形見のブローチ、裏の刻印は読めまして?
「お姉様、それ、わたくしのよ」
朝食の席で義妹のベルティーユが指さしたのは、アデリーヌの胸元だった。
五年前に亡くなった母の形見で、紫の石を小さな金の葉が囲んでいる。アデリーヌは毎朝これを留めて食堂に降りてくる。屋敷の誰もが知っていることだ。
「寝ぼけていらっしゃるの? これはお母様の……」
「お母様がくださったの。ねえ、お母様?」
継母のカミーユが紅茶のカップを置き、にっこり笑った。
「ええ、私があげたのよ。ベルティーユの十六のお祝いに」
アデリーヌはパンをちぎる手を止めた。
(あげた? あなたの物でもないのに?)
「お義母様。これはわたくしの母の物ですわ。お義母様がこの家にいらっしゃる一年も前に、母は亡くなっております。いつ、どこで、お義母様の物になりましたの?」
「怖い顔をしないで。この家の物は、いまは私が預かっているの」
「預かるのと、あげるのは別のお話ですわね」
「お姉様ったら細かいのね」
ベルティーユが唇をとがらせた。
「だってそのブローチ、わたくしの髪の色にぴったりなんだもの。お姉様の地味なドレスにはもったいないわ」
ドレスが地味になったのは、新しいドレスの仕立て代がここ四年ずっとベルティーユに回されているからだ。アデリーヌがそれを言いかけたとき、上座で書類をめくる音が止まった。
父のロシュフォール伯爵が、ため息をついて顔を上げた。
「アデリーヌ」
「お父様もご存じですわよね。これは、お母様が」
「姉なら譲りなさい」
父は席を立ち、テーブルを回ってきた。アデリーヌが身を引くより早く、大きな手が胸元の留め金に伸びる。
「お父様、待って」
「たかがブローチひとつで妹と揉めるんじゃない。みっともない」
かちりと小さな音がして、胸が急に軽くなった。父はブローチを、そのままベルティーユの手のひらに落とした。
「ありがとう、お父様!」
ベルティーユはさっそく自分の胸に留め、窓の光にかざしてくるりと回ってみせた。カミーユが手を叩く。給仕の侍女たちは、皿の上だけを見ていた。
アデリーヌは、空になった胸元を手で押さえた。毎朝そこにあった重みが、きれいに消えている。
(たかが、ね。お父様にとっては、お母様もたかがなのかしら)
あのブローチの裏に何が彫ってあるのか、この食堂の誰も知らない。父でさえ、たぶん一度も裏返したことがない。
アデリーヌが幼かった頃、母のエレオノールは寝る前に娘を膝に乗せるのが好きだった。
膝の上で開くのは、いつも古い本だった。いまでは誰も使わない、くるくると丸まった綴りで書かれた本だ。母は実家でその字を習ったのだと言った。
「ほら、この丸いのが『あ』よ。尻尾がくるんとしているでしょう」
「おさるの尻尾みたい」
「そうね。じゃあ、おさるの『あ』」
母は笑うと目尻にしわが寄った。アデリーヌはそのしわが好きだった。
「お母様、どうしてこんな難しい字を覚えたの?」
「おばあ様が教えてくれたの。大事なことは、この字で書く家だったのよ。誰にでも読める字だと、誰にでも書き換えられてしまうから」
アデリーヌには、半分も意味が分からなかった。ただ、母の膝が温かかったことだけを覚えている。
本を閉じると、母はきまって胸のブローチを外し、裏返してアデリーヌの手に載せた。金の台座の裏に、細い線がびっしりと並んでいる。
「なぞってごらん」
小さな指で線をたどると、ひんやりした金がくすぐったかった。
「なんて書いてあるの?」
「大きくなったら読めるわ。この字が全部読めるようになったら、あなたはもう大人よ」
「石のほうがきれいなのに、どうして裏に書くの?」
母は少し考えてから、ブローチを光に透かした。
「石はね、盗まれることがあるの。でも、ここに彫った言葉は、誰にも盗めないのよ」
アデリーヌがその字を全部読めるようになったのは、十三の冬だった。母が病で亡くなる、ひと月前のことだ。
何が書いてあったのかは、誰にも話していない。話したら、母の声が自分の中から少し減ってしまう気がしたからだ。
ブローチを取り上げられたその日の夜、アデリーヌはベルティーユの部屋に忍び込んだ。
