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再起動のストラテジー  作者: アルテミス


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2/12

第2話:失意の新人、美冬

「『掃き溜め』と呼ぶか、『宝の山』と呼ぶか。

 それは観察者の解像度レンズが決めることだ。」

◾️ 地下二階の流刑地


 四月十四日。新入社員研修を終えた新卒たちが、それぞれの配属先へと散っていく日。

 西芝電機本社のきらびやかな講堂で辞令交付式が行われた後、白雪美冬はひとり、重たい足取りで廊下を歩いていた。

 すれ違う同期たちは、希望に満ちた顔でエレベーターの「上」のボタンを押している。海外営業、広報、商品企画。花形部署への切符を手にした彼らは、自分たちが未来の西芝を背負うのだと信じて疑っていない。

 特に、同期の中でもトップエリートと目されていた山藤健太は、経営企画部への配属が決まり、役職も異例の副主任。早速先輩社員に連れられて役員フロアへと消えていった。去り際に美冬に向けた、「お互い頑張ろうな」という眩しい笑顔が、今の美冬には棘のように突き刺さっていた。


「……なんで、私が情シスなのよ」


 美冬は誰もいない貨物用エレベーターホールで、小さく毒づいた。

 大学では経営工学を専攻し、語学も磨いた。面接では「西芝のグローバル展開に貢献したい」と熱弁し、人事担当者も大きく頷いていたはずだ。それなのに、手渡された辞令には『情報システム部』の文字。

 それは西芝において、「出世コースからの脱落」と同義語だった。

 エレベーターが地下二階に到着し、重い扉が開く。

 一歩踏み出すと、そこは昨日までの研修会場とは別世界だった。空調の効きが悪く、どこか埃っぽい。天井は低く、剥き出しの配管が威圧感を与えている。

 美冬は深呼吸をして、自分のデスクへと向かった。


「……あ、おはようございます。今日から配属になりました、白雪です」

 おずおずと声をかけたが、周囲の反応は鈍い。

「ああ、そこ空いてるから」「適当に座ってて」

 返ってきたのは、PC画面から目を離そうともしない先輩たちの生返事だけだった。

 フロアを見渡す。そこはまさに「掃き溜め」だった。

 積み上げられた段ボールの壁。段ボールの上に、十年前の日付のシールが貼られている。その隙間で、背中を丸めてキーボードを叩く社員たち。彼らの背中からは「諦め」という名のオーラが立ち上っているように見える。

 隣の席では、元経理だという大森剛の電卓を叩く手が、一瞬だけ止まった。

「……1円合わない。まただ。交通費精算の端数処理が間違っている……許せん……」

 ブツブツと呪詛のように呟くその姿に、美冬は背筋が寒くなるのを感じた。

 反対側の席では、元品質保証部の佐久間健が、赤ペンを握りしめて書類を睨んでいる。

「『てにをは』がおかしい。この仕様書の書き方では、解釈の揺れが生じる。書き直しだ。全部書き直しだ……」

 誰も彼もが、自分の殻に閉じこもり、何かに取り憑かれたように細微な作業に没頭している。

 ここには、チームワークも、ビジョンも、未来への希望もない。あるのは、終わりのない単純作業と、過去への執着だけ。


(私は、こんなところで腐っていくの?)

 美冬は机に突っ伏したくなった。PCの修理係や、ヘルプデスクの電話番。それがこれから自分に課せられる仕事なのだと思うと、涙が出そうになる。

 その時、フロアの奥にある部長席のドアが開いた。

 現れたのは、先日着任したばかりの「外部からの助っ人」、桐谷秀樹だ。

 彼は完璧に着こなしたシャツの袖をまくり上げ、鋭い視線でフロアを一瞥した。その目は、一瞬だけ何かを計るような視線だった。

 美冬と目が合う。

 桐谷は無言で手招きをした。「来い」という合図だ。

 美冬は慌てて立ち上がり、緊張で強張る足を動かして部長席へと向かった。これが、この「流刑地」での最初の一歩だった。


◾️ 組織の攻略本


 桐谷のデスク周辺だけは、奇妙なほど整然としていた。紙の山はなく、あるのは最新の薄型ノートPCと、タブレット、そして淹れたてのコーヒーの香りだけ。この地下室で、そこだけが別次元の空気を纏っている。

