらしく今思い出したようなふりをして、本題を切り出した。「わたくしの友人が、あなたをお茶会に招きたいそうなのですが」

「お茶会?」アンは少し間を置くと、首を傾げた。「わたしの態度が気に入らないと、糾弾でもするつもりでしょうか」

「そのような事をする子たちではありません。純粋に、あなたと親交を深めたいのですわ。わたくしの古くからの友人たちですから、その点はご心配には及びません」私は言ってから、どうせ断られるのだろうと、早々に話を切り上げようとした。「もちろん、あなたの気が乗らないのであればお断りしておきますが」

 しかし、裏腹にアンは考え込むような素振りを見せていた。少しして、笑みを浮かべると、「良いですよ」と、耳を疑うことを言った。

「どういう風の吹きまわしですか?」

「ローラ様のご友人からのお誘いでしたら、無下にはできないでしょう」

 今まで私以外の誰とも関わろうとしなかったこの子にも、何か心理的な変化が訪れたということだろうか。それは歓迎すべきことなのだろうが、素直に喜べない気持ちもある。

「あなたがお厭でなければ、よいのですが」なんとも釈然としない気持ちのまま、私は呟いた。

 それを聞いてか、アンの笑みは一層妖しげなものになった。「――次回の召喚学基礎は、実技でしたね」


 後日、以前言っていた通りに友人間でのささやかなお茶会が開かれた。アンの参加を伝えると、マリー、キャス、メグの3人は非常に喜び、すぐにでも――という事で、私の部屋に皆を集めていた。

 ――アンの膝の上に乗せられ、後ろから髪を撫でられながら。


「仲がよろしいとは聞き及んでおりましたが、噂以上によろしいのですね」マリーは微笑ましいものを見るような表情で言った。

 それを聞き、アンはまた一度、指で私の髪を梳かした。「ええ。ローラ様には、いつも楽しませてもらっております」

 この様な状況に甘んじているのにも理由がある。

 先日の召喚学基礎の授業での実習、アンは私に勝負を持ち掛けてきた。勿論、私は一も二もなく即座に受けたのだが、結果として、よりよいエレメンタルを召喚したのはアンの方だった。しかし、アンはいつものように、すぐに私を言いなりにするということはなかった。「楽しみはとっておきましょう」――そんな言葉と共に、何かを含ませたような、不敵な笑みを浮かべるだけだった。

 そうして、今日のお茶会が始まる前、遂に彼女から言われた命令は――お茶会中、何をされても大人しくしている、というものだった。もちろん、最初は非常に警戒した。皆の前で恥をかかせるつもりではないかと。しかし、やはり一度言い出したことを反故にするのは私自身納得がいかないので、あまりひどい事はしないように、とだけお願いして、大人しく受け入れる決意をした。この子が人を陥れる事に喜びを感じる様な人では無いと、今まで関わってきた中で十分に知っていたというのもあるが。

 その私の見立ても、半分はあたりだったようだが、もう半分はどうだったのだろうか――結果として、こうして私は、いつも二人きりの時にされているような事を、皆の前でされている。

 アンはもう一度、自分の指に私の髪を絡ませるように梳くと、嬉しそうにくすっと笑いを零した。


 マリーたちはそんなアンの様子に、まるで幻影でも見たかのような表情で目をしばたたかせていた。無理もない。いつも無表情で、つまらなそうにしている彼女が、このように笑っているのが珍しいのだろう。私にしても、この子が他の子の前でもこうして感情を顕わにするとは思っていなかったので、少し意外に思っている。

 とはいえ、ずっとこの状態を続けているわけにもいかない。今日、私たちが集まったのは、このばかみたいな姿を皆に見せるためではない。

 私が、こほん、とわざとらしく咳をしてみせると、頭に乗せられていたアンの手がお腹の方に回った。私はそれをきっかけに小さく息を吸った。「わたくしのこの状態は、どうかお気になさらず」なるべく優雅な笑顔を作る。「それよりも、アンと3人は初めてでしたわよね。紹介いたします――」