盗むのではない。返してもらうだけだ。ベルティーユは湯浴みの最中で、部屋には香水の匂いだけが残っていた。化粧台の宝石箱を開けると、ブローチはいちばん上に無造作に転がっていた。
(ほらね。大事にする気なんて、最初からないじゃない)
手を伸ばした、そのときだった。
「泥棒! お姉様がわたくしの部屋に!」
湯上がりの髪を拭きながら、ベルティーユが扉の前で叫んでいた。廊下に足音が集まってくる。侍女が三人、従僕が二人、最後にカミーユと父が来た。
「わたくしの物を取り返しに来ただけですわ」
「まだ言うのか」
父の手のひらが頬に飛んだ。ぱん、と乾いた音がして、侍女のひとりが息をのんだ。
「物置部屋に入れておけ。反省するまで出すな」
物置部屋は北の端にある。古い椅子と割れた額縁と、山ほどの埃があった。扉が閉まると、明かりは天井近くの小窓ひとつきりになった。
アデリーヌは埃に咳き込みながら、壊れた椅子に腰を下ろした。頬がじんじん熱い。
「盗ったのはどっちよ。冗談じゃないわ」
口に出したら、少しすっきりした。
夜更けに扉が細く開いて、老侍女のナタリーが毛布を差し入れてくれた。母がこの家に嫁いでくる前から、母に仕えていた人だ。
「お嬢様、お寒いでしょう」
「平気よ、ナタリー。埃のおかげで、くしゃみで体が温まるの」
「まあまあ、そんなことをおっしゃって」
翌朝、カミーユは使用人を玄関広間に並べ、その前でアデリーヌに灰色の前掛けを差し出した。
「反省のしるしよ。しばらくは下働きと同じ服で過ごしなさい」
「お義母様のお下がりでなくて安心しましたわ。丈が合いませんもの」
カミーユの笑顔が、一瞬だけ引きつった。並んだ侍女のうち、いちばん若い子が床に目を落とした。
その日から、屋敷じゅうがアデリーヌから目を逸らすようになった。廊下ですれ違う使用人が、ひそひそと「泥棒のお嬢様」とささやく。
アデリーヌは灰色の前掛けの紐をきゅっと結んだ。
洗い場でナタリーと並んで皿を拭いていると、あの若い侍女が気の毒そうに耳打ちしてきた。
「お嬢様、奥様はまた新しい肖像画をお頼みになったそうです。今度は秋と冬の二枚いっぺんだとか」
「夏の分が、先週やっと廊下に掛かったばかりなのに?」
「旦那様は、金庫が空になると頭を抱えていらっしゃいます」
(お母様の宝石箱に手をつけるのも、時間の問題ね)
アデリーヌは拭き終えた皿を棚に戻した。頭の中では、もう別のことを考えていた。
取り返すまで、何度でもこの紐を結んでやる。
四日後、屋敷に宝石商が来た。
カミーユの買い物で、家の金庫が軽くなりすぎたのだ。父は母の残した宝石を売ることに決めた。
「アデリーヌ、お客様をご案内なさい。どうせ暇でしょう」
カミーユに言われて玄関に出ると、地味な外套の青年が立っていた。歳は二十四、五といったところだろうか。人のよさそうな目をしている。
「宝飾工房ヴァンドームのジルベールです。伯爵閣下にお呼びいただきました」
「ようこそおいでくださいました。客間までご案内いたしますわ」
玄関広間に入ったとたん、ジルベールの足が止まった。広間の真ん中に、金色の白鳥の噴水がそびえていたからだ。
「……これは、見事な」
「奥様がお買いになった白鳥ですの。首が三つありますでしょう。ひとつでは寂しいからだそうですわ」
「なるほど」
「水も三か所から出ますの。ただ真ん中の首だけは、ときどき来客にかかります。お気をつけて」
ジルベールが噴水からそっと一歩離れた。
廊下の壁には、カミーユの肖像画が三枚並んでいる。
「こちらが春の奥様、こちらが夏の奥様、こちらが少しお若い頃の奥様ですわ」
「秋と冬は」
「ただいま画家が描いておりますの。来年には、この廊下がたぶん奥様でいっぱいになりますわね」
とうとうジルベールが吹き出した。笑いをこらえようとして、肩が小刻みに揺れている。
「失礼。あなたは、この家の侍女の方ですか」
「いいえ。この家の泥棒ですわ」
ジルベールが目を丸くした。アデリーヌは澄ました顔で客間の扉を開けた。
客間では、執事が母の宝石箱を卓に並べて待っていた。執事はジルベールに茶を出そうとして、彼の左手の指輪に目を留めた。ほんの一瞬だけ、腰が深く折れた。すぐに何事もなかったように、いつもの浅い会釈に戻る。
(いまの、なに?)