「白雪美冬。経営学部卒。TOEICは900点超え。希望部署は海外事業部……ふむ、絵に描いたようなエリート候補生だな」

 桐谷はタブレットに表示された美冬の人事データを見ながら、淡々と言った。

「……皮肉ですか」

 美冬は思わず唇を尖らせた。「どうせ私は、ここの掃き溜めに捨てられたんです」

「捨てられた? 君はそう思っているのか」

 桐谷は顔を上げ、美冬を直視した。その瞳の奥には、嘲笑ではなく、探るような光があった。

「違うんですか。同期の山藤くんは経営企画部です。私は、薄暗い地下でPCのキッティングやお守りをするために大学を出たんじゃありません。こんな仕事のためじゃ……」

 溜め込んでいた不満が口をついて出た。言ってしまってから後悔したが、桐谷は怒るどころか、面白そうに口角を上げた。

「PCのお守りか。なるほど、君の目にはこの仕事がそう映っているわけだ」

 桐谷はデスクの引き出しを開け、一冊の分厚い大学ノートを取り出した。表紙は何も書かれていないが、使い込まれて端が擦り切れている。

 それを美冬の前に放り投げた。

「あげるよ。入社祝いだ」

「……なんですか、これ」

「マニュアルだ」

「マニュアル?」

 美冬は拍子抜けした。やはり、PCのセットアップ手順書か何かなのだろうか。

「開いてみなさい」

 促されてノートを開く。そこに書かれていたのは、美冬の予想を裏切るものだった。

 『組織とは、命令系統コマンドラインではなく、プロトコル(約束事)で動く生き物である』

 『ボトルネックは常に、最も声の大きい場所ではなく、最も静かな場所に潜む』

 『リスクは回避するものではなく、管理コントロールし、移転トランスファーし、時には受容アクセプトするものだ』

 びっしりと書き込まれた手書きの文字。そこには、技術的なコードや操作手順などは一切なく、組織論、心理学、そして高度な経営戦略の断片が、独自の実践的な解釈とともに記されていた。

「これは……」

「『STノート』。私が長年書き溜めてきた、ストラテジストとしての知見ナレッジの塊だ。世間ではSABOKやBABOKだのと小難しい体系があるが、それは机上の理論に過ぎない。このノートにあるのは、それらを武器に現場という戦場で血を流して得た、失敗しないための、汚いメモみたいなものだよ」

 桐谷はコーヒーを一口啜り、美冬に告げた。

「君に最初の任務を与える。このノートを武器に、工場の業務フローを『一枚の絵』にしてきなさい」

「絵、ですか?」

「そうだ。今の工場のシステムは、スパゲッティのように絡まり合って誰も全貌を把握していないはず。現場がどう動いているのか、情報はどこで止まっているのか。それを拾ってきてほしい」

 美冬はノートを握りしめた。

「……それって、PC修理より役に立つ仕事なんですか?」

修理屋リペアマンになりたいなら、すぐにそうさせてやる。だが、設計者アーキテクトになりたいなら、現場へ行け。PCを見るな。人を見ろ」

 桐谷の言葉には、拒絶できない重みがあった。

 設計者。その響きに、美冬の胸の奥で燻っていた何かが反応した。

「……わかりました。行ってきます」

 美冬はノートを抱え、逃げるように部長席を離れた。

 背後で桐谷が「失敗してもいいから、どこまでやれるか見せてくれよ」と呟いたのが聞こえた気がしたが、振り返らなかった。


◾️ 観察と診断


 本社から電車とバスを乗り継いで一時間。西芝電機の主力工場である「府中事業所」は、独特の油の匂いと、金属が擦れ合う轟音に包まれていた。

 美冬は作業着に着替え、ヘルメットを被って現場に入った。

「邪魔だ邪魔だ! そこ突っ立ってんじゃねえ!」

 フォークリフトが猛スピードで横切り、怒号が飛ぶ。ここは戦場だ。本社ビルの静寂とは正反対の、生のエネルギーが渦巻く場所。

 美冬は圧倒され、工場の隅に身を潜めた。

(怖い……。何ここ、全然システマチックじゃない)

