ある大学教授の手記
私はしがない日本の歴史学者である。
地方の私立大学で教鞭を振るっていた。
ある時、学生らが蝉様なるものの噂話をしているところに遭遇し、興味本位で声をかけた。
女学生達は神妙な面持ちであったが、話の内容は荒唐無稽なものだった。
なんでも蝉様という神が山奥に住んでいて、結婚相手を決める村があるとか、蝉様は未来を教えてくれるのだとか、そういうよくある類のほら話だ。
私はそれを一蹴に付し、未来なぞ誰にも分からんのだから真面目に次の試験勉強をするようにと叱責した。
女学生らは不満げではあったが、どこか安心したような顔をしており、この時私はいささかの違和感を覚えたことを記憶している。
次の朝のことである。
いつものように講堂に向かうと例の女学生らが蒼い顔を突き合わせていた。
どうも人数が一人足りない。
私は何某は休みかと彼女らに問うた。
すると彼女らはびくりと肩を震わせて再び顔を見合わせてからコクリとただ一度だけ頷いた。
講義もあるものだから、私もそれ以上の深入りはしなかった。
しかしそれから幾日経っても休みの女学生は現れず、とうとう退学の手続きがなされてしまった。
ある日の夕刻。
その日は血のように赤い夕空が印象的で、どこか不吉な気配のする日だった。
どうにも気持ちの落ち着かなかった私は研究室を早々に後にし、宿舎に戻ることにした。
それが間違いだったのである。
廊下にあの女学生らが屯していた。
彼女らの顔は夕陽を背負って墨のように黒かった。
さながら血の海に佇む影だった。
そんな彼女らが言うのである。
「くくりく くくるき くくらよ さんこうてん」
ぞくりと背筋が粟立った私は、体裁も忘れて彼女らを怒鳴りつけた。
教師を馬鹿にしているのかと。
しかし彼女らはそんな私に臆することも無くこう言ったのだ。
「蝉様を知ったら逃げられない。あの子は見つかって攫われた」
何を言っているのだと私は叫んだが、そこにはもう女学生らの姿がなかった。
事務所に駆け込み、私は件の女学生らの所在を訪ねて愕然とした。
そんな学生はいなかったのだ。
ありえない。ありえない。ありえない。
ではあれは何だったのだ?
退学届けの話は?
つい今しがた私はその子らと話していたのだ。
けれど事務員は困り果てた顔で首を傾げるばかりだった。
その日から、私は何かに捕り憑かれてしまった。
まず両親が急病で立て続けに他界した。
高齢だったから、これは当然のことだったのかもしれない。
次に空き巣が入った。
盗まれたのは私の研究内容一式だった。
どうでもいい江戸文学に関する研究である。
金目の物には目もくれずそれだけ盗む動機がしれなかった。
奇妙なのは部屋中に山羊の糞がばら撒かれていたことだ。
不幸は続いた。
自転車がパンクし、置いたものが場所を変え、冷蔵庫の中身が腐り、行く先々でミミズの大群に出くわした。
そして夜中に蝉の声が聞こえ始めた時には、私に話しかける者は誰もいなくなっていた。
私は疑心暗鬼で常に目を血走らせ、ぶつぶつと独り言を言うようになっていたからだ。
やがて学長から呼び出された私は教授職を解雇されることになった。
アレのせいだ。
くくりく くくるき くくらよ さんこうてん
アレが呪いの言葉だったのだ。
私はこの呪いの正体を突き止めることに死力を尽くすと誓った。