アデリーヌが首をかしげるあいだに、父とカミーユが入ってきた。カミーユはジルベールを見るなり声を弾ませた。
「ヴァンドームの若当主様ですって? 王宮の夜会にも毎年招かれる工房でしょう。来週の夜会では、うちのベルティーユもぜひお見知りおきを」
父が咳払いをして、カミーユを黙らせた。
ジルベールが宝石箱の蓋を開ける。真珠の首飾り、青い耳飾り、銀の髪留め。そのいちばん奥に、ブローチの形にくぼんだ空っぽの台があった。
父とカミーユが値段の書付を取りに席を外すと、客間には茶の給仕を言いつけられたアデリーヌとジルベールだけが残った。
アデリーヌは空っぽのくぼみを見つめたまま口を開いた。
「ひとつ、伺ってもよろしいかしら」
「どうぞ」
「宝石の裏に字を彫ることって、あります?」
ジルベールは宝石箱の蓋の内側を指でなぞった。小さく、ヴァンドームの印が焼きつけてあった。
「この箱はうちの工房のものですね。当家では注文主の言葉を台座の裏に彫る決まりがありまして。祖父の代からずっとです。何を彫ったかは注文主の名前と品と一緒に帳面に全部書いてあって、それが年ごとに一冊ずつ……」
そこで彼は口をつぐみ、少し赤くなった。
「失礼。宝石の話になると早口になるんです」
「宝石屋さんにも、お喋りな方がいらっしゃるのね。その帳面、十八年前のぶんも残っていますの?」
「祖父の帳面なら、一冊残らず」
アデリーヌは顔を上げた。
「来週の夜会に、その帳面を持ってきていただけません? それから、わたくしもお連れになって」
「帳面と、あなたを?」
「さきほど義母が申しておりましたわ。ヴァンドームは毎年招かれる工房だって。下働きの服では門で止められますけれど、お連れの方なら入れますでしょう」
ジルベールは目を瞬いた。
「何をなさるおつもりです」
「取り返したい物がありますの。泥棒の汚名と一緒に」
アデリーヌは空のくぼみを指さした。
「ここに入っていたブローチの裏には、母が彫らせた言葉がありますの。わたくしは読めますわ。でも、わたくしが読んでも誰も確かめられません。泥棒の作り話だと言われておしまいですもの」
「それで帳面を」
「ええ。それと、ブローチはわたくしが出すのではありませんの。あの子はあれから毎朝、食堂でブローチを光にかざして回ってみせていますわ。褒められそうな物を、人前で見せびらかさずにいられない子ですから」
ジルベールは少しのあいだアデリーヌを見ていた。それから、楽しそうに口の端を上げた。
「泥棒の頼みを聞く宝石屋は、あまりいませんよ」
「でしたら、泥棒の案内で笑い出す宝石屋も、あまりいませんわね」
今度はジルベールが声を立てて笑った。彼は空っぽのくぼみを指先で軽く叩いた。
「この台に収まっていた物の持ち主を帳面で確かめるくらいなら、宝石屋の仕事のうちです。同伴のほうは、白鳥の首が三つある理由を教えてもらった礼にしておきましょう」
アデリーヌは頬に残る痛みを忘れて、思わず笑ってしまった。この人は、どうやら冗談の分かる宝石屋らしい。
その夜、アデリーヌは物置部屋でナタリーに打ち明けた。夜会のこと、帳面のこと、ドレスが一着もないこと。
ナタリーは黙って立ち上がり、物置部屋の奥の古い長持を開けた。中から出てきたのは、紺色の絹のドレスだった。
「前の奥様のお気に入りでした。旦那様に処分しろと言われたとき、こっそりここへ隠しておいたのです」
アデリーヌはドレスを抱きしめた。かすかに、母の使っていた石鹸の匂いがした。
夜会の日の夕方、カミーユは物置部屋の扉越しに言った。
