第3話 両翼
「『炎に依りて狩れ』」
リブが唱えた瞬間、本が白金の炎に包まれ、そのままわずかな煙と共に霧散する。
「……リブ! 呪符を濫用するな」
嫌悪に満ちた声でルーシは抗議した。――炎の気配が残る自身の掌を握り締めて。
リブはそんなルーシの苦い顔を悦楽に満ちた表情で見遣った。
「濫用? 何を言う」
「いちいち俺を使いやがって。燃やしたいなら自分でやれ」
「これは我らの義務じゃないか。ヴィテックスが『餌』の遺物を抱え込んでいるらしいとは以前から噂があった。見出した以上は全て滅するに決まっている。お前もそのつもりでここに入り込んだのだろう? 神官たる自覚の足りない不出来なやつにしてはやるじゃないか。だが殲滅できなければお前はヴィテックスに通じた裏切り者と言われるだけだ。きちんと最後までやり遂げねばな。――私がいる以上、失敗など有り得ないが」
ルーシは何かの感情を抑え込むように唇を噛む。その眼差しの奥に揺らぐものは怒りと言うには昏く、さりとて憎悪と言うには冷えていた。受け付けないものへの嫌悪や拒絶……それが最も近いかもしれない。
「さて、この下賤な書物を始末する前にこちらを処理しよう」
ルーシの表情など気にも掛けず、リブはドレイクに向き直る。
「我が片翼を賎しい『餌』どもの言葉で穢してくれるとは。『餌』に情を抱かせ、道を外させる魂胆か。だがそれで我ら両翼の片羽を毟り取った気になっているなら浅はかなこと」
「いやどう見てもルーシがいきなりやってきただけで……」
「神への悪意に満ちたきさまの企みには虫唾が走るが、ちょうど良い」
ドレイクの言などまるで聞かず、リブは嗜虐的な笑みに口許を歪めた。
よく見知った顔かたちが、ルーシでは有り得ない表情を刻む違和感に、ドレイクは胸のむかつきを覚える。
玲瓏とした容姿はかえって彼の仄暗い情念を際立たせていた。
その手がどんなに血塗られていると知っていても、ルーシからはそんな気配を感じたことなどなかったのに。
「自らの企みがいかに無意味であったか、とくと分からせてやる」
言い放つなりリブは左手を突き出し、ドレイクに向けて掌をかざす。
円形に組まれた神聖文字が浮かび上がり、彼めがけて放たれた。
文字は先ほど本に向けられたものと同様、ドレイクに纏わりつく。
その様子にリブは満足そうに、嘲りに満ちた眼差しでドレイクを見下ろした。
「……はは、『餌』にされた気分はどうだ、唾棄すべき裏切り者。どうした、逃げないのか」
「無駄な真似をする気はないね。何より、駆けずり回るのは性に合わん」
動じた様子の無いドレイクに、リブは一度鼻を鳴らしたが、すぐに気を取り直したらしく再び残忍な笑みを浮かべた。
「よく分かっているじゃないか。餌撰りの呪符に捕らわれた者は餌狩りの大刀から逃れられぬ。存分にルーシの刃を味わうがいい。さあルーシ、『縛して屠れ』」
ドレイクを取り巻く神聖文字が輝き、彼は文字に拘束されたがごとく身動きを封じられた。
同時にリブの背後で、ルーシが大刀を抜く。その顔からは、まさしく彫像のようにすべての表情が消え失せていた。
「命の雫の最後の一滴が流れ出るまで、丹念に切り刻め」
その姿にそぐわない、抜き身の武骨な大刀を引っ提げたルーシは迷いのない足取りでドレイクに向かって歩き出す。
(意志は餌撰りが示し、餌狩りはただそれを遂行するのみ、か……)
慎重な神は自らの力を決してひとりで使えぬよう、両翼に分け与えた。餌狩りは火や水を発し山をも崩す力を持つが、餌撰りの呪符無しには揮えない。
そして発動した呪符は片翼を意識ごと支配下に置くらしい。共に『餌』を捧げることを栄誉と信じる通常の両翼であれば、使役される側の餌狩りであっても苦悩は無いのかもしれないが……。
「……まったく悪趣味だな。どうりで片翼から愛想尽かされるわけだ」
振りかぶられた大刀に映る自身の姿を視界の隅に認めながら、ドレイクは独り言ちた。
今、ルーシの意識はあるのだろうか。このさまは彼自身の目にも映っているのだろうか。……それとも、呪符の発動と共にルーシの意識は閉じられ、再び戻ったとき、全て終わった光景だけを見せつけられるのか。
意に沿わぬ行為を自身の身体で、その意思を無視して遂行させられてしまうのだとしたら、いずれであろうと残酷なことだ。
何もかもに嫌気が差したという顔つきで、ここに現れたルーシ。たびたび訪れ書棚を見上げて歩く彼は、拠り所を探して彷徨っているようにも見えた。
リブを含む神官の誰もが、神の中に見い出しているであろうそれを、ルーシだけはそこに見ることができずにいるのだ。
その切実さゆえだったのか、彼は驚くべき速さで禁書の言葉を覚えてしまった。暗い店の中で、無心にページを繰る姿が脳裏を過る。
大刀がドレイクの頭上に振り下ろされた。
笑みを貼り付けたリブの口角がさらに吊り上がる。
ドレイクの身体めがけ、流星が落ちるがごとく、刃の軌跡が弧を描いた。