 そうして、マリー、キャス、メグをアンに紹介すると、次はアンを皆に紹介した。紹介が終わると、私のお腹に回されていた腕の力が、一層強くなった。

「この度は、急なお誘いにもかかわらず、お越しいただきありがとうございます」キャスが言って、メグもそれに同調して頷いている。

「でも、嬉しいですわ。こうしてアンさんとお近づきになれるだなんて」

「そうそう。女生徒の間では、密かに人気なのよ?」マリーは嬉しそうに言った。「成績優秀で学年首席、なのに偉ぶることもなくて、授業中以外は姿を見せないのもミステリアスで良いって。それに、見た目だって、そこらの男の子よりも素敵だもの」

 キャスとメグもそれに同調して頷いている。

 私は振り返るように後ろ目でアンを睨んだ。

 ――やはりこの子は気に入らない。

 成績優秀だって、学年首席だって、本来は私のために用意されていた言葉だったはずなのに。それに、密かに人気とか、男性よりもずっと素敵なんて、それも気に入らない。そんなこと、今更言うまでもなく、思い知らされているのに。

 困ったように微笑んでいるその表情が、あからさまに喜色や下心が浮かんでいない事には少しだけ安心したが。

「皆様にそう思って頂けているのでしたら、それは大変光栄なことです」アンは慇懃に言って、作り笑いを浮かべた。「ですが、ご期待にお応えすることは難しいかもしれません」そして、私の手を取ると、そっと口を付けてから続けた。「わたしの愛は、全てローラ様に捧げておりますので」

 息が止まるかと思った。確かに、あの時、私を愛していると言っても良いと言った。だが、時と場合を考えずに、とまでは言っていない。

「あ、あなた、そのようなことを軽々しく――」私は思わず立ち上がりそうになるが、まだ私の手を掴んだままの手と、腰から回された腕に、それは許されなかった。

 ――だ、め、で、す

 私だけに聞こえるように、アンの口が動いた。

 首筋に吐息がかかる。私とアンの距離は、先ほどよりもずっと近くなっていた。背中に当たる柔らかな乳房から、その鼓動まで感じ取れるくらいに。体温が、私の中に流れ込んでくるのではないかと錯覚してしまうほどに。

「まぁ!」喜色を含んだ声が聞こえてきた。「お二人は、そこまでの仲なのですか?」

 マリーが両手を合わせたようなポーズで喜んでいる。他の二人にしても、色々と聞きたそうな好奇心に満ちた視線をこちらに向けている。

「違いますわよ!」

 あらぬ誤解を受けそうになり、すぐに正そうとするが、アンは含みのある笑いを浮かべ、もう一度私の髪を撫でた。

「悲しい事に、まだ、片想いなのです」まだ、の部分が強調されている。

 再び黄色い声が上がる。今後、このことで揶揄われ続けるのだろう。しかし、気持ち悪いと言われるよりはずっと良い反応だ。あまり本気と捉えていないか、或いは、女同士だとか関係なく、この子たちにとってはただの盛り上がる話題に過ぎないのだろう。その事に少しだけ心が軽くなる。


 その後もお茶会はつつがなく進んでいき、丁度良い所でお開きとなった。その間、私はずっとアンに抱きかかえられており、時折、皆に見せつけるように、過剰に触れられることもあった。

 皆が帰った後、私はアンを睨んで言った。「どういうつもり? 皆の前で、あのようなこと」

 凡その察しはついている。おそらくだが、この子は他の子に見せつけたかったのだ。どこかで私とマリーたちが仲良くしている様子を見られたのかもしれない。最初に引き合わせたときに見えた、作られた笑顔の中に、少しだけ険が含まれているのを私は見逃さなかった。飄々としていて、いつも達観したような素振りを見せながらも、意外な嫉妬深さも持ち合わせているようだ。もっとも、私もアンが他の子と仲良くなることに少しだけ不安を覚えていたのだが。けれど、それは良いとしても、本当にそのような関係だと誤解されたらどうするつもりなのだろうか。

「お厭でしたか? 愛を囁かれるのは」アンは事もなげに言った。

 鼓動が自分でも理解できる程に調子を上げている。本当に、心臓に悪い子だ。恋人同士でもないのに、簡単に愛を口にする。はしたなくて、軽い。それなのに、そういった科白を吐くのが、やけにさまになっている気がして、私を惑わせる。

