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再起動のストラテジー  作者: アルテミス


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第22話:評価される人々

「給与とは、我慢料ではない。

 それは、プロフェッショナルが提供した『価値』への対価であり、

 未来への『投資』である。」

◾️ 正当な対価


 五月二十五日。給料日。

 西芝電機では、今月から新しい人事評価制度に基づいた給与が支給されることになっていた。

 これまでの「年功序列型(メンバーシップ型)」から、「役割・成果型(ジョブ型)」への完全移行。

 年齢や勤続年数に関係なく、担当する職務の難易度と、出した成果によって報酬が決まる仕組みだ。


 十階のDX推進部。

 昼休み、フロアの片隅で、かつて「お荷物社員」と呼ばれた三人の男たちが、スマホの給与明細画面を食い入るように見つめていた。

 元経理の大森剛。元品証の佐久間健。元製造の加藤。

 彼らはこのチームの立ち上げメンバーであり、今やDX推進部の欠かせないスペシャリストたちだ。


「……計算が、合いません」

 大森が震える声で言った。

「どうした、大森。減らされたか?」

 隣の席の辻正一が心配そうに覗き込む。

「いえ……増えています。それも、異常な数値です」

 大森は眼鏡の位置を直しながら、画面を指差した。

「基本給が40%アップ。さらに『専門職手当』と『特別成果給』が加算され……手取り額が、先月の倍近くになっています。これは経理システムのバグではないでしょうか?」

「いや、バグじゃないぞ」

 佐久間も自分の画面を見て、呆然としていた。

「私もだ。品証時代は『細かいことばかり言うな』とマイナス査定されていた私の評価ランクが、最高位の『S』になっている。……備考欄に『テスト自動化による工数削減効果および品質向上への貢献』と書いてある」

「俺もだ……」

 加藤が目を潤ませている。

「『IoTセンサーの教師データ作成における卓越した技能』だってよ。……俺の耳が、金になったんだ」


 彼らは長年、西芝という組織の中で不遇をかこってきた。

 大森の厳格さは「融通が利かない」と疎まれ、佐久間の慎重さは「スピード感がない」と批判され、加藤の職人芸は「データ化できない」と軽視されてきた。

 だが、デジタル化された西芝では、彼らの能力こそが最強の武器アセットだった。

 桐谷が導入した新制度は、それを正当に評価し、対価として還元したのだ。


「……桐谷部長のところへ行ってくる」

 大森が立ち上がった。

「おい、文句言いに行くのか?」

「いえ。……お礼です」


 CIO室。

 桐谷は、三人が並んで頭を下げるのを、静かに見守っていた。

「ありがとうございます。この歳になって、初めて自分の仕事を認められた気がします」

 大森の声が震えている。金銭の多寡ではない。自分の存在価値を肯定されたことへの喜びだ。

 桐谷はデスクから立ち上がり、彼らに向き合った。

「お礼を言うのは会社の方です。貴方たちは、不遇な環境でも腐らず、牙を研ぎ続けていた。そのプロフェッショナリズムに対し、市場価値マーケットバリュー通りの価格をつけたに過ぎません」

