花嫁の喜び 【甘夏】 《2000字》
ぐつぐつと煮立つ鍋。立ち上る湯気と共に甘い匂いが鼻に抜ける。ジワリと汗の滲む台所に立ちながら、無心で木べらを動かす。鍋の中で砂糖と混ざり合う甘夏はトロトロとその実を崩していた。
昨日田舎に住む母から大量の甘夏が届いた。段ボールいっぱいの甘夏に私は辟易とした。嫌いなわけではないが、好きでもない。小さなころから家の庭でできた甘夏を食べさせられてきた。みかんよりもすっぱくて、レモンよりも甘い。それから口の中に広がる苦み。どうにもそれが苦手だった。毎年大量に実を実らせる甘夏は就職で家から出た後も当然のように届けられた。味だけではなく、このノルマを消費させようとするような雰囲気も好きじゃない。
今年もか、と思いつつも私の気分はそう落ち込んでいなかった。付き合って3年目になる彼氏から大切な話があるから会いたいと電話が来たのだ。周りが続々と結婚していく中、若干の焦りを覚えていた私はもう有頂天だった。彼はイケメンでも高学歴でもないが、真面目で誠実、笑った顔が少し幼い好青年だ。
彼は私になんてプロポーズするのだろうか。結婚式はどこでしようか。幸せな結婚生活を想像しては口元を緩ませていた。
それから何の気なしに私は甘夏の花言葉を調べてみたのだ。
甘夏の花言葉は純粋、愛らしさに続き『花嫁の喜び』
これほどタイムリーな花言葉が他にあるだろうか。
机の上に山積みなった橙の果物たちが唐突に幸運の印が何かのように思えた。
そして嬉々として待ち合わせ場所に私は向かった。お気に入りのパンプスに新色のスカート。空はよく晴れてるし、道中愛らしい三毛猫とすれ違った。何もかもが上々。幸せな日だった。
指定されたカフェに行ってみれば、眉を下げながら彼は座っていた席から立った。
何故か会社の後輩の女の子と一緒に。
「すまない、別れてほしいんだ。」
単刀直入な言葉に、満ち足りた気分は一瞬で霧散した。
呆然とする私を気にしつつも早口に説明をする。
どうやら半年ほど前から浮気をしていたらしい。そして今後輩ちゃんのお腹に子供がおり、責任を取って彼女と結婚するそうな。
半年も浮気に気が付かなかった私も間抜けだが、目の前で泣きながら謝る後輩ちゃんと悪いのは僕だから、とか昼ドラ顔負けの三文芝居を繰り広げる二人に何もかも馬鹿馬鹿しくなった。
せめてもの仕返しに、テーブルに置かれていたコップの水を頭から彼氏、基元カレにぶっかけて踵を返した。これくらいは許されるだろう。今誰よりも居た堪れないのは私でこれは様式美なのだから。
暗澹たる気分でも太陽は変わらず燦々と光を降らせるし、お気に入りのパンプスは軽快な音を立てる。またすれ違った三毛猫は不思議そうに私を見た。私の気持ちがどれほど荒もうと環境は変わらないのだ。
立ち去ってからじわじわと呆れに抑圧されていた怒りや悲しさがこみ上げてくる。頭に血が上り、鼻の奥がつんとする。なんとか帰り道では平然としていられた。
だが部屋に入ってすぐ目に入った机の上の甘夏の山に抑え込んでいた気持ちが爆発した。
『花嫁の喜び』これほどまで皮肉な花言葉があるだろうか。
そうして私は包丁を手にとり、甘夏の厚い皮に刃を突き立てたのだ。
激情を発散させるように甘夏を切り刻み、不必要な白い皮を処理してグラニュー糖、水と共に鍋に甘夏たちをぶち込んだ。煮詰めては灰汁を取り、煮詰めては灰汁を取る。ひたすら甘夏のジャムづくりに専念する。料理をしている間はそれだけに集中できて、余計なことを考えずに済む。泣いたら負けだ。浮気した上に孕ませるような男なんてこちらから願い下げ。私は捨てられたんじゃなくて捨てやったんだ。そう言い聞かせながらトロリとした甘夏たちを木べらで掬った。
適当な瓶に太陽の色をしたジャムを移し替える。大量の甘夏たちがジャムに変身したころ、日は落ちて月がビルの向こうから顔を出していた。ずっと甘い匂いを嗅いでいたからか、あまりお腹は空いていない。でも何か食べないと体内時計が狂ってしまう。そういえば冷蔵庫の中に小麦粉と賞味期限の切れそうな卵があった、と思い出し、順番も何もなくボウルに材料を放り込み、カップに生地を流し込みオーブンに入れる。
徐々に漂ってくる甘いマフィンの香りに張りつめていた気が抜けた。無心で作り続けていたおかげで怒りも悲しみも落ち着いて、だらりと身体を椅子に任せた。
甘夏のマフィンは、甘夏を消費させるために度々母の作ったお菓子だ。甘いけれど、皮の渋みが微かに残る。甘いばかりじゃないそれが、今は嫌いじゃない気がした。
そうだ、甘夏のジャムは同僚におすそ分けしよう。ついでに私の馬鹿馬鹿しい恋愛話も手土産に何か甘夏のレシピがないか訊いてみようか。
甘くてすっぱくて苦い果実はまだまだ手元にあるのだから。