「い、厭ではありませんが――」私は口ごもったように言った。「――時と場所を、お考えくださいませ!」

 アンの笑顔が、より際立つものになった。「では、これからは二人きりのときだけにします」

「そうしてくださいませ」そう言おうとして、すぐに思い直した。アンに負け、一方的に愛でられることに慣れすぎて、あまりにも素直にそれを受け入れようとしてしまった。

「そういう問題ではありません」私は首を振って、ため息と共に吐き出すように言った。

「残念です」とても心からそう思っているとは聞こえないふうにアンは言った。

 それでも、どこか優しげな視線は、なおも深く私を捉えていた。


 7


 ふと気を抜くと、すぐにアンの事を考えてしまう。そんな日々が続き、私は集中力というものを全く欠いていた。ペンを手に取っても、気が付けば頭の中にはあの子がいる。人を馬鹿にしたように笑う顔が忘れられなくて、私に触れる手の感触が忘れられなくて、何度もリフレインして――

 そこで、私は頭を何度も振った。先ほどからずっとこの調子だ。もうすぐ試験なのに。

 魔法薬のレシピを眺めながら私は指で机を叩いた。何度も、規則的に。

 ――集中しよう。頭の中でそう自分に呼びかけた。今はとにかく、アンのことを頭から追いださなければならない。

 一度大きく息を吸って、また吐いてから、レシピに書かれている内容に視線を戻す。そういえば、一度、授業であの子と素材の採集に出かけた事があった。その時には既に彼女も魔法の扱い方が私と同じくらいに巧妙になっており、さながら私を守る騎士にでもなったかのように手を引き、先導して危険から守ろうとしてくれていた。

 しかし、いくら魔法の腕を上げたからといって、私よりも上になったつもりなのが気に入らなかった。私も自分の身くらい自分で守れると、その時は張り合うように前に出ていた。もっとも、確かにアンの所作には優美で洗練された格好良さがあったし、密かに彼女の魔法の使うさまを真似したこともあったが。


 一つ目の材料を書かれている分量通り用意したところで、私の頭の中はまたアンに支配されていた。


 私自身がそんな有様なのだから、試験の結果もそれ相応の酷い有様だった。試験内容が普段よりも難しかったらしく、全体的な点数が低かったこともあって、辛うじて次席ではあるものの、こんな成績では決して誇れたものではない。いつもは僅差で競り合っていたアンとの点差も、今回は大きく開いていた。

 難易度が高かったとか、平均が低かったとか、そんな事は全く言い訳にならない。アンはいつも通り、殆ど満点を維持しているのだから。つまり、これは完全に私の手落ち。気が抜けていたとしか言いようのない不出来だ。


 隣で一緒に結果表を眺めているアンの、その表情を伺うのが怖い。もしも、がっかりしたような、失望した表情をしていたら――このような体たらく、この子の前だけでは見せたくなかったのに。何を言いつくろえば良いのかはわからない。今日はたまたま無様な姿を見せたが、次は必ずあなたに勝ってみせると息巻いて、だから私に失望などするなと縋ってみれば良いだろうか。それとも、言い訳をすれば良いだろうか。あなたの所為だわ、あなたのお陰で勉強が全く手に付かなかったの、なんて、全くお門違いな、八つ当たりのような言い訳を。そんな事、なんとも惨めで、言えるはずもないのだが。

 ゆっくり、ゆっくりと、視線だけを動かして、横に立つアンの表情を盗み見る。

 アンも私の方に視線を向けていた。その瞳にはどこか楽しそうな色が浮かんでいるのがわかる。

 想定していた反応とは違っていた事に、私は少し拍子抜けした。お互いに視線が交差する中、アンの笑みが一際深まった。

 何を考えているのだろう。その、心の底から溢れ出すような笑みからは、彼女の心は想像できない。ひとまず、私に失望するとか、点数が低かったことに嘲笑を浮かべているのではない事はわかる。或いは、単純に、いつものように私に勝てた事が嬉しいのか――

「誘っているのですか?」

 私の思考を裂くように、突然、そんな事を言われた。

「は?」

 何を言っているのか理解できず、間の抜けた声を出した私に、アンはさして気にする様子もなく私の手を取った。思わず心臓が跳ねる心地になったのは、いつもよりも強く握られたからだろうか。手のひらに熱さを感じるのは、私の体温か、それともこの子によるものなのか。