 桐谷は微笑んだ。

「その給与は、我慢料ではありません。貴方たちが生み出した『価値』です。胸を張って受け取ってください」


 三人が退室した後、部屋の隅で聞いていた美冬は、そっと目元を拭った。

「……よかったですね、みんな」

「ええ。ですが、これは劇薬でもあります」

 桐谷は真顔に戻った。

「成果を出した者が報われるということは、成果を出さない者、ただ会社にぶら下がっているだけの者にとっては、居心地の悪い場所になるということです」

「フリーライダー(ただ乗り社員)の排除、ですね」

 山藤が補足する。

「実際、今月から早期退職の応募が増えています。特に、働かない管理職層からの」

「健全な新陳代謝です」

 桐谷は窓の外を見た。

「組織は、人でできています。良い人材が残り、悪い人材が去る。そのサイクルを回し続けるエンジンこそが、人事制度なのです」


 その日の夕方。

 大森は、久しぶりに定時で退社した。

「今日は、妻に寿司でも買って帰ります。……回らないやつを」

 その背中は、以前の猫背ではなく、ピンと伸びていた。

 美冬はそれを見送りながら思った。

 改革とは、システムを入れることじゃない。

 そこで働く人の、顔を上げさせることなんだ。


◾️ 若きリーダーの誕生


 「お荷物社員」たちが報われた一方で、美冬自身には、かつてない重圧がのしかかっていた。

 五月三十日。

 六月一日の組織変更に向けた辞令交付式。

 北室社長から手渡された辞令には、こう書かれていた。

 『DX推進部 戦略推進課長 兼 CIO補佐官 白雪美冬』


「C……CIO補佐官!?」

 オフィスに戻った美冬は、辞令を持ったままフリーズしていた。

「課長だけじゃなくて、CIO補佐官って……。私、まだ入社二年目ですよ!? さすがにやりすぎじゃありませんか?」

「桐谷さんがCIO(最高情報責任者)として全社の経営判断に専念するからね。現場の指揮権と、桐谷さんの決裁権限の一部を君に委譲するということさ」

 山藤が苦笑しながらも、頼もしげに言う。

「おめでとう、美冬ちゃん。課長昇進だけでも史上最年少記録更新なのに、役員補佐までつくなんて」

 夏川がクラッカーを鳴らす真似をする。


 だが、美冬の心は晴れなかった。

 恐怖だった。

 これまでは「新人」という免罪符があった。桐谷や真冬という「保護者」がいた。

 でも、これからは違う。自分が決断し、自分が責任を取らなければならない。部下の中には、自分より二〇歳も年上のベテランもいるのだ。

「……無理だよ。私なんかが」

 美冬は屋上のベンチで膝を抱えていた。五月の風は心地よかったが、今の美冬には冷たく感じられた。


「弱気だな、新任課長」

 声がして、缶コーヒーが差し出された。

 見上げると、そこには懐かしい顔があった。

 元経営企画部長で、現在は子会社・西芝システムズの役員を務める田中浩だ。山藤の元上司であり、影ながら改革を支援してくれていた人物である。

「田中部長……! どうしてここに?」

「本社に寄ったついでさ。……浮かない顔をしてると思ってね」

 田中は美冬の隣に座った。

「早すぎますか? 二年目での抜擢は」

「……はい。早すぎます。私にはまだ、経験も実績も足りません。周りも納得しないと思います」

 美冬は正直な気持ちを吐露した。

 田中はコーヒーを一口飲み、空を見上げた。

「経験、か。……白雪くん。君はこの一年で、何回の修羅場をくぐった?」

「え?」

「倒産寸前の危機、現場の反発、役員会での対決、炎上対応、サイバー攻撃、そしてストライキの指揮。……普通のサラリーマンなら、定年まで勤めても一度経験するかどうかのトラブルばかりだ」

 田中は美冬を見た。その目は優しく、しかし力強かった。

「時間の長さなんて関係ない。重要なのは『密度』だ。君がこの一年で得た経験値は、平時の西芝の十年分……いや、二十年分に相当する」

「十年分……」

「そうさ。君はもう、立派な十年選手だ。胸を張りなさい」

 田中の言葉が、美冬の胸に染み渡る。

 そうか。私はただ過ぎ去る時間を過ごしていたんじゃない。

 濃縮された時間を、駆け抜けてきたんだ。


「それにね」

 田中は悪戯っぽく笑った。

「リーダーの仕事は、すべてを知っていることじゃない。『分からない』と言える勇気を持つことだ。君には優秀な参謀の山藤や、技術者の夏川や辻がいる。彼らに頼ればいい」

「……はい」

「君の武器は、その『素直さ』と『人を巻き込む力』だ。それは、桐谷さんにも真冬さんにもない、君だけの才能だよ」


 田中が去った後、美冬は立ち上がった。

 屋上から見える東京の街並み。一年前は、ただの灰色の景色だった。

 でも今は、無数のデータと、そこで働く人々の息遣いが感じられる。

 私は、ここで戦う。

 リーダーとして。

 美冬は缶コーヒーを一気に飲み干した。


◾️ 空白のページ


 六月一日。

 美冬の課長就任初日。

 CIO室に呼ばれた美冬は、桐谷と対峙していた。

「覚悟は決まりましたか? 補佐官殿」

 桐谷は試すような目で美冬を見る。

「はい。……完璧ではありませんが、逃げない覚悟はできました」

 美冬は真っ直ぐに桐谷を見返した。

「よろしい」

 桐谷はデスクの引き出しから、一冊のノートを取り出した。

 美冬が使い古した『STノート』だ。先日、桐谷に預けていたものだ。

「返却します。私の書き込み(朱入れ)は、これですべて終わりです」

 美冬はノートを受け取り、ページをめくった。

 そこには、一年間の戦いの記録とともに、桐谷からの詳細なフィードバック、参考文献、思考のフレームワークがびっしりと書き込まれていた。

 それは、世界に一冊だけの、美冬のための教科書だった。


 だが。

 最後のページを開いた時、美冬は手を止めた。

 そこは、白紙だった。

 何も書かれていない。罫線だけが引かれた、真っ白なページ。

「……桐谷さん? ここ、抜けてますよ?」

 美冬が指摘すると、桐谷は首を横に振った。

「抜けているのではありません。そこは、君が書く場所です」

「私が?」

「ええ。私の教えられる戦略ストラテジーは、もうすべて授けました。ここから先の戦い――後藤専務との最終決戦、そしてその後の西芝の未来。それを描くのは私ではない。君たち自身です」

 桐谷は椅子に深く腰掛けた。

「ストラテジストは、いつまでも現場にはいられません。私が去った後、この組織が自走できるか。その最後のテストが、この白紙です」

 

 美冬はノートの白紙を見つめた。

 怖い。正解のない問いに答えることは。

 でも、ワクワクする自分もいた。

 誰かの引いたレールを走るのではなく、自分で線路を敷く。それが「再起動リブート」の本当の意味なのだ。

「……分かりました」

 美冬は胸ポケットからペンを取り出した。

「書きます。私たちの、勝利のシナリオを」


 美冬はペンを走らせた。

 『最終作戦』

 その文字は、かつての自信なげな筆跡とは違い、力強く、迷いがなかった。


 桐谷は満足げに目を細めた。

 ひよこは、もういない。

 ここにいるのは、翼を広げた若き鷲だ。

「では、始めましょうか」

 桐谷は立ち上がり、壁のスクリーンに地図を表示させた。

 それは、六月二十五日の株主総会会場の見取り図。

 そして、システム深部に仕掛けられた「論理爆弾」の構造図だった。

「残された時間は三週間。敵は、総会の開始と同時に爆弾を起動させるつもりです。……これを迎え撃つ『サンドボックス作戦』の詳細を詰めます」


 「お荷物」たちの覚醒。

 若きリーダーの誕生。

 すべてのピースは揃った。

 いよいよ、最後の戦いが幕を開ける。

 だが、彼らはまだ知らない。

 後藤が抱く闇の深さが、論理爆弾ロジックボムだけではないことを。

 追い詰められた獣は、システムだけでなく、物理的な会場リアルをも混乱に陥れるための、最悪の「人間の盾」を用意していた。


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