お話はお話、リアルはリアル
よくある契約結婚の話だ。
ブルーノ伯爵は社交界きっての色男として名を馳せていた。しかしその一方で「早く結婚を」「跡継ぎを」と望む声に嫌気がさしていたので、適当な家格の令嬢と縁談を結び妻を持つことになった。
だがその令嬢――名前はデイジーというらしい――は煩い周囲を黙らせるためのお飾りの妻であり、彼女を愛そうなどという気持ちは微塵も存在していない。その辺りのことを理解させるべく伯爵は新婚初夜、彼女の寝室を訪れるときっぱりと告げた。
「君とはあくまで契約結婚だ、君を愛するつもりはない。君は伯爵夫人としての務めを果たすことにだけ専念しろ。僕のやることに口を出すな、僕の愛を得ようなどと思うな。それが嫌なら、この家を出ていくといい」
「左様ですか。別に構いませんよ。ただし、私はあなたを大切にいたします。――契約相手として」
「……えっ」
新妻の一言に、ブルーノ伯爵の口から思わず間抜けな声が漏れ出る。だがデイジーはそんな伯爵に向かって良くも悪くもつんと澄ました顔で、冷静に受け答えをしてみせた。
「私はあなたの契約妻として、その務めを遂行し伯爵家を守ることに尽力いたしましょう。心配せずとも伯爵家の財産を浪費しようとは思いませんし、社交界にもきちんと顔を出します。愛人も何人いたって構いませんよ。ただあなたが伯爵としての務めを果たしてくれるのなら、私も妻としてそれを支えます。伯爵の契約妻としてあなたを大切に、大切にお守りいたしましょう」
大切に、の部分をより声高に告げるデイジーへ、伯爵はぽかんとした顔を向ける。
デイジーは、醜女ではないが取り立てて美人と言えるほどでもない。至って平凡な見た目で、マナーやダンスといった能力面もそこそこ。特に何か芸術の才能があるとか、妙な趣味があるというわけでもなく――ただ茶色い髪に茶色い瞳、「令嬢」と聞いて適当に思い浮かべるようなごくごく普通の見た目をしていたのである。
そんなデイジーが踵を返し、伯爵の元を去ろうとしたところで「いや、待て待て待て待て」と呼び止められる。困惑した伯爵の見た目と裏腹にデイジーは冷静なもので、「何かご用でしょうか?」ときょとんとしたような顔を返した。
「その、えっとだな……そっけない態度をとって僕の気を引こうとしたって無駄だぞ! 僕は僕の人生を自由に生きる! 君に恋人や夫婦のような情愛を抱くこと、これっぽちもないからな! その辺りのことをきちんと弁えろよ!」
「ええ、存じております。そもそも私は別に愛などというものは求めておりません。私が求めているのは人生設計のための『信用』であって、男と女の恋だの愛だのはどうでもいいのです。結婚とは『契約』であり、そこに愛が必要不可欠というわけではない。互いに生活を守り、子をなして血筋を残せばそれで十分でしょう?」
どうせよくある恋の駆け引きをしたつもりだろう、とデイジーを見下しふんと鼻を鳴らしたブルーノ伯爵。しかしそれに対するデイジーの受け答えは、実に淡々としたものだった。水が冷たくなれば凍る、氷は溶けたら水になる。そんな当たり前のことを口にするかの如く、淀みなく話すデイジーに伯爵は「いや、確かにそれはそうだが……」と口ごもる。
「その、女はだいたい結婚相手には愛を望むものだろう? 『お姫様は王子様と結婚して幸せに暮らしました』とか『二人はあらゆる困難を乗り越えて、最終的に結婚しました』みたいな物語は少女向けの話だとよくあるじゃないか。どうせ君だって、その手の類が好きで堪らないし心の中で臨んでいるのだろう? そうはいかないから……」
「物語は物語です。現実にはパンを咥えて『遅刻、遅刻~』なんて走る少女だとか、なんだかよくわからないエネルギーを使ってバトルする少年なんて存在しないでしょう? それと一緒です。お話はお話、リアルはリアル。その辺りのことはきちんと理解しておりますので、旦那様のことはあくまで契約相手として大切にするつもりですよ?」
