第8話:天才ハッカーの涙
「闇を知る者だけが、本当の光を灯すことができる。
過去は変えられないが、未来のコマンドは君の手の中にある。」
◾️ 深夜の最後通告
九月中旬。季節は秋へと移ろいつつあったが、夏川葵の心は冷え切っていた。
午後八時。人気の少なくなった地下二階のオフィスで、彼女はスマートフォンを握りしめていた。
画面には、非通知設定の着信履歴が並んでいる。
『今夜だ。今夜実行しなければ、あの写真を警察とマスコミにばら撒く』
留守番電話に残された後藤専務の声は、短く、冷酷だった。
夏川は、デスクの引き出しから黒いUSBメモリを取り出した。
後藤から渡された「監視プログラム」と称するウイルス。解析の結果、それはシステムの中枢権限を奪取し、外部からの遠隔操作を可能にする極めて悪質なバックドア・ツールであることが判明していた。
これをメインサーバに挿せば、西芝の全システムは後藤の支配下に落ちる。桐谷たちの改革も、美冬たちの努力も、すべて水泡に帰す。
(……やるしかないの?)
夏川は唇を噛んだ。
彼女には前科はない。だが、「SummerAce」として活動していた過去が公になれば、今の生活は終わる。エンジニアとしての職も、ようやく見つけた居場所も失うことになる。
怖い。
孤独な夜の恐怖が、かつての記憶と共に蘇る。誰にも理解されず、ただモニターの光だけが友達だったあの日々に戻ることへの恐怖。
「……ごめんね、みんな」
夏川は小さく呟き、立ち上がった。
フロアには誰もいない。桐谷は役員会後の会食に出かけており、美冬や辻も帰宅している。
彼女はUSBメモリを握りしめ、サーバールームへと向かった。
重い扉を開けると、空調の轟音と、無数のLEDランプの点滅が出迎えた。青白い光が、彼女の顔を幽霊のように照らし出す。
メインサーバーのラックの前に立つ。
震える指先で、ポートカバーを外す。
あと数センチ。これを差し込めば、すべてが終わる。
楽になれる。
だが、その手がどうしても動かない。
脳裏に浮かぶのは、ガムテープだらけのセンサーを作って喜んでいた辻の笑顔や、「夏川さん、すごいです!」と目を輝かせていた美冬の顔だった。
裏切りたくない。
でも、自分の人生を守るには、こうするしかない。
「……くっ」
夏川は嗚咽を漏らし、その場にしゃがみ込んだ。
◾️ 光を当てる者
「……夏川さん?」
背後から声がした。
夏川が弾かれたように振り返ると、そこに白雪美冬が立っていた。
手にはコンビニの袋を提げている。
「美冬ちゃん……なんで」
「忘れ物を取りに来たんです。そうしたら、サーバルームの鍵が開いてたから」
美冬はゆっくりと近づいてきた。その視線は、夏川が握りしめている黒いUSBメモリに注がれている。
「……見なかったことにして」
夏川は掠れた声で言った。「お願い、行って」
「行けません」
美冬は首を横に振った。
「夏川さんが泣いてるのに、置いていけません」
「泣いてなんかない!」
夏川は叫んだ。「私はスパイなの! あんたたちの邪魔をしに来たの! だから……!」
「知ってます」
美冬の静かな言葉に、夏川の言葉が止まった。
「……え?」
「桐谷さんから聞きました。夏川さんが、後藤専務に脅されていること。そして、かつて『SummerAce』という凄いハッカーだったこと」
美冬は夏川の隣にしゃがみ込んだ。
「桐谷さんは言っていました。『セキュリティホールは塞ぐものではなく、光を当てるものだ』って」
「……どういう意味よ」
「隠そうとするから、闇になるんです。一人で抱えるから、追い詰められるんです。だったら、全部晒してしまえばいい。光を当ててしまえば、もう誰もそこを攻撃できません」
美冬は夏川の手を取り、自分の両手で包み込んだ。温かい手だった。
「私たちはチームです。少なくとも私は、夏川さんの過去も含めて受け入れます。だから、一人で背負わないでください」
夏川の目から、大粒の涙が溢れ出した。
ずっと、隠してきた。誰にも知られたくない、恥ずべき過去だと思っていた。
でも、この少女は、それを「受け入れる」と言ってくれた。