 DXだのIoTだのと世間では騒がれているが、ここにあるのは昭和の風景そのものだった。職人たちが目視で検品し、手書きのタグを製品に貼り付けている。

 美冬は工場の事務所へ挨拶に行こうとしたが、入口で強面の工場長に怒鳴り返された。

「情シスだあ? 忙しいんだよ! てめえらみたいに涼しい部屋で茶飲んでる連中の相手してる暇はねえ!事故が出たら、俺の首が飛ぶんだよ!」

 門前払い。美冬はすごすごと現場の隅に戻るしかなかった。

 帰ろうか。こんなところにいても意味がない。

 そう思った時、手元の『STノート』が目に入った。

 パラパラとページをめくる。桐谷の殴り書きが目に飛び込んでくる。


 ――『第1条:観察とは、漫然と見ることではない。「違和感」を「診断」することだ』


 診断。美冬は顔を上げた。

 ただ怖がって眺めるのではなく、医者が患者を診るように、この現場を診ろということか。

 美冬は深呼吸をし、目を凝らした。

 作業員たちの動きを目で追う。製品がラインを流れ、加工され、検査され、梱包される。一見、スムーズに流れているように見える。

 だが、しばらく見ていると、ある一点で必ず作業員が足を止めていることに気づいた。

 それは、完成品を梱包した後、出荷エリアに運ぶ手前のデスクだ。

 ベテランらしき作業員が、製品に貼られた「手書きの現品票」を剥がし、デスクの上の「管理台帳(紙)」に書き写している。そしてその後、別の若手社員がその台帳を見ながら、PCの古い端末に数値を入力しているのだ。

 手書きから手書きへ。そして手入力へ。

 二重、三重の手間。しかも、ベテラン作業員は老眼なのか、現品票の文字を読むのに目を細め、時折書き間違いをしては修正液で消している。

 その間、後ろには出荷待ちの製品が滞留し、フォークリフトがイライラと待機している。


(……たぶん、あそこだと思う)

 美冬の中に、電撃のような確信が走った。

 これが、桐谷の言っていた「ボトルネック」。

 情報の血栓が詰まっている場所。

 美冬はノートを取り出し、ペンを走らせた。工場の見取り図を描き、人の動線を矢印で書き込む。そして、そのデスクの部分を赤く塗りつぶした。

 ここをデジタル化すれば……いや、そもそも現品票をバーコードにすれば、転記作業そのものがなくなる。入力ミスもなくなる。フォークリフトの待機時間もゼロになる。

 頭の中で、カイゼンのシミュレーションが駆け巡る。

 さっきまでの恐怖は消えていた。代わりに、パズルのピースがカチリとハマるような、知的興奮が湧き上がってくる。

 気づけば美冬は、油の匂いも騒音も忘れ、何時間もその場に立ち尽くし、一心不乱にノートに「現場の病巣」をスケッチし続けていた。

 夕方のチャイムが鳴る頃、美冬のノートは真っ黒に埋め尽くされていた。

 彼女は汗を拭い、顔を上げた。その瞳には、今朝までの「失意」の色はなく、微かだが確かな「エンジニア」としての熱が宿っていた。美冬の手のひらが、少し汗ばむ。


「……見つけた。私がやるべきこと」


 それはまだ小さな気づきに過ぎない。けれど、巨大な組織を変えるための、最初の一歩だった。

 美冬はヘルメットを脱ぎ、STノートを宝物のように抱きしめ、本社への帰路についた。早く、桐谷に報告したい。その一心で、彼女の足取りは朝よりもずっと軽かった。


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