何か幻覚でも見たのではないでしょうか?
悪い予感、特に恋愛に関わるそれはやたらとよく当たってしまうものだ。
伯爵はその日が来るまで必死に、かつてないほど熱心に神へと祈っていた。
(どうかデイジーと鉢合わせしませんように……どうかダリアから離れた席を取っていますように……『怨霊の叫びを聞いてくれ』があんまり怖くありませんように……もういっそ何かトラブルが起こって、舞台そのものが中止になりますように……)
真摯な祈り、というわりには結構図々しい注文の多い伯爵の願い。そんな伯爵の願いを面倒臭がってスルーしたか、あるいは浮気性の伯爵に手を差し伸べるほと神も暇ではなかったか。とにかく伯爵の祈り虚しく、『怨霊の叫びを聞いてくれ』の日は普通に訪れ――
「……あら、旦那様」
恐れていた事態が現実になり、伯爵はカエルのようにぴょんと飛び跳ねる。滑稽といえば滑稽な姿なのだが、それ以上に緊迫感がその場を支配する。
曲がりも何も「伯爵夫人」として招待されているためか、普段より品のある上等なドレスを着ているデイジー。それに合わせて控えめながら着飾っているらしいサラ。先に伯爵を見つけたのはサラの方だが、声をかけたのはデイジーだった。
デイジーはこんな時でもしっかり、洒落ている伯爵に目をやると次はそんな伯爵に腕を絡ませているダリアの方へ視線を移す。今日のお目当てである主演女優の話をしていたダリアもまた、さっきまでベタベタしていた男の妻が現れたと気が付き途端に口をつぐんだ。
修羅場である。紛うことなき修羅場である。お手本のような修羅場である。
妻と夫、プラス愛人。誰もが一触即発の空気を感じ取っただろう。現に事情を察した第三者は「ひょっとしたら舞台の前にもう一つ、面白いものが見れるかもしれない」なんてワクワクするような表情をしている。どんな罵詈雑言が飛び交うか、どんな凄まじい愛憎劇が繰り広げられるか。期待するオーディエンスたちの前で、最初に口を開いたのはデイジーだった。
「これは、これは。……旦那様もこの舞台を観にいらしたのですね」
見ればわかることをいちいち確認するかのような口ぶりのデイジーに、伯爵は口をもごつかせる。
彼とて、伊達に色男として有名なわけではない。実を言うとこういうダブルブッキング自体は、既に何度か経験済みなのだ。常に何人か女をキープしていた伯爵にとって、それはいわゆるアクシデント。その場でヒステリックに喚き散らすような女は最初から選んでいないし、女たちが怒り出してもその都度「まぁまぁ」と適当に宥めていた。だが、さすがに既婚者となってからのこの「アクシデント」は初めてである。
いや、落ち着け。冷静になれ。デイジーとは契約結婚、それは彼女も承知済みだ。何か言われても「契約妻だから」と口にすれば場を収めることぐらいできる。大丈夫、自分ならきっとうまくやれる、なんとかなる――そう、ゲスな言い聞かせを自分に行う伯爵の隣でダリアが唐突に悲鳴を上げる。怒っているとか悲しんでいるとかそういうものではなく、何か恐ろしいものを目にしたかのような金切り声。その人差し指は憎き恋敵であるデイジー……
ではなく、それに付き添ってきたサラの方へ向けられていた。
「あ、あなた……」
「あら、お嬢様。私に何か御用でしょうか?」
「あなた、私がブルーノ様のお屋敷に乗り込んでいった時に鉈を持って『嘘だッ!』って言いながら私に襲い掛かってきたあの侍女じゃない! なんで、どうしてこんなところに……!」
ガクガクと震え出すダリアを尻目に、デイジーが「サラ、本当ですか?」と尋ねてみせる。すると当のサラは「さぁ?」と首を傾げ、肩をすくめてみせた。
「私、そんなこと申し上げておりませんが……何か幻覚でも見たのではないでしょうか?」
ダリアが屋敷に来たことは認めるのか。そして、鉈を持っていたことも認めるのか。
普通の侍女ならまず鉈なんて手に取ることもないだろうが、サラならやりかねない。なんだか別の方向で殺伐とした空気が漂い始めた中、デイジーが「まぁ、でも」と切り出す。
「何であれ、私は旦那様の女性関係には一切口を出さない契約ですので。ダリア様も、お好きにして結構ですよ。それではお互いに、本日の舞台を楽しみましょう」
貼り付けたような、わざとらしい笑みを浮かべて頭を下げると、デイジーはそのまま振り向きもせずに伯爵とダリアの前を立ち去っていく。もちろん、彼女に付き従うサラも一緒だ。最悪の状況が一転、あっさり終わってしまい伯爵は肩透かしを食らう。
「お……お好きにして結構ですよ、ですって……!?」
拍子抜け、あるいは期待外れを胸に周囲の人間が伯爵たちから目を逸らす中。ダリアが一人、そう呟きワナワナ震えていることには誰も気がついていなかったのだった。