トイレに行きたくなったらどうしよう
伯爵は「プレイボーイ」とか「色男」とか、「色ボケクソ野郎」とか「なんであんなにモテるんだよチクショウ」とか色んな意味で「色」に絡む噂をされまくっている。その割に「外道」とか「鬼畜」とかいう評価をされないのは、彼がある程度のルールを守って女たちとの関係を楽しんでいるからだった。
別れる時はきっぱりと、反論の余地を与えずスマートに関係を断ってみせる。それで禍根が残りそうな女であれば、どんなに美しい女であろうと最初から関係を持つことはしない。逆に相手から振られても「仕方のないことだ」と割り切り、すぐ別の相手を探す。そうやって伯爵は、良識ある女遊びを楽しんできた。女をとっかえひっかえ誑かすののどこが良心的なんだよと言いたくなる気持ちはわかるが、とりあえず手酷い振り方・振られ方をしないのはひとえに伯爵の女あしらいの上手さに起因していることだろう。
そんな伯爵だからダリアが今、不機嫌の頂点に立っていることぐらい十分わかっている。いや、伯爵でなくとも大抵の人間は気がつくはずだろう。自分が愛人の立場にあるとはいえ、本妻からは全く相手にされず「好きにしろ」と余裕ある態度すら見せられた。実際はただ、デイジーが伯爵にとことん無関心であるだけで別にダリアのことを見下しているわけでもない。だがそれでも、ダリアのプライドに傷をつけられたことは想像に難くないだろう。
「あぁダリア、せっかくの楽しい観劇の場に不愉快な思いをさせてしまったね。あれはお飾りの妻で愛しているのは君なんだ、本当に申し訳ない……気分を害したのなら、どこか別の場所に連れて行こうか? 君が欲しいものがあるなら、ドレスでも宝石でも僕がなんとしてでも手に入れてみせるよ。だからダリア、どうかその太陽のような美しい顔を灰色に曇らせないでおくれ。君は僕の女神、唯一無二の存在なんだ。あの女のことはあとで厳しく叱るっておくから、気にしないでくれ……」
甘い言葉を使ってダリアを必死に宥めつつ、ついでに『怨霊の叫びを聞いてくれ』を見ずに済むよう話を進めようとする伯爵。しかしダリアはそんな伯爵に向かって彼女としては珍しく無愛想に、頭を振ると真っ直ぐに前を見据える。
「いいえ、ブルーノ様。私、今日の舞台をそれはもう楽しみにしておりましたの。だからただのお飾り妻のせいでそれを見られなくなるなんて、とても残念でなりませんわ。とりあえず今はあんな冷たい女のことは忘れて、『怨霊の叫びを聞いてくれ』の舞台を二人で思い切り楽しみましょう。ドレスは、その後で十分ですから」
有無を言わさぬ口調でそう言い切ったダリアは、伯爵の腕を引いてずんずんと客席の方へと向かっていく。なんだかんだ今日の舞台を楽しみにしていたからか、それとも本妻を前にして怖気づいたと思われたくないからか。いずれにせよ、彼女にとって今日の舞台を観ないことはひどくプライドが傷つく行為らしい。そんなダリアに内心、伯爵はがっくりと肩を落としつつ……それでも情けないところを見られまいと表情を引き締め、必死に「完璧な美男子」を演じてダリアと共に劇場へと入っていくのだった。
◇
もうこうなったら、腹を括って舞台を観るしかない。そう決めた伯爵は隣に座るダリアからも、どこかでこの舞台を観ているだろうデイジーとサラからも逃げるように舞台へと意識を集中させる。
……途中で恐怖のあまり、トイレに行きたくなったらどうしよう……
そんな不安の種を抱えていたが、それは杞憂に終わり――舞台が終わる頃にはダリアも機嫌が良くなったらしく、演者たちに向かって惜しみない拍手を向けていた。
「とっても面白かったですわね、ブルーノ様!」
「あ、あぁ……」
伯爵の言葉が虚ろになったのは、決して怖かったからではない。むしろ伯爵の正直な感想としては――「面白かった」の一言に尽きた。
『怨霊の叫びを聞いてくれ』は紛れもなくホラー作品だ。だが、実際に舞台を観ていれば厳密には「ホラーミステリー」と呼ばれる分野に近い作品であり、伯爵は開演前の騒動も忘れて気が付けば舞台上で繰り広げられる物語に目が釘付けになっていた。
物語は主人公が移り住んだ家で、様々な怪奇現象に出会うところから始まる。最初は恐れおののいていた主人公だったが怨霊たちの一人とコミュニケーションを取れることがわかり、そうやって話を聞いていくうちに彼らが国の隠蔽する一方的な大虐殺の犠牲者たちの怨念であったことを知る。
『私たちの叫びを聞いてくれ、この怨念を届け国の悪行を白日の下に晒してくれ』
そんな怨霊たちの叫びを手掛かりに主人公は実際に大虐殺があったこと、さらにそれが国によって都合のいいいように改竄されもみ消された事実を突き止める。最後は怨霊たちの力を借りながらその事実を世間に公表し、自らの無念を晴らした怨霊たちが天に昇っていくのを見送るところで物語は幕を閉じる。そのストーリーもさることながら特に観客の目を惹いたのは、ダリアも言及していた主人公のドレスのデザインだった。
最初はフリルのたくさんついた、可憐な印象を受ける空色のドレス。天井から滴り落ちる血や、裾を引っ張られるなどの恐ろしい現象に怯える主人公の姿を際立たせ、観客の不安を煽らせる。
しかし「怨霊の叫びを聞く」と決意してからは知性を感じさせるような清楚なデザインの青いドレスへ、さらに真相を突き止めてからは強い決意を表すシンプルな紺色のドレスへと姿を変える。
そうして最後は、主人公の主張を退け虐殺があったことを認めない国へ真っ向から立ち向かう強い姿勢、そして「その叫びを聞いてくれ」と叫ぶ怨霊たちの怒りを表すような真っ赤なドレスを身に纏う。要は、主人公の精神的な成長をドレスによって表現しているのだ。この作品の服装が話題になったのはただデザインの問題だけでなく、そういった物語上の演出も相まっての評価だったのだろう。
(……そういえばデイジーにはドレスを送ったことがなかったな……)
女漁りを欠かさない伯爵は、女性へのプレゼントも積極的に贈ってみせる。だが、一応は「妻」であるデイジーにそれをしたことはなかった。……今まで女に関することはまめであった伯爵にとってそれは、初めての失態であるとも言えた。
(いや、いいんだ。彼女は所詮、契約妻。こっちが気を利かす必要など全く存在しなんだ。それより今はダリアとの逢瀬を楽しみ、ダリアのためのドレスを買ってやらねば)
身勝手で自己中な思いを胸にしまい込み、伯爵は興奮冷めやらぬダリアをエスコートして劇場を後にした。
――そんな伯爵は舞台が終わった後、デイジーが何をしていたかなんて気にも留めていなかったのである。