読めたぞ、あの女の魂胆が!
その日から契約妻であるデイジーはブルーノ伯爵に何かと話しかけてくるようになった。もちろん、話題は怪奇現象や心霊体験といったホラーの話題である。伯爵は口では「くだらない」と言いながらも、その内容に心底怯える日々が続いた。
ある時は、「赤子を残して死んだ母親の霊が夜な夜な墓場から抜け出て、我が子をあやしにくる」と聞き領地内で乳児を抱いた母親を見る度ビクビクするのを必死で堪えていた。
またある時は「無実の罪で自らの立場を追われた男がその怨念で関係者たちを呪い殺した」という話を聞き、過去の事件・事故を調べなおし冤罪になった者や不当な扱いを受けたものがいないかを確認して「この伯爵家で不正が行われるようなことがあってはならない」とそれらしいことを言い密かに安堵の息を漏らした。
そうこうしているうちに、伯爵はあることに気がついた。
(あの女の怪談話、男女関係がきっかけになっていることが多いな……)
婚約者が宝石に目が眩み、別の男と結婚した。新しい女に目移りして妻を蔑ろにし、恨みを買った。動機は様々だが、いずれもいわゆる「痴情のもつれ」が原因で悪霊だの怨霊だのとにかくろくでもない存在に姿を変えている。言い換えればその手の話はほぼ全て、「愛する人を裏切るようなことはしてはいけませんよ」という教訓を含めた話となっているのだ。
「なるほど……読めたぞ、あの女の魂胆が!」
伯爵は一人、勝手に自信満々でそう呟く。
伯爵の推理はこうだ。デイジーは「契約妻で結構」というスタンスを取りながらその実、伯爵の女癖の悪さ――悪いって自分でわかってるんなら少しはやめろよ、という至極まっとうな感覚の持ち主の指摘は、今は野暮だということにしよう――が内心面白くなかった。だから、怪奇文学が好きであるということを名目にし伯爵に女遊びを控えるよう苦言を呈した。最初に「デイジーは怖い話が好き」と口にしたのは他でもない、彼女の専属次女であるサラなのだ。
全てはデイジーの差し金だったのだ……! そう確信した瞬間、伯爵は身勝手な悔しさに打ち震える。
澄ました顔で自分を操ろうとしていた。お飾りの妻で良いと言いながら結局、伯爵の行動を咎め邪魔しようとした。そんな子どもの癇癪のような、自己中心的すぎる怒りをひとまず飲み込みんだ伯爵は決意する。
帰ったらあの怪談好きの愚かな妻に、改めて文句をつけてやる。わざわざ回りくどい方法で僕を縛ろうとしたって、そうはいかないからな。あの女が何を言ってきても、絶対に言い返して見せる。そうやって今度こそ、『君は契約妻なのだから余計なことを口にするな!』と言いつけてやるんだからな。
自分の頭の中で勝手に、デイジーの「回りくどい嫌がらせ」に文句を言って契約結婚であることを認めさせる算段をしているブルーノ伯爵。あの表情一つ変えない女がその時、どんな顔で自分に許しを請うのか……想像してにやける伯爵の姿はさすが「社交界一のプレイボーイ」として名を馳せるだけあって、何も知らない貴族令嬢たちはその美貌にただうっとりするばかりであった。
◇
「いえ、私が怖い話を口にするのはただ単に旦那様もそれがお好きだと思っていたからです。私は契約相手として旦那様を大切にしている以上、旦那様が楽しいことをなさっておいでなのでしたら私のできるだけそれを応援したいとは思っているのです。だから大切な旦那様に私の大好きな怖い話を、背筋も凍るような恐ろしい話の数々をどうか耳にしてほしいだけなのです」
感情的に、もはや聞く耳を持たないどころか「どこかの落ち武者に耳を引き裂かれたのではないか?」と言いたくなるぐらい一方的な怒りを撒き散らすブルーノ伯爵に対してデイジーは至って冷静だった。それでもなお、食い下がろうとする伯爵に向かってサラが「旦那様、どうかおやめください」と止めに入る。
「デイジー様はあくまで、旦那様もきっと自分と同じで怪談や超常現象といった類の話を耳にするのがお好きだと思ったから善意でご紹介してくださったんです。その手の怖い話をよく耳にする人なら、男女の情念がこんがらがって可愛さ余って憎さ百倍になりがちになるとか手っ取り早く一人の人間に憎悪をたぎらせることのできる設定として重宝されている、ということがよくわかるはずなんですが……旦那様はどうやら、そのような知識がなかったようですね」
そもそも伯爵に怪奇文学を読むよう勧めたのはサラなのだから、伯爵がその手の話にありがちな「お約束」について無知だったことはよくわかっていたはずだろう。そんなサラに伯爵が何か文句の一つも言ってやろうと口を開くが、デイジーはそれより先に一歩、前に進み出て伯爵に淡々と言葉を投げかけてみせる。
「旦那様。例えば林檎を売る商人がいたとして、自分たちの売り払った林檎をどうするかまで口出しする権利はないでしょう? きちんと代金さえ払えば、あとはパイにしようがジャムにしようが、毒を盛ってどこかの姫君に渡そうがそんなことはどうでもいい。けれどこれからも自分たちのところで林檎を買ってほしい、と思うのならなるべく客とコミュニケーションを取って仲良くしようとぐらいのことはするでしょう? それと一緒です。伯爵がもし私と同じように怪奇文学の類が好きであるなら今後の契約結婚生活を円滑に進めるためにもそれを共有してもらいたいと考えておりました。旦那様が実はそんなことに興味がないどころか苦手だったとは思いもしませんでしたので……申し訳ありません。これからは、もう怪談話をすることはやめるようにします」
それだけ言うとデイジーは見事なカーテシーを披露し、サラとともに踵を返すとそのまま振り向きもせず伯爵の前から立ち去っていく。
「……いや、ちょっと待て! 僕は決して、怖い話が苦手だからとか幽霊が怖いだとかそういうわけじゃない! ただ僕は、君がそんな面倒な方法で僕の行動を縛ろうとするのが非常に不愉快なわけで……」
「だから、もう旦那様の前でその手の類の話をすることは一切やめにします。……知らずとはいえ伯爵には大変無礼なことをいたしました。今後はなるべく、気をつけるようにいたしますのでどうか今回はお許しください」
そう語るデイジーは微笑んではいるものの、そこに憎悪や哀愁といった感情は一切見られない。嫌がるならやめる、反省したからもうしない――ただそれだけを込めたデイジーの瞳からは何の感情も読み取ることができず、伯爵に対して一歩引いた態度を取り続けていることだけがわかった。
そんなデイジーの後を追うこともできない伯爵は、しばらく呆然としていたがやがて頭を掻きむしり「違う! 違あああうっ!」と叫び出す。
「僕は決して、怖いわけじゃないんだ。ただデイジーの態度が気に食わないだけなんだ。それなのに、勝手に僕を臆病者扱いしやがって……! クソ、もう絶対に許さないからな!」
一人、誰もいないところで地団駄を踏みのたうち回るようにそう叫ぶ伯爵。その姿を見ていたとある使用人は後に、「伯爵様が悪魔か何かに取り憑かれたのかと思った。知り合いの霊能者とか魔術師に相談しようかとも思ったが、そんなことしたらますます伯爵様が逆ギレしそうなのでとりあえず様子を見ておこうと思った」と供述したそうである。