それの何が不満なのか? と言いたそうなデイジーの瞳に伯爵は言葉に詰まる。心の中で一瞬、少年時代に憧れてやまなかった物語の主人公である戦士が横切ったのはここだけの秘密である。そんな彼の心情を知ってか知らずか、デイジーは粛々と言葉を紡ぐ。
「愛し合って結ばれたはずの二人が些細なことから激しく憎み合うようになったり、優しかった人が結婚した途端に豹変して相手を泣かせるようになったりする話は、巷だとよくあることでしょう。世の中に愛が不要というわけではありませんが、愛だけでどうにかなるほどこの世界は甘くありません。結婚までお互い、顔を合わせたこともなかった二人が仲睦まじく夫婦として添い遂げる話だってよく聞くじゃないですか。結局、結婚に必要なのは双方の歩み寄りと気配り。私たちがお互いにそれをできるなら、それ以上のことはないでしょう?」
それだけ言うとデイジーはどこからか取り出した手のひらサイズの小さなベルを鳴らす。使用人を呼ぶ時専用のそれは、しかし夫婦の寝室で鳴らしたところで出入りできる者などごくわずかに限られている。その希少な人間として恭しく現れたのは、デイジーがこの家に嫁ぐ時に連れてきた中年の侍女だった。
彼女は自分が幼い頃から面倒を見てくれる心強い存在であり、名前は「サラ」ということを説明したデイジーはブルーノ伯爵に丁寧に頭を下げるとやはり落ち着いた様子で話を続ける。
「私はあなたと結婚したことにより、とりあえず『夫人』としての立場は守られる。社交界で何か言われても伯爵夫人としての振る舞いさえしていれば問題ないでしょう。あとは出産して跡取りを残せば、そこで私の任務は完了。『育児』というかなり大・ダイ・ハードな仕事はありますがそれは貴族女性の宿命としてそれは受け入れます。幸い、ここに幼少時から私の面倒を見てくれて『これからも協力を惜しまない』と言ってくれる大事な戦友・サラもいます。ですから旦那様は、どうぞご安心ください」
「ええ、そうです。お嬢様の言う通りです。このサラ、お嬢様を思う気持ちだけなら誰にも負けません。最愛の我が主人・デイジー様のためならどんな仕事もしてみせますとも!」
ドン、と胸を張るのはサラに、ブルーノ伯爵は何と答えて良いのかわからなくなる。
仮にも夫となる男性の前で「最愛」と公言するのはいかがなものか、しかしそれを口にしたのがデイジーにとっては乳母に等しい専属の侍女となるとここでムキになるのも夫としての威厳に関わる気がする。自分はこの契約妻と、それに従う忠実な侍女にいかなる態度をとるべきか。そんなことを考えているうちにデイジーはそそくさと自室に戻る準備を始め、それが終わるや否やさっさと寝室の扉に向かい始める。
「……そういうわけなので今後ともよろしくお願いいたします、ブルーノ伯爵」
そう言って二人、仲良く一礼してみせたデイジーとサラに伯爵はしばし呆然とするのだった。
◇
それからデイジーとブルーノ伯爵の「夫婦生活」は穏やかに行われていった。
デイジーは良くしてくれる。社交界では共に出席し、適当な立ち回りを披露して茶会やパーティーでも「そこそこ」の評価を得ている。ブルーノ伯爵に口を出すこともなく、何度かブルーノ伯爵の愛人が勝負を挑んできた時には「私はあくまで契約妻なのであなた方のことは別にどうでもいいです。なので何か言いたいことがあるなら直接、ブルーノ伯爵に掛け合ってください」と跳ね除けた。
それでも引かない愛人たちにはサラが包丁や斧を持ち出したのため「伯爵家には凶悪な殺人鬼が住み着いている」という噂がついたがものの、その信憑性はせいぜい「悪い子はオバケに攫われちゃうぞ」ぐらいのもので――ブルーノ伯爵夫妻はその後も、穏やかで平凡な暮らしを送っていったのであった。