私のこころと隣のこころ 【隣人】 《2000字》
片田舎。駅周辺は栄えてるけど、そこから離れればすぐ畑や田んぼが見えてくる。都会とは言わないけど、都会の人が想像するような田舎とも違う、そんな街。大学に行くために乗る電車は7時24分。自転車を30分漕いでつく最寄り駅は大学に向かう電車の始点だ。時計を見ながら地下の自転車置き場に自転車を置いて、二階の改札口まで階段を駆け上る。時計を見れば15分。電車がホームに入ってくる頃。定期を翳して改札を走り抜け、人を追い越しホームへ降りる。いつも位置、3号車の2番目の扉。排水溝に吸い込まれる水みたいに、ホームの人達が電車の中に吸い込まれていく。その水滴一滴になりながら、私は定位置の席についた。扉から一番近い席。
上がりかけた息を整えてわずかに浮いた汗をハンドタオルでふき取った。化粧に関してはもう半分くらい諦めてる。30分自転車で走って、それからホームまでまた走ったら化粧が崩れるなんて当然だ。落ち着いたころ、電車が静かな音をたてて扉を閉め緩やかに動き出す。
友達からは大きすぎると言われる雑多な鞄の中から文庫本を一冊取り出す。夏目漱石の『こころ』。私はあまり純文学は読まない。物語を読むのは大好きだけど。国語の授業で習うような作家たちはどうしても苦手だった。言い回しの難しい耽美な恋愛小説よりも勢いのある大衆的な恋愛小説の方が好きだし、欝々とした独白が続くよりも疾走感とテンポの良い会話文の方が好き。それでも私がこんな純文学の文庫本を持っているのにはわけがある。
始点から数えて2つ目の駅、そこから3号車の2番目の扉から入ってくる、グレーのスーツの男の人。いつもポール越し私の左隣に立つのだ。あ、という声を上げそうになるのを飲み込んで知らん顔で文字に視線を走らせる。しばらく読み進めて、ちらりと視線を上げると文庫本のタイトルを見る。『こころ』だ。同じ表紙。しかし見る限り、もう彼は後の方まで読み進めているようだった。一方の私はまだまだで、こっそりとため息を吐いた。
毎朝私の横に立つその人に気づいたのはいつだっただろうか。毎朝同じ電車に乗ると乗客の顔を覚えてくる。その中でも隣のスーツの男性は目を引いた。見た目が目立つわけではない。ただいつも文庫本を読んでいるのだ。なんとなくスマホを弄る手を止めて上を向いたときに目に入ったのが『銀河鉄道の夜』だった。タイトルは知ってる、有名な小説。でも読んだことはなかった。数日して、また顔を上げた今度は『罪と罰』の文字。ドストエフスキー、何年も前に読もうとして挫折した覚えがあったそれを、彼は涼しい顔をして読んでいた。その頃から彼のことか、彼の読む本か、興味が出ていた。悉く読まれるのは学校で習うような有名な作家。私の読まない領域で、興味を引いていたのも一因だけど、理由は他にもあった。本を読む姿は、なるほど絵になるのだ。電車の中の時間を無駄に使わず、有用に過ごす理知的な人間に見える。最初は見た目だけ真似するように、自分の好きなミステリやラブコメを読んでいた。もちろん、面白いし私は好きだ。だがしばらくして私には対抗心が芽生え始めたのだ。頭上の森鴎外、宮沢賢治、ドストエフスキー……なんだか自分の読んでいる小説が幼稚なものに思えてきてしまったのだ。たまたまその時期大学の生協でセールをしていて、いくつか純文学の文庫本を購入した。それからだ、隣の彼の足跡を追って、追いつこうとするように本を読み始めたのは。
相変わらず、得意ではないけれど面白さは最近わかってきた。重々しい独白も遠回しな表現も、それはそれでいいものだ。形から入ったものだけど、読める分野が広がるのは単純にうれしい。
ふと窓の外の景色を見て、そろそろ大学の最寄り駅だったと気づき、本を膝の上に置いた。都会に行くまでもう少しかかるけれど私の大学は地元と同じく片田舎。だがそのときいつもはしないはずなのに車両が大きく揺れた。乗客は短い悲鳴を上げたりふらついたり。事故ではなかったようで、いつも通り進み始めたが、頭上から文庫本が降ってきた私はそれどころではなかった。
「わっ、」
「すいませんっ大丈夫ですか?」
「あ、はい大丈夫です。」
いつも本にだけ向けられる、隣の人の眼が私に向けられていた。こんな顔するんだ、とかこんな声なんだとか考える間もなく、電車が止まり扉が開く。慌ててその手に『こころ』を押し付けて私はホームに飛び降りた。
それからバスに乗って再び本を見たときに、私は鞄に入っている『こころ』が私の物でないことに気が付いた。私の青い栞の代わりに、草色の細い栞が挟まっていた。
気づかれないように口元を緩めた。使い古されて擦り切れそうな展開でも安っぽい恋愛小説だって捨てたものじゃないかもしれない。