二件目
時刻は午前十一時。もうすぐ本格的に冬へ入るというのにまだ昼間は少し暖かい。
「暇ですねぇ」
幽華がそんなことを言いつつ、茶をすする。全くこいつはやる気があるのだろうか?
だが、確かに暇だ。かと言って何をするということもないが。
「楓さん。お昼何がいいです?」
「適当に」
「適当が一番困るんです!」
と、幽華が声を荒げたのとほぼ同時。事務所のドアがゆっくりと開かれた。
「あ、どうも。御依頼ですか?」
そこに立っていたのは大学生くらいの少女。淡い色のセーターと可愛らしいスカートをはいている。あまりこういうのも何だが、かなりの美少女だ。それこそ、ミスコンで優勝してそうなレベルである。
ただ、それよりもっと言っておかねばならない特筆事項がある。
彼女が人間だということだ。
この相談所には、人と妖怪が妖怪関連の相談事を持って訪れる。
彼女もその類だろう。
そんな彼女はびくびくと怯えた様子のままこちらまで歩き、ソファに腰掛けた。
「まず、お名前を聞いてもよろしいですか?」
「は、はい……長塚千尋と申します」
「なら、長塚さん。今日は一体どういったご用件で?」
「実は……最近誰かにつけられているんです」
なるほど。ストーカーという奴か。でも、ここに来たということはただのストーカーというわけでもあるまい。
「どういった手合いなんですか?」
「わかりません……ただ、学校から帰っていると後ろから下駄のような音が聞こえて……でも振り返ったらいなくて……もう私怖くてどうしたらいいか。それで友達に言ったらここなら何とかしてもらえるかもしれないと聞いたもので」
「なるほど。もう大体の目星はつきましたよ」
「本当ですか!?」
「もちろん。ただ、それにはあなたの協力が不可欠です。一緒に外に来てもらっても?」
彼女はしばし嫌そうに顔をしかめていたが、やがて意を決したのかゆっくりと頷いた。
俺は立ち上がりつつ、幽華に語りかける。
「幽華。留守番頼む。昼飯もよろしくな」
「はい。了解しました」
台所に向かっていく彼女の方に視線を寄越してから、
「では、長塚さん。こちらに」
「えっと……はい?」
長塚さんを部屋の外まで案内し、共に階段を下りていく。
二階から一階へ降りる非常階段を下りながら、俺は彼女に質問を投げかけた。
「後をつけられるようになったのはどれくらいからですか?」
「大体……一週間前くらいです」
「……なるほどな」
一週間か。まぁ、ギリギリってところだな。
などと思っていると、あっという間に一階に到着。眩しいばかりの日差しが俺たちを出迎えてくれた。
が、俺はさっさと足を近くの路地裏の方へと向けていく。
「あ、あの……どこへ行くんですか?」
どこか不安げな様子の長塚さんを安心させるよう俺はやんわりと微笑み、
「大丈夫。ちょっとだけですよ」
とだけ答えた。
彼女はやや怯えた様子を見せていたが、それでも俺の後ろをついてきてくれた。
そうして路地裏に入っていったところで……不可解な異音が俺の鼓膜を揺さぶる。
カランコロンという、下駄の鳴る音。この文明社会で、しかも路地裏に入った瞬間に聞こえた。もうお分かりだろう。これこそが、妖怪だ。
「ちょっと失礼」
長塚さんを無理やり引っ張り庇うような形になりながら、俺はゆっくりとお辞儀した。
「はじめまして、べとべとさん」
おそらく、長塚さんには見えていないのだろう。首を傾げているから。でも、俺にはハッキリと見えている。
丸いボールのような胴体と、大きな口を持った妖怪――『べとべとさん』の姿が。
「あんた、誰だ?」
ちょっと訛っているな。地方出身か?
「俺は葛の葉楓。ここら辺で妖怪関連の相談所を開いているものだ」
「ふぅん……で、おいらに何の用だ?」
「いや、実はな。この御嬢さんがお前のことを怖がっているんだよ」
「それ本当か!? やったぁ!」
ぽよんぽよんと跳ねるべとべとさん。気持ちはわからないこともない。人からの畏れを得ることで妖怪は妖怪たりえるのだから。
だが、ここで食い下がっては依頼主に申し訳が立たない。
「で、だ。悪いんだが、この子から離れてもらえないか?」
「ええ……でもなあ……おいらにはこれしかできんからなぁ」
「だよなぁ……」
べとべとさんとは、人の後を尾行する妖怪だ。それを禁じるということは、存在を否定することに他ならない。
「おいら別に何もせんよ? ただついて回るだけ」
そう。べとべとさんは妖怪の中でも無害な部類だ。ただつきまとうだけ。不気味なだけ。いや、やられる方からしたらかなり怖いと思うが命を取られたり怪我をしたりするということは万に一つもあり得ない。
「あ、あの、今何を話しているんですか?」
耐え切れなくなったのか、長塚さんが声を荒げた。妖怪を視認できない彼女には、俺とべとべとさんのやり取りがわからないのだろう。
「いや、すまない。ちょっと交渉が難航していてな」
「そんなに怖い妖怪なんですか?」
言われて、俺はべとべとさんの方に視線をやり、
「いいや、まったく」
そう告げた。すると彼女は少しだけ期待を込めた視線で俺の目を見つめてくる。
「へぇ……私でも見ることはできないんですか?」
「できないことはないが……いいのか?」
返されるのは、首肯。俺はそっと彼女の肩に手を置き、そこに力を集中させた。
「目を閉じて十秒数えて。そうすると、君は目の前の妖怪が見れるようになる」
「はい……」
待つこと十秒。そこでようやく彼女は目を開けて……
「きゃあああああああああああっ!」
甲高い悲鳴を上げた。
いや、まあ当然だろう。いくら無害とはいえ妖怪を見てしまったのだから。それで怯えてしまったとしても別に……。
「可愛いっ!」
「……は?」
彼女はキラキラとした目でべとべとさんの方を見ている。べとべとさんとしてもその反応は予想外だったのか、あんぐりとその大きな口を開けていた。
「あ、あんたおいらの事怖がらねえのか?」
「全然! ああ、もっと早くから見ておけばよかった!」
興奮気味の彼女とは対照的に、べとべとさんはぺたんとその場に座り込む。
「ダメだぁ。人に畏れられなかったら妖怪失格だぁ。おいら都会でもやれると思ってたけど、ダメだったわ。二人とも、迷惑かけてすんません。おいら、一回田舎に帰って出直してきます」
それだけ言って、消滅した。というより、この場から去っていったのだろう。べとべとさんは誰にも気づかれず尾行することができる妖怪だ。つまり、人の認識の隙間を塗ることに長けている。おそらくその力を使ったのだろう。
「え? もういなくなってしまったんですか?」
長塚さんが何故か残念そうに告げるが、
「はは……そのようです」
俺は苦笑を返すことしかできなかった。