第23話:論理爆弾(ロジックボム)の秒読み
「最大の防御とは、攻撃を防ぐことではない。
攻撃されたことすら悟らせず、
そのエネルギーを虚空へと逸らすことである。」
◾️ 論理爆弾
六月二十四日。株主総会の前日。
西芝電機本社ビルは、台風の接近に伴う低い気圧と、決戦を前にした重苦しい緊張感に包まれていた。
十階のDX推進部(旧情シス部)では、明日の総会に向けた最終的なシステム点検が行われていた。
総会では、北室社長がタブレットを使ってリアルタイムで業績データを示し、株主からの質問にAIが即座に関連資料を提示するデモンストレーションが予定されている。
失敗は許されない。
「……インフラ負荷、正常。回線遅延、許容範囲内」
辻正一がモニターを見ながら報告する。
「データ整合性チェック、完了。……問題ありません」
佐久間健も頷く。
すべては順調に見えた。
だが、セキュリティ監視席に座る夏川葵だけは、険しい顔でキーボードを叩き続けていた。
「……おかしい」
「どうしたの、夏川さん?」
美冬が声をかける。
「メインストレージの深層領域で、奇妙なプロセスが動いてる。通常の監視ツールじゃ見えない、ステルス化されたプロセスよ」
夏川は画面上の波形を指差した。
「まるで心臓の鼓動みたいに、一定間隔で微弱な信号を出してる。……これ、ただのバグじゃないわ」
夏川は、自身の特製解析ツール『SummerAce_Scanner』を起動した。
黒い画面に、緑色のコードが高速で流れる。
やがて、画面の中央に赤い警告文字が表示された。
『Unknown Threat Detected (未知の脅威を検知)』
『Trigger: 202X-06-25 10:05:00』
「六月二十五日、十時五分……!」
美冬が息を飲む。
明日の株主総会開始時刻、その直後だ。
「桐谷さん!」
美冬の叫び声に、CIO室から桐谷が出てきた。
「見つけましたか」
桐谷はモニターを覗き込み、表情を凍らせた。
「……論理爆弾です」
「ロジックボム?」
山藤が聞き返す。
「特定の条件が満たされた時に作動する、悪意あるプログラムです。……夏川さん、ペイロード(爆発の中身)は?」
夏川がさらにコードを掘り下げる。手が震えている。
「……信じられない。『rm -rf / --no-preserve-root』……全データの強制削除コマンドよ」
フロアに戦慄が走る。
「顧客データ、設計図、生産管理ログ、経理データ……それにバックアップ領域へのアクセス権限も奪取する設計になってる。これが発動したら、西芝のデジタル資産は一瞬で『無』になるわ」
「会社が……消える」
辻が青ざめる。
百年かけて積み上げてきた技術も、この一年で築いた信頼も、すべてが電子の海に消える。
後藤専務は、本気で会社を道連れにする気なのだ。
「解除コードは?」
桐谷が短く問う。
「探してるけど……ダメ、暗号化が複雑すぎる。AES256ビットに加え、独自のハッシュ関数が組み込まれてる。総当たり攻撃じゃ、解くのに百年はかかるわ」
夏川が絶望的に首を振る。
残り時間は、あと十八時間。
解除不能な時限爆弾が、西芝の心臓部で静かにカウントダウンを刻んでいた。
◾️ 解除不能
十階のフロアは、通夜のような静けさに包まれていた。
窓の外では雨が激しくなり、窓ガラスを叩きつけている。
「……システムを止めましょう」
山藤が提案した。
「サーバーの電源を落とし、物理的にストレージを切り離せば、プログラムは実行されません」
「ダメよ」
夏川が即座に否定する。
「この爆弾、ブービートラップ(機雷)付きだわ。『システム稼働率が低下』したり『ネットワークから切断』されたりすると、その瞬間に起爆するロジックが組まれてる」
「なっ……! じゃあ、電源も切れないのか!」
辻が机を叩く。
「それに、明日の総会でシステムを使えなければ、その時点で我々の負けです」
桐谷が静かに言った。
「後藤専務は、『現経営陣にはシステム管理能力がない』と糾弾するために、この状況を作り出したのです。システムを止めれば、彼の主張を認めることになる」
進むも地獄、退くも地獄。
完全にチェックメイトされたように見えた。
「後藤専務に……頼むしかないでしょうか」
美冬が苦渋の表情で言う。
「彼に頭を下げて、解除コードを聞き出すしか……」
「無駄です」
桐谷は冷徹に断じた。
「彼は、自分が仕掛けたという証拠を残しません。シラを切るでしょう。そして、総会の場で爆発させ、『ほら見たことか』と笑うつもりです」
万策尽きた。
誰もがそう思った時、桐谷が静かに言った。
「……予定通り、『サンドボックス作戦』を実行します」
「えっ、本気ですか?」
夏川が驚いて顔を上げる。
「あくまで理論上のカウンタープランだと思ってました。実際にやるとなると……リスクが高すぎるわ」
夏川は首を振った。
「西芝の全データは約五十ペタバイト(五万テラバイト)。それを一晩で仮想環境に移行するなんて物理的に無理よ。専用線を使ったって一週間はかかるわ!」
CPUもメモリも、そして何より回線の帯域が足りない。
沈黙の中、一人の男が手を挙げた。
元経理の大森剛だ。
「……データなら、あります」
「え?」