「……怖いよ。全部失うのが、怖い」
「失いません。私が、私たちが守ります。夏川さんは、西芝に必要な人ですから」
美冬の真っ直ぐな瞳。そこには一点の曇りもなかった。
夏川は、震える手でUSBメモリを美冬に差し出した。
「……これ、ウイルスなの。でも、私が書き換えたの」
「書き換えた?」
「うん。実行すると、ウイルスとしての機能は停止して、代わりに『誰が、いつ、どこから指令を出したか』を記録する逆探知プログラム(トレーサー)になるように……」
夏川は泣き笑いのような顔をした。
「どうしても、裏切れなかった。あんたたちのこと」
美冬はUSBを受け取り、強く抱きしめた。
「ありがとうございます。……夏川さんは、やっぱり最高のエンジニアです」
◾️ ホワイトハッカーの誕生
翌朝。
地下二階のオフィスに、桐谷秀樹が現れた。
彼はデスクに座る夏川の前に立つと、静かに言った。
「おはようございます、夏川さん。昨夜はよく眠れましたか?」
夏川は目の周りを少し赤くしていたが、その表情は憑き物が落ちたようにスッキリしていた。
「ええ。久しぶりに爆睡しました」
彼女はキーボードを叩き、画面に一つのログを表示させた。
「これ、昨夜のサーバアクセスログです。後藤専務のPCから、特定のポートへの接続要求がありました。私の仕掛けた逆探知プログラムが、そのIPアドレスとMACアドレスを完全に捕捉しています」
それは、後藤が不正プログラムの実行を確認しようとした証拠だ。
「動かぬ証拠ですね」
桐谷は満足げに頷いた。
「これで、後藤専務による『社内システムへの不正アクセス教唆』の事実が証明できます。彼が君を脅していたネタなど、この事実に比べれば些細な問題だ」
桐谷は夏川の肩に手を置いた。
「君の過去については、私が身元引受人になります。社長にも話は通してある。『過去に何をしたか』ではなく、『今、何ができるか』を評価するのが、これからの西芝だ」
夏川は、こみ上げるものを堪えて大きく頷いた。
「……ありがとうございます。ボス」
「それと、もう一つ」
桐谷は、美冬と山藤、辻たちを手招きした。
「君たちにも礼を言わなければなりませんね。仲間を信じ、守り抜いたこと。それはどんな技術的スキルよりも尊い、チームとしての強さです」
辻が照れくさそうに鼻をこする。
「へっ、当たり前だろ。こいつがいなくなったら、誰が俺のスパゲッティコードを直してくれるんだよ」
山藤も微笑む。
「夏川さんのスキルは、経営戦略上も重要な資産ですからね。失うわけにはいきません」
そして美冬は、満面の笑みで夏川の手を握った。
「これからもよろしくお願いします、夏川先輩!」
その時、夏川のスマートフォンが鳴った。後藤からの着信だ。
夏川は桐谷を見た。桐谷は「出なさい」と目で合図した。
夏川は深呼吸をして、通話ボタンを押した。
「……はい、夏川です」
『おい! どうなった! プログラムは実行したのか!』
後藤の焦った声が響く。
夏川は、かつてないほど冷静な声で告げた。
「ええ、実行しましたよ専務。貴方のための『特製プログラム』をね」
『な、なに?』
「貴方のPCの操作ログ、通信履歴、そして私への脅迫メール。すべて保全しました。これらは現在、社長と監査役のメールボックスに転送されています」
『き、貴様……! ただで済むと思っているのか! あの写真を……』
「どうぞご自由に。私はもう、逃げも隠れもしません。警察でもマスコミでも、どこへでも行って全部話します」
夏川は言葉を切った。
「私は、もう『SummerAce』じゃありません。西芝電気・情報システム部のエンジニア、夏川葵です。……二度と、私の仲間に手出ししないでください」
通話を切る。
静寂の後、フロアに拍手が響いた。
夏川は椅子に深くもたれかかり、天井を見上げた。
蛍光灯の光が、今日はやけに眩しく、そして温かく感じられた。
地下の掃き溜めに、最強の守護神が誕生した瞬間だった。
これで、内なる敵はいなくなった。チームは一枚岩となり、いよいよ本格的な反転攻勢へと向かう。




