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再起動のストラテジー  作者: アルテミス


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19/30

第19話:ハッカーの告解(コンフェッション)

バグは消せない。だが、上書き(パッチ)することはできる。

 過去を修正する唯一の方法は、

 未来で正しいコードを書き続けることだ。」

◾️ 最後の脅迫


 三月中旬。

 人事騒動が落ち着き、地下二階の情シス部にようやく平穏が戻ってきた頃、夏川葵の心には、春の嵐のような乱気流が吹き荒れていた。

 原因は、今朝届いた一通のメールだ。

 『SummerAceへ。お前の過去のログは、まだ私が持っている。今夜二十時、本社近くの料亭『松風』に来い。来なければ……』

 差出人は不明だが、誰かは明白だった。

 後藤隆彦専務。

 夏川は震える手でキーボードを叩いたが、指先が冷たくてうまく動かない。

「夏川さん、どうしました? 顔色が真っ青ですよ」

 隣の席の山藤健太が心配そうに声をかけてくる。

「……なんでもない。ちょっと寝不足なだけ」

 夏川は無理やり笑ってみせたが、胃の奥が鉛のように重かった。


 SummerAce。それは夏川が十代の頃に使っていたハンドルネームだ。

 かつて彼女は、企業の不正を暴く「ハクティビスト(政治的ハッカー)」として活動していた。ある時、大手銀行のシステムに侵入し、不正融資の証拠をネットにばら撒いたことがある。

 世間的には義賊扱いされたが、法的には明らかな犯罪だ。

 当時、警察の手が及ぶ前にログを消して逃げ切ったはずだったが、その痕跡を後藤――あるいは彼が雇った裏社会の人間――に握られている。

 それが、彼女が西芝に入社し、スパイとして桐谷を監視させられていた理由だった。

 だが、今は違う。仲間がいる。居場所がある。

 だからこそ、怖い。この居場所を失うことが、何よりも恐ろしかった。


 二十時。料亭『松風』の個室。

 後藤は一人で酒を飲んでいた。人事権を奪われ、社内で孤立した男の目は、血走っていて異様な光を放っていた。

「よく来たな、天才ハッカーくん」

「……用件は何ですか」

 夏川は立ったまま尋ねた。

「座れよ。……単刀直入に言おう。桐谷を引きずり下ろせ」

 後藤は懐から一枚のUSBメモリを取り出し、畳の上に放った。

「これを情シス部のサーバーに挿せ。中身は、桐谷が架空発注で会社の金を横領しているという『証拠データ』だ。もちろん捏造だが、お前の技術なら本物に見せかけることができるだろう」

「……断ります」

 夏川は即答した。

「そんなことをしても、すぐにバレます。桐谷さんも、