 私は戸惑ったまま無遠慮に手を引かれて歩き始めた。この子の手を握るのも、もう何度目かもわからないくらいなのに、何故だか、今回はいつもとは違った雰囲気だった。

 周りの目も気にせず、アンは妙に早足で、気持ちが逸っているかのように私の手を引いていく。少し歩いて、すぐにいつもの裏庭へ向かっているのだとわかった。いつもよりもずっと強引に、ともすれば、半ば無理矢理に。私は付いていくのが精いっぱいで、少し大変だった。

 裏庭に来ると、アンは私をベンチに座らせた。少し湿った木材の感触がドレス越しに伝わる。警戒した視線をアンに送ると、彼女は私の前にしゃがみ込んだ。

「ローラ様。これでも、わたしは我慢というものを知っているのですよ」アンは私を見上げるように言った。「ローラ様がその気は無いとおっしゃるから、わたしも抑えていたのに」そして、少し間を置いて、「これでは、もっと踏み込みたくなるではありませんか」

 アンは身体を起こすと、そのまま私の首元に唇を付けた。手は胸元に添えられている。唇を付けられている箇所が熱い。ぴりぴりと、背中に心地のよい電流が流れる。

 息を吸えば、蠱惑的な香りが鼻をくすぐる。このまま委ねてしまっても良いと思えるほどに。しかし、すぐにそれを否定する。流されては駄目だ。

「な、何を言っているのですか!」私は言った。アンの身体を押し戻し、「とにかく、落ち着いてください」言ってから、私自身も静かに深呼吸をした。

 冷静さを失っていると思っていたが、意外にも素直にアンは身を引いた。その様子に、安心して一息吐くと、アンが不満そうな瞳を寄越してきた。

「いつものローラ様でしたら、もっと良い成績だったはずです」アンは怪訝そうに目を細めて言った。「わたしにこういうことをされたくて、手を抜いたのでは?」

「違いますわよ!」私は即座に否定した。

 当然、私は負けたいと思ったつもりなどこれっぽっちも無い。少なくとも試験には全力を以て挑んだのだ。ただ、些か集中力を欠いていただけで。

 私の実力がこの程度ではないと理解されていたことは素直に嬉しいが、この私が勝負事で手を抜くと思われていたのはどこか複雑な感じだった。もっとも、そう思われるのも無理がない結果だったのだから、申し開きのしようもないのだが。

 私は少しの間、アンの顔を見つめていた。「――あなたのせいですわよ」言ってしまった。こんなものは開き直りで、単なる八つ当たりだ。それは理解している。しかし、止められるものでもなかった。「あなたの事を考えて、勉強も手に付かなくなって、近頃は何をする時でも、あなたの顔ばかりが浮かんでくるのです!」

 それを聞いて、アンは困ったように眉を上げた。流石に言いがかりが過ぎたようで、彼女も困惑しているのだろう。しかし、自分でも理解していながら、言わずにはいられなかった。

「申し訳ございません」私はすぐに謝罪した。「今の言葉は――」

「わたしの事、好きなんですか?」私の言葉を遮って、アンが言った。

 この子は何を言っているのだろう。何故そこまで話が飛躍するのか理解できず、私は首を傾げた。「今の話を聞いて、どうしてそうなりますの?」

「今の話を聞いていると、そうとしか思えませんが」アンは呆れ混じりな様子で言った。

「好き」アンの言葉を反芻するように呟いた。

 その言葉の意味が友愛を指していると思えるほど、私も鈍感ではない。

「わたしに手を握られて、どう思いました?」

 私はその時の事を想起した。最初は少し驚いたが、決して厭では無かった。アンの暖かな体温を感じられて、それが心地よくて――「悪い気はしませんでしたわ。それに、少し胸が温かくなりました」

「抱き締められた時は?」続けて聞かれた。

「少し恥ずかしく、心臓が鼓動を早めているのを自覚出来ました。それなのに――矛盾するようですが――あなたの香りに包まれていると、その、落ち着きました」

 アンの表情は、ますます呆れの色を濃くしていく。額からこめかみにかけて抑えるように手を当て、難しそうな顔で目を瞑っていた。

「一人でいる時とか、わたしの事を考えたりします?」

「だから、そのせいで勉強が手に付かなくなったと言っているではありませんか。あなたに会えない時間は何故かもどかしく、あなたを思うたびに胸が締め付けられる心地なのです。今は何をしているのだろうと気になったり、あなたの気持ちが知りたくなったり――美味しいものを食べたとき、真っ先に思い浮かぶのはあなたの顔です。美しい景色を見つけたときは、次はあなたと一緒に見たいですし、花が綺麗に咲いていたなら、あなたに贈りたいと思ってしまいます。それから――」

