青い世界は、今日も美しい 【雨】 《1500字》
ザアザアと雨が降る。雨粒が、木の葉を叩き、屋根を叩き、水面を叩く。
降り注ぐ雨、その雨音はどこか僕を安心させる。まるで僕の全部を包まれているようだった。重たげ空は、雨を降らせて身を軽くする。雨音はいらないものすべて流し去ってくれる。必要のない音を、滞る心のよどみも、冷たく静かすぎる夜も。
ザアザアと雨が降る。その音に抱かれながら、緩やかな睡魔に誘われていった。
朝起きて、窓を開ける。昨日の暗雲が嘘のように、空は青く青く晴れ渡っていた。
僕は雨が好きだ。そして降った次の日の空も好きだ。
澄み渡るような青い空が、水面に映る。こんな日は、まるで町が空の中に浮かんでいるように思える。
流されないように繋いでいた舟の縄をほどき、櫂を片手に街に出る。ぐっと櫂に力を籠めると、スイ、と滑るように前へと進んだ。朝早いせいか、街には僕の小舟一つしかない。この美しい街を独り占めにしているようにも、この美しい街に独り取り残されたように思える。
空は高く、街は深い。
シンとした肌寒さが心地いい。ついつい、とアメンボが僕の横を通り抜けた。
青い水はつい触れたくなる。冷え切った水面に手を差し込むと氷のような冷たさがあるが、しばらくして、慣れる。この慣れたときの感覚、冷たくて暖かいような、柔らかい水の感触。きっとあの高く青い空に手を浸したなら、こんな風に僕の手を包み込むんだろう。
掴めそうなのに、掴めない。握ればスルリといなくなってしまうような。だからこそ、人は空に向かおうとするのだろうけど。遠い昔、人は空を飛べたというけど、それは歴史の話で、物語だ。
ぐい、と櫂で舟の向きを変えると、驚いた魚たちがパシャリと跳ねた。
銀色の魚たち。青い水によく映える。
雨上がりの良く透き通る青い水の中。はるか昔に沈んだ街に、魚たちと僕の舟の影が滑る。
四角い箱に、不思議な形をした四輪の乗り物。小さく見える赤い屋根。
青く美しい世界に沈んだ、遠い遠いジオラマ。これを見られるのも、舟がほとんどいない早朝だけだ。昼間は影が多すぎて、斑に見える。
昔々、今よりもっと科学の進んでいた過去。人はとても早く走れる自動車に乗り、電気で動く箱で通学して、高い空を飛んでいた。
あの、青い青い高い空。昔の人は手に触れていた。そしてその空のもっと奥。そこには夜色の空が広がっているらしい。どこまでもどこまでも、夜色が広がって、キラキラと光る星が、おもちゃ箱をひっくり返したように散らばっている。先生はそう言っていた。
僕は思う。昔の人はきっと欲張りだったんだって。
届かないから美しい、光の溢れる空を欲しがった。
ゆるりと流れる時よりも、弾丸のように流れる時を欲しがった。
目に見えない素晴らしさよりも、目に見える便益を欲しがった。
青と緑、それから雲の白で作られた星は鉛色に姿を変えた。
だから神様は涙を流したんだ。
何年も何年も、枯れることなく、一日たりとも休むことなく、雨を降らし続けた。
そして、鉛色の星は、もう一度青い星に戻った。
20年間に及ぶ降雨で世界は塗り替えられた。生き残った人たちは、舟の上で生活し、その子孫が僕たちなんだと。
来た路を引き返すと、ちらほらと商船たちが準備を始めていた。焼きたてのパンの匂いが、鼻を掠める。早く帰らなければ、朝ご飯を食べ損ねてしまうかもしれない。
パシャン、振り上げた櫂から雫が散った。
拝啓、大昔の鉛の世界の住人たちへ。
たくさんの雨が降る、この青い世界は、今日も美しく緩やかで、とても平和です。