「あなたは留守番よ。反省中でしょう」
ロシュフォール家の馬車が門を出ていくのを、アデリーヌは小窓から見送った。それからナタリーに、紺色のドレスの背中のボタンを留めてもらった。母とアデリーヌは、背丈がほとんど同じだった。
裏門の外には、地味な馬車が待っていた。
王宮の門では、衛兵が一台ずつ招待状を改めていた。ジルベールの招待状を受け取った衛兵は、彼の左手にちらりと目をやり、黙って背筋を伸ばした。
夜会の広間は、たくさんの灯りで昼より明るかった。
広間の入り口で、係の者が「宝飾工房ヴァンドーム、ジルベール様」と呼び上げた。紺色のドレスのアデリーヌが彼の腕を取って入っていくと、聞き覚えのある甘い声がした。
「素敵なブローチですわね」
「ええ。母の実家に代々伝わる品なの」
ベルティーユが婚約者のマルセルの腕に手をかけて、貴婦人たちに胸元を見せていた。紫の石が灯りを跳ね返している。カミーユが隣で満足そうにうなずいていた。
(お義母様のご実家に、そんな品があったかしら。あったら、とうに売っていらっしゃるわね)
入り口近くの客たちが、少し古風な紺のドレスを振り返ってざわめいた。最初にこちらを見たのはカミーユだった。
「どうしてあの子がここに」
カミーユの扇がぴたりと止まった。父はグラスを持つ手を宙に浮かせたまま、動かなくなった。
ベルティーユがマルセルの腕に手をかけたまま、よく通る声で言った。
「まあ、お姉様。泥棒のくせに、どこから入り込んだの?」
近くの貴婦人たちが扇の陰で目を見交わし、年配の侯爵夫人が眉をひそめた。
「そのドレスも、どこから持ち出していらしたのかしら」
アデリーヌは返事の代わりに、ジルベールの腕を取る手に少しだけ力をこめた。言い返すのは、あとでいい。
それからベルティーユは、アデリーヌの隣の青年を見て目を輝かせた。
「あの方、ヴァンドームの若当主様じゃない? 王家の宝石も扱っていらっしゃる」
「それがどうした」
マルセルがそっけなく答える。
「鑑定していただくのよ。このブローチがどれだけの品か、皆さまに知っていただかなくちゃ」
ベルティーユはマルセルの腕を離し、まっすぐジルベールのほうへ歩き出した。
アデリーヌは扇の陰で、そっと息を整えた。
(ほらね。ご自分から来てくださった。手間が省けて助かるわ)
ベルティーユは胸のブローチを指先でつまみ、広間の灯りにかざして見せた。
「ジルベール様、せっかくですもの。皆さまの前で鑑定してくださらない? 母の実家に代々伝わる品なの」
宝石商の若当主は、差し出されたブローチを手のひらに載せた。紫の石を灯りに透かし、金の葉の細工を親指でなぞる。
「いい石です。それに、この葉の彫り方には見覚えがある」
「でしょう?」
「当家の品ですから」
ベルティーユの笑顔が、少しだけ固まった。
「十八年前、うちの工房で作ったものです。当家では、注文主の言葉を台座の裏に彫る決まりがありまして」
ジルベールはブローチを裏返し、彼女の目の前に差し出した。
「お嬢様。裏の刻印、読んでいただけますか」
金の台座に、細い線がびっしりと並んでいる。いまでは誰も使わない、古い綴りだった。
「こ、これは……ただの模様で……」
声が裏返った。広間のあちこちで、扇がゆっくり持ち上がる。
さきほど眉をひそめた年配の侯爵夫人が、のぞきこんで首をかしげた。
「古い綴りね。祖母の手紙で見たきりだわ。わたくしにも読めない」
アデリーヌは一歩前に出た。
「読めませんの? 毎朝あれだけ見せびらかしていらしたのに」