「ストップ」再び言葉を遮ってアンは言った。まだまだ言いたいことはたくさんあるのに、アンは手を前に突き出して、私が話すのを止めようとしている。よく見ると、呆れたような表情の中で、その頬がほんのりと赤くなっている気がする。「自分で言って、それでも好きじゃあないと?」

 人間的には好きだというのは間違っていない。様々な能力において非常に優れているのは間違いないし、その上で努力を怠ることも無い。私との勝負の時だって、いつも本気で、一度だって手を抜かなかった。その点も好感が持てる。見目も、そこらの殿方よりもよほど格好いいと思う。総合的に見て、非常に好ましい人物だ。けれど、この場合、アンが言っているのは、恋愛的な意味の――愛し合う恋人同士で生ずるような――情愛として、ということなのだろう。私はその意味でアンを好きかはわからない。確かに、最近はアンに見つめられると胸がドキドキするし、触れられると体温が高まるのも自覚しているし、他の令嬢や令息達に声を掛けられているのを見る度に何故か説明のつかない焦りや苛立ちが湧いてくるし、会えない時間に比例するようにアンの事を考える時間が増えていったのは確かだが。

「わたくしは、あなたの事を友人として、ライバルとして、尊敬しておりますし、好ましくも思っておりますが、それはあくまで友愛でございまして、あなたと恋愛的な関係になりたいとは――」

「では、ローラ様」また遮るようにアンが言った。

 アンの顔がすぐに傍まで近付いてきた。視界の端に映る形の良い唇が、何故か妖艶に揺らめいて見える。少しずつ、少しずつ――いつしか、小指の先くらいの距離まで。唇は少しずつ迫ってくる。見える所にあった唇も、今は気配でしか感じ取れないくらいまで。微かに漏れる息がそっと私の唇を撫でる。くすぐったいが、厭な気分ではない。

 時間にしてはそれ程経っていない。しかし、やたらと長い間そうしていたように感じる。一つ近付くたび、心臓の音が調子を上げる。

 流石にこれは度を越している――そう頭ではわかっているのに、避けようと思っても身体は動かず、止めようと思っても心のどこかでこの先を知りたいと期待する私がいる。

 私は目を閉じた。口付けをするときはそうするものだと、以前何かで読んだことがある。そろそろ息を止めているのも苦しくなってきた。まだかしら、まだかしら――唇に何かが触れた。けれど、想像していた感触とは少し違う。少し冷たい。思わず目を開けて確認すると、あれほど近くにあったアンの顔は再び離れ、唇にあったのは私が望んでいたものでは無く、人差し指の先だった。

「やっぱり、わたしの事、好きなんじゃあないですか」アンはくつくつと笑って言った。「顔、すごくがっかりした表情になっていましたよ」

 言われて、私は自分がアンの唇を望んでいたことに気が付いた。あの唇を――私の名前を呼んでくれるくちびるを。アンと口付けを交わすのを。

 心臓の音が煩い。

 ――そうか、これが。

 一番になりたいとはずっと思っていた。けれど、特定の、たった一人だけの一番になりたいと思ったのは、これが初めてだった。この子の一番であり唯一の人になりたい。強引に引き寄せられて、苦しいくらいに強く抱き締められて、淫らに唇を奪われてしまいたい。

 これが恋――人を愛しいと思う感覚。


 気が付いてしまえば心地のよいものだった。

 ぬるま湯が身体に沁み込んでいく感覚。さわやかな風に身体を曝し、甘い蜜に味覚を委ねる感覚。胸の奥から止めどなく熱が溢れてくるのに、行き場がわからずにずっとくすぶり続けている感覚。暗闇に月が現れる感覚。一番深い夜に部屋に差し込む月の光のように、温かく、それでいてどこか素気無さも感じさせるような不思議な感覚。


 私を見つめる青い瞳が、一層色を濃くした気がした。今まで何度もこの視線を受けて来たはずなのに。精緻なガラス細工よりもずっと美しく輝いている様は、それまでとは全く違ったものに見える。

