第4話 千年の軛
「――その言葉は語弊がある。最初から愛想なんてものは無い」
「そりゃお気の毒……って、お前、意識はあったのか」
「うっすらとは。発動するとあいつの暑苦しい思念がそのまま流れ込んでくるから、ほとんど無きに等しいが」
「そいつは吐きそうだ……」
心底厭そうにドレイクは顔を顰める。
大刀を鞘に収めたルーシは、呪符の拘束から放り出され、いつも身を沈めている椅子の上で仰向けに倒れかけているドレイクの腕を掴んで立たせた。
そのまま背後を振り返る。
立ち尽くすリブの姿があった。
「何をした……その身体は……」
驚愕に戦慄く唇の間から、辛うじてリブは問いを絞り出す。
ドレイクの全身の上に、金色に輝く神聖文字が浮かび上がっていた。ルーシの大刀が彼の身体に到達するや否や、強烈な光を放って表れたものだ。
同時に、リブの放った呪符は砕け散った。
ルーシは静かに口を開く。
「この店を覆うおかしな気配に気付かないのか。ここは護られている。でなければ帝国の目から何百年と逃れて存続できるはずがない」
「……」
「なあ、餌撰りの神官殿。発動後、餌狩りによる成就が為されずに残った呪符がどうなるか知ってるか?」
ドレイクがルーシの肩越しに、呆然としているリブに向かって問い掛けた。
「知らないだろうな。遂行されるまで何者にも破られまいと自らを守るんだよ。それも年経れば経るほど頑強になっていく。決してやってくることはない、成就のときを待ち続けてな。十年、二十年もすれば両翼の神官など歯が立たなくなるが、ここの本に至っては数百年というのがほとんどだ。まあ、対象が朽ちれば共に消滅するが……」
「馬鹿な」
「試したことはないはずだ。発動させながらルーシが遂行せずにいるなんてことは不可能だからな」
語る間に、ドレイクの身体に浮かんでいた文字が徐々に薄れていく。攻撃を撥ね返すときだけ、その存在を主張するように現れるらしい。
リブは唇を噛む。
「……きさまに発動中の呪符が貼られているというのか」
「俺だけじゃない。この店の本はすべて――」
書棚に視線を巡らせながら語るドレイクの言葉に、ルーシはぞっとする。
この店や禁書からただならぬ奇妙な気配は感じていたものの、それがどのようなものかまでは掴めていなかった。
彼の説明が本当なら、数えきれない餌狩りの命が失われていることになる。呪符は餌狩りがいなければ発動しない。しかし遂行されない呪符を残すには、発動直後に遂行者である餌狩りそのものの存在を消すしかない――つまり命を絶つ必要があるのだ。
「お前に呪符を貼ったのは?」
ルーシはリブに構わずドレイクに問う。
「俺自身だ。片翼はその場で叔父――その片翼の父親に殺された」
それは予想された答ではあった。しかし彼が負っているものの重さにルーシは言葉を失う。
「父もそうで、やはり片翼は殺されたらしい。一族の決まり事だ。神の力を本来とは別の方法で利用するというのは、当たり前だが生半可なことじゃない」
ルーシは無言で拳を握りしめた。
「義務の放棄だけでも許しがたいというのに、神の力を逆手に取るだと? どこまで冒涜すれば気が済むのだ!」
リブが厳しい顔つきで糾弾する。
やるせなさを滲ませるルーシに、ドレイクは優しく笑ってみせた。
「神の中に正義を見出せなかったやつは、大昔にもいたってことだ。ルーシ、お前と同じように」
ドレイクはルーシの前に出てリブに向き直る。その手にはいつの間にか、ルーシのものと酷似した大刀が握られていた。驚いたルーシは思わず尋ねる。
「それは……」
「ヴィテックスに伝わる餌狩りの大刀だが……むしろこいつは餌狩りの血しか吸っていない」
こともなげに凄惨な事実を語りながら、ドレイクは柄に手を掛ける。
正面にリブが両腕を大きく広げて立ちはだかった。彼の全身を燐光が包み、周囲の空間から次々と神聖文字が生まれては、巨大な円形を形作っていく。
少し前、『餌』を集落まるごと神に捧げる際に使った大呪だとルーシは気付いた。
ここは山腹の洞を利用して作られている。岩盤を砕けば店ごと崩落に巻き込み、地中に葬り去ることが可能だろう。恐らく禁書やドレイクの呪符は直接攻撃を受けない限り反応しない。
まだ記憶に新しい、自身の力で砕いた山肌の土砂に埋もれ、地中で息絶えた『餌』たち。その遺骸を掘り起こしては神に捧げるため、大刀を振るわされた悪夢。何よりその間、意識に流し込まれる、自分を支配することへの歪んだ喜悦と神への陶酔に高揚するリブの思念が、ルーシをひたすらに苛んだ。
いったい何のために。
この行為によって神から得られるのは、結局両翼に与えられる力でしかない。それを揮うことで帝国の安寧が保たれるとしても、その恩恵に与れるのはごく僅かな一部である支配階級のみ。
――それはルーシの中で、リブとの間の決定的な亀裂となった。ルーシの内心になど目を向けないリブは、気付きもしなかったが。
そんな折、奇妙な気配を発するこの店を見つけた。自分たち神官をも退けられる、まったく別種の力がこの世に存在するのでは? と一縷の望みを抱いてみたものの、実際にはドレイクが語った通り、これもまた同じ神の力でしかなく、それも夥しい犠牲のうえに成立していたわけである。
となればもう――覚悟を決めるしかなかった。