「関西のデータセンターに、DR(災害復旧)用のバックアップシステムがあります。昨夜の時点で、全データの同期が完了しています」
大森は眼鏡の位置を直しながら言った。
「経営会議では毎回『維持費の無駄だ』『そんな災害は起きない』と後藤専務たちに削減を迫られてきましたが……私が意地で予算を死守してきました。一円も削らせなかった」
美冬が目を見開く。
地味で、誰も感謝しなかった「備え」。それが今、最強の武器になろうとしている。
桐谷が頷いた。
「使いましょう。関西にあるそのバックアップデータを『ベース』として仮想環境を起動します」
桐谷はホワイトボードに図を描いた。
「五十ペタバイトをコピーする必要はありません。昨夜から今この瞬間までに発生した『差分データ』だけを、リアルタイムで関西へ転送し、同期させるのです」
「差分転送……!」
夏川が計算を始める。
「それならいける! データ量は数テラバイトに収まるわ。一晩あれば同期できる!」
「ただし」
桐谷は続けた。
「仮想環境を動かすための計算リソース(CPU・メモリ)が、関西のセンターだけでは足りません。……そこで、美冬さん」
桐谷は美冬を見た。
「貴女のネットワークを使います。全国の工場にあるサーバーをグリッド(結合)させ、関西の仮想環境に計算能力を供給してください」
壮大すぎる計画。
過去の遺産と、現在の絆。
その二つを組み合わせることでしか、この危機は突破できない。
美冬は立ち上がった。
「……やりましょう。全国の拠点に連絡します!」
◾️ サンドボックス作戦
決戦の夜が始まった。
十九時。
美冬は全国の工場長やIT担当者と緊急Web会議を繋いだ。
「お願いします! 皆さんの工場のサーバーを、今夜一晩だけ貸してください!」
画面の向こうで、岩工場長が腕組みをしている。
『サーバーを貸すってことは、今夜の生産計画シミュレーションも止まるってことか?』
「はい。……ですが、これをしないと、明日の朝には西芝の全データが消えます。大森さんが守ってくれたバックアップだけじゃ、システムを動かせないんです」
美冬は必死に訴えた。
岩はしばらく沈黙し、そしてニヤリと笑った。
『……上等じゃねえか。俺たちのサーバーで会社が救えるなら、安いもんだ』
『岩手も協力します!』『四日市もOKだ!』
かつて美冬が築いた「信頼のネットワーク」が、今、物理的な「計算リソースのネットワーク」となって返ってきたのだ。
二十一時。
作戦開始。
まずは大森が管理していた関西のDRサイトを「マスター」として起動させる。
「バックアップ正常確認。……よかった、データは生きています」
大森が安堵の息を漏らす。彼が数年間、来る日も来る日もチェックし続けてきたデータだ。
「よし、次は差分転送!」
夏川がキーボードを叩く。
「本社の更新ログを関西へ流し込め! 帯域フル解放!」
ネットワークのグラフが跳ね上がる。
同時に、全国の工場から提供されたCPUパワーが、関西の仮想サーバーに注入されていく。
画面の数字が、雪崩のように増えていった。
二十三時。
最大の難関、爆弾プロセスの移行が始まった。
本番環境で動いている「ロジックボム」のプロセスを、気づかれないように仮想環境側へ誘導する。
「辻さん、回線揺らさないでよ! パケットロスしたら爆弾が起きるわ!」
「分かってる! ルーターの設定、再適正化!」
辻が汗だくでコンソールを操作する。
美冬は、固唾を飲んでモニターを見守っていた。
(お願い……うまくいって)
午前三時。
作業は佳境を迎えていた。全員の疲労は限界を超えている。
美冬は、コンビニで買ってきた栄養ドリンクを配って回った。
ふと、CIO室を見ると、桐谷が仁王立ちでモニターを見つめていた。
彼は技術的な指示は出さない。だが、その視線が「迷うな」と語りかけてくる。
午前五時。夜明け前。
雨は上がり、東の空が白み始めていた。
『Synchronization Complete (同期完了)』
夏川の画面に、緑色の文字が表示された。
「……入った」
夏川がガクリと項垂れる。
「爆弾は今、関西の仮想環境の中にいます。本人はまだ本社のサーバーにいると思い込んでる。……完璧な『鏡の世界』よ」
「やった……!」
フロア中から、押し殺したような歓声が上がった。
大森が眼鏡を外して涙を拭く。
「無駄じゃなかった……。私のバックアップは、無駄じゃなかった」
「ああ、お手柄だよ大森さん」
辻が肩を叩く。
桐谷が出てきた。
「お疲れ様でした。見事な手際です」
彼は全員を見渡した。
「ですが、まだ半分です。……これより、最終フェーズに移行します」
桐谷は美冬を見た。
「美冬さん。この『箱庭』の映像を、総会会場のスクリーンに出力する準備を」
「えっ、会場に?」
「ええ。後藤専務がスイッチを押した瞬間、何が起きるか。……株主の皆さんに、特等席で見てもらうのです」
桐谷の目が、冷たく光った。
「……これで終わらせます」
六月二十五日、朝。
運命の株主総会当日。
会場となるホテルの大ホールには、早くも後藤派が動員した株主たちが詰めかけ、殺気だった空気が漂っていた。
舞台裏で、美冬は震える手をSTノートで押さえた。
眠い。怖い。でも、負けない。
私たちの作った「箱庭」で、悪夢を終わらせるんだ。
いよいよ、開演のベルが鳴る。