誰かが小さく吹き出した。
「では、わたくしが読みますわね」
見なくても読める。幼い頃から毎晩、母の膝の上でなぞってきた文字だ。
「わたしの小さなアデリーヌへ。あなたが生まれた朝に。母より」
五年間、誰にも聞かせなかった母の言葉だった。読み終えたとたん、喉の奥がきゅっと熱くなった。泣くつもりはなかったのに、目の縁だけが勝手に滲む。
ジルベールが懐から古い帳面を取り出し、頁を開いて掲げた。
「十八年前の注文控えです。注文主は、ロシュフォール伯爵夫人エレオノール様。彫る言葉も、祖父がいまの字に直して控えてあります。いま読まれたとおりです」
ざわめきが波のように広がった。
「では、あのブローチは姉君の……」
「さっき泥棒と呼ばれていたのは、姉君のほうでしたわよね?」
ベルティーユの隣で、婚約者のマルセルが一歩下がった。
「マルセル様?」
「……ベルティーユ嬢。この縁談は、父と相談させていただく」
伸ばされた手を、彼は取らなかった。継母のカミーユは扇を取り落とし、父はその場から一歩も動けずにいる。
アデリーヌはジルベールの手からブローチを受け取り、胸に留めた。いつもの重さが戻ってくる。
「ブローチは盗めても、お母様の言葉までは盗めなかったみたいね」
ささやきが、今度はベルティーユの背中に集まっていく。床に落ちた扇を、誰も拾わなかった。
最初に口を開いたのは父だった。
「アデリーヌ、これは何かの間違いで……」
「間違い?」
さっきの侯爵夫人が、扇の陰から父を見上げた。
「さきほど、妹君が姉君を泥棒とお呼びになっていたわね。伯爵は黙って聞いていらしたけれど、あれも何かの間違いでしたの?」
父は口を開け、また閉じた。
ベルティーユがくるりとカミーユを振り返った。目にいっぱい涙をためている。
「お母様が、あげるって言ったじゃない! お母様の物だって!」
「わ、私は、この家の物をあなたにと思っただけで……」
「この家の物じゃなくて、お姉様のお母様の物だったんでしょう!」
娘の甲高い声が、広間の隅まで響いた。カミーユは真っ赤になって周りを見回したが、目を合わせてくれる客はひとりもいなかった。
翌朝、父がアデリーヌの部屋の前に立っていた。物置部屋ではなく、元の部屋だ。
「アデリーヌ。家に戻ってくれ」
「昨夜のことで、ベルティーユはどこからも招かれなくなるだろう。マルセル殿の家からも、朝いちばんに使いが来た。お前が姉として、あの子をとりなしてやってはくれないか」
「姉として、ですの」
「そうだ。姉なのだから」
アデリーヌは、トランクの留め金をぱちんと閉めた。
「姉なら譲りなさい、でしたわね。お父様」
父の顔が強ばった。
「もう譲りませんわ。お母様の物は、何ひとつ」
廊下の向こうでは、ナタリーが自分の荷物を背負って待っていた。思っていたより、ずっと大きな包みだった。
「ナタリー、それ全部あなたの荷物?」
「半分は前の奥様の本でございます。旦那様が処分しろとおっしゃったので」
「お母様の膝で読んだ古い綴りの本も?」
「いちばん上に入れてございます」
「処分しろと言われた物ばかり、よく取っておいたわね」
「旦那様が処分しろとおっしゃる物は、たいてい大事な物でございますから。それと、叔母様には夜会の晩のうちに文を出しておきました。どちらに転んでも、お嬢様はもうこの家にはいらっしゃらないと思いましたので」
「わたくしより先に決めていたのね」
アデリーヌは笑って、ナタリーの包みの片方を持った。行き先は、王都の小さな屋敷に住む母の妹のところだ。
玄関広間を通ると、カミーユが白鳥の噴水の前で手紙の束を握りしめていた。今朝届いた封筒は、どれも招待の取り消しだった。
「どうして、どこからも……」
ベルティーユは自分の部屋に閉じこもって、朝から一度も出てこないという。
アデリーヌは足を止めなかった。三つ首の白鳥が、真ん中の首からカミーユの裾にぴしゃりと水をかけた。
アデリーヌとナタリーは、笑いながら玄関を出た。
門の外に、見覚えのある地味な馬車が停まっていた。
三日後、叔母の屋敷の客間で、ジルベールは珍しく落ち着かない顔をしていた。
「先に謝っておかなければならないことがあります」
「あら。帳面の代金でしたら、出世払いでお願いしますわ」
「そうではなくて」
ジルベールは左手の指輪を外し、卓の上に置いた。指輪の紋は、王家の紋を小さく崩した形をしていた。
「僕の母は、ヴァンドームの娘でした。先王陛下の側妃になって、僕を産んだ。いまの陛下は、僕の兄です」
アデリーヌは指輪と彼の顔を見比べた。
(執事が、あんなに深く頭を下げたわけね)
「継承の権利は、とうに返しました。王族としての席には一度も出ていないので、僕が王弟だと知っているのは古い家の執事か王宮の衛兵くらいです。いまはただの宝石屋です。ただ、黙っているのは公平じゃないと思って」
「王弟殿下が、白鳥の首の数で吹き出していらしたの?」
「あれは、誰でも笑います」
ジルベールは懐から、小さな箱を取り出した。蓋を開けると、細い金の指輪がふたつ並んでいた。石はない。台座の裏は、どちらも鏡のように平らに磨かれている。
「夜会の翌朝から、工房で自分で打ちました。裏には、まだ何も彫っていません。何を彫るかは、あなたに決めてほしい」
「わたくしに?」
「あの日の玄関から客間までの案内が、いちばん面白い時間でした。泥棒だと名乗って澄ました顔で扉を開けた人を、ずっと考えていました」
そこまで言って、ジルベールは箱の中の指輪に目を落とした。
「地金は、混ぜ物を少し多めにしてあります。純金のままだと、毎日の手仕事で細い輪はすぐ歪んでしまうので。磨きは三度で、最後は鹿の革です。裏を平らに残したのは、彫る余白が要るからで、古い綴りでもいまの字でも彫れるように少し厚みを……」
「殿下」
「はい」
「また早口になっていますわ」
ジルベールは口をつぐみ、箱の蓋を閉めかけて、また開けた。
アデリーヌは手を伸ばし、小さいほうの指輪をつまんで、自分の指に通した。
ひんやりとして、くすぐったかった。母の膝で、初めて台座の裏をなぞった夜と同じ感触だった。
「石は盗まれることがあっても、彫った言葉は誰にも盗めない。母の口癖でしたの」
「いい言葉です」
アデリーヌは、箱に残った大きいほうの指輪を見下ろした。平らな裏に、自分の顔が小さく映っている。
「盗めないなら、あげるしかありませんわね」
アデリーヌはその指輪をつまみ上げ、裏を彼に向けて、いたずらっぽく笑った。
「こちらの裏には、わたくしの言葉を彫りますわ。何を彫るかは内緒です。殿下が古い綴りを読めるようになるまで、教えて差し上げません」
「今日から習います」
ジルベールがあまりに真顔で言ったので、アデリーヌは笑い出してしまった。
「教本でしたら、ナタリーの荷物のいちばん上にありますわ」
アデリーヌは大きいほうの指輪を箱に戻し、蓋を閉めて、自分の膝の上に置いた。
胸のブローチも指の指輪も、裏を肌のほうに向けている。片方の裏には母の言葉があり、もう片方の裏には、まだ何も彫られていない。