「今回の勝負、わたしの勝ちでよろしいのですよね?」アンの声が聞こえる。

「そう、ですわね」私はただ形だけの返事を返した。

 まだアンの勝者の望みを聞いていなかった。またいつものような事をされるのだろうか。今回はもう少し進んだことをしても良いのに。先ほどの続きだって……

 想像して、背中に電気が走る心地がした。

 私の内心を見透かしてか、アンはくすりと笑った。「では、勝者の権利として――ローラ様。わたしにローラ様の望みを――本心を――包み隠さず、正直に教えてください」

 敗者は勝者の言う事を何でも聞く。私の言い出した事だ。それに逆らえるはずも無い。

 私は一度大きく息を吐くと、落ち着いて、自分の望みを整理した。

「あなたに、求められたい――」私はアンの袖を引き、顔を見上げるように見つめて言った。「――あなたの、ただ一人の愛しい人になりたいのです」

 アンの瞳が妖しく光った。両手の細い指が 私の指の間に入り込んでくる。きゅっと握られると、それを合図にしたように私は目を瞑った。

「誰よりも愛しい、私のローラ様」

 アンのくちびるが、私のくちびるにぴったりと重なった。


 オワリ

〇ローラ・アシュレイ〇

 名門貴族アシュレイ家の長女として生まれたローラは、その家名に相応しくあるように常に己を高める努力をしてきました。彼女にとって、努力はそれ程苦ではありません。努力の結果が目に見える形で表れる瞬間が好きで――そして、何よりも、それによって皆から受けられる称賛が心地よいからです。

 見た目は非常に小柄で実際の年齢よりも幼く見えるローラですが、賢く、機転も効き、他人の気持ちにも聡く、よく気配りの出来る聡い子です。しかし、自分の気持ちにだけは鈍感で、特に思慕の感情をよく理解できていません。


〇アン・サマーズ〇

 アンは天才です。ただし、変わり者でもあります。

 花というにはあまりに凛々しく美しい容姿は、男女問わず、見るものを虜にしてしまいます。しかし、鳥のように自由を愛する彼女を捕まえるのは、きっと容易では無いでしょう。

 風のように掴みどころがなく、月のように孤独を望む彼女ですが、それは繕った仮面に過ぎず、実際の彼女の内面には様々な感情が渦巻いており、本当は誰よりも寂しがりで、他人を求めているのです。


〇ウィンテルワイズ魔法学院〇

 ウィンテルワイズを擁するモール王国は小さな島国ですが、この学院の存在がその名を世界に大きく知らしめています。王都の中心に建てられたこの学院は、モール王国のみならず、世界全体で見てもあらゆる魔法学問の中心機関となっています。魔法を覚えたばかりの若い魔術師が真っ先に考えることは、”ウィンテルワイズ魔法学院に入学したい”です。

 ウィンテルワイズでは最初の一年目を共通のカリキュラムで基礎的な教育を受け、それを終えると、より実践的で専門的な魔法を学ぶため、それぞれが希望するカレッジへと進みます。

 ウィンテルワイズは複数のカレッジを擁しており、ローラやアンが進学する予定のヒーリマギア・カレッジでは魔法薬学、医療魔法学を学べます。他にも、古代魔法学、魔法史学、魔術書学を学べるオウルダム・カレッジや、精神魔法学、魔法哲学、魔法心理学を学べるアーケインド・カレッジ、魔法道具学、魔法考古学を学べるエアテリアル・カレッジ、魔法芸術学に強いディープレス・カレッジなどが存在し、生徒は皆、それぞれが学びたい分野に合わせてカレッジを選択します。

 校訓は「争い育つ英知」で、危険な事を除き、生徒間で競い合う事を推奨しています。

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[良い点] ノンケの超ニブ令嬢が恋に落ちた相手は? ゆっくり恋に落ちる様がよかったです アンの我慢は大変だっただろうな むしろ両想いになってからが本番か? 無自覚に誘惑してきそうw [気になる点…
[一言]  面白かったです。ものすごく丁寧で上品な物語だと思います。  女性同士の恋愛、というより女性同士の恋愛へのプロセスを描いていると思います。  私にとって2万九千文字はかなりの長編でして、「…
[良い点] 鮮やかで、暖かく、カラフル。 豊かな描写と滑らかに流れるディテール。 愛と十代の混乱した感情を徐々に受け入れていくこの作品は、エレガントで楽しいものです。 特に転生者のヒントがありながらも…
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