火の粉になった君のために 【ダンス】 《2000字》
あの日の悲しみを、僕は一度だって忘れたことはない。
「いってらっしゃい。」
「行ってきます。」
君は笑って手を振った。僕も、笑って手を振ったはずだった。顔が引きつってなかったとしたら。
泣いちゃダメだ。困らせてはダメだ。涙もろい僕を、彼女は僕の長所だと言った。優しい人だと。心の豊かな人だと。それでも、今泣けばきっと彼女は困ってしまう。もしかしたら煩わしいと思ってしまうかもしれない。
言いたいけれど、口が裂けても言えなかった「いかないで」
彼女がどこかへ行ってしまうことはとても悲しい。でもそれ以上に、彼女の枷になることが怖かった。
僕は優しい人なんかじゃない。ただ臆病な人間だっただけなんだ。
「来年には帰ってくるから。元気でね。」
「君もね。気を付けて。ヨーロッパは治安が悪いらしいから。」
少しだけくすぐったそうに、彼女は頷いた。
もしあの時僕が、行かないでと言えたなら。
それでも、臆病な僕は行かないでが言えなかった。
あの時が、最後の時になると知っていたなら、僕は言えただろうか。臆病さなんてしまい込んで、止められただろうか。そうでなくても、大切なことを彼女に言えただろうか。
それでもきっと僕は何も言えなかっただろう。馬鹿な僕は、臆病風に吹かれて、簡単に足を止めてしまうのだから。
イギリス行きの飛行機が落ちたのはその日だった。バレエが好きだった彼女は、イギリスに留学すると言って、その地に足を踏み入れることすらなかった。赤い炎、崩れる機体、バラバラと燃え、海へと落ちていく塵に、彼女と彼女の夢もなったのだろう。
彼女は何を思っただろうか。
何もかもが遅かった。できることなど何もなかった。それなのに僕は、追い縋るように彼女の好きだったことを調べた。
笑いながら僕に指さしてダンスについて説明する彼女に、僕は生返事ばかり返していた。その証拠に、彼女の持っていた雑誌や本に見覚えはあるのに内容なんてまるで覚えていなかった。
貪るように、彼女の記憶をたどる。今更何もできないし、何をしても何にもならない。それでも僕は彼女の痕跡を追わずにはいられなかった。
彼女の見ていた世界を、今の僕が見られているとは思わない。思えない。それでも手元にある分の彼女の痕跡をすべて追った時、それは彼女が帰ってくると言った「来年」になっていた。
彼女は、帰ってこない。
彼女を追い、調べているときに見つけたものがあった。
タンゴは、19世紀ブエノスアイレスあたりが発祥でヨーロッパにわたり発展した。最初は男同士で踊ったりしていた、戦時中に作られたなど諸説ある舞踏音楽だ。
その諸説ある中に、死んだ女性を抱え、激しく踊ることでまるで死んだ女性を生きているように見せていた、という話があった。出典も何もわからない眉唾ものだが、それが酷く目に焼き付いた。
死んだ恋人の亡骸を抱え踊る男は、いったい何を思ったのだろうか。力なくしな垂れかかる身体、がくりと落ちる首。そこにあったのが悲しみなのか、歓喜なのか、狂気なのか、僕にはわからない。
きっと君は、今の僕を見たら笑うだろう。ダンスなんて全然興味なかった癖にって。今もダンスに興味はない。知りたかったのはただひたすらに君のことだった。
誰もいない練習室にアコーディオンが流れ出す。慣れない、練習しても未だたどたどしく不器用なステップを踏んだ。僕以外誰もいない部屋、僕だけが踊っていた。
君が帰ってくるはずだった日。僕は相手もいないままに踊っていた。
引き寄せる身体も、取る手もない。まるで彼女も感じられなかった。遺体もない。機体すらまともに引き上げられていないのだから、当然だ。彼女は今、ここでもイギリスでもなくただ冷たい海に、夢と共に沈んでいる。
海の底に、この音楽が届くとは思わない。君が僕と踊るために帰ってきてくれるとも思わない。
一人、タンゴを踊る僕はきっと滑稽だろう。好きでもないダンスを踊る。好きでもないタンゴを踊る。ただただ大好きな君を感じたいがための、独りよがりな舞曲。
酷くあっさりと、音が止んだ。何の余韻も残さない、事務的に。僕の荒れた息遣いだけがそこにはあった。
彼女が現れることはなかった。そんなのは最初からわかっていたことだった。死んだ人は、帰ってこない。今まで空いた穴を、彼女の記憶で埋めていた。しかし曲が終わり、まるで滑り落ちていくようにそれらがなくなり、ぽっかりと胸に穴が空いてしまったようだった。
あの日「行かないで」の一言が言えなかった臆病さの代償はとてもとても大きかった。
虚しさを抱えたまま、携帯のディスプレイを見る。奇しくも、彼女が火の粉と消えていった時間だった。思わずから笑いが零れた。
扉を閉めようとしたとき、風が吹いてぐあ、と扉が大きく開かれた。
「ただいま」
彼女によく似た声が、耳を掠めた気がした。
「……ははっ、」
あり得ないこと。彼女は、君はここに居ない。
それでもその瞬間間違いなく、僕は空耳に救われた。君も、誰もいない薄暗い後悔の海の底から。
つう、と温かい涙が頬を伝った。
あの日の「泣いちゃダメ」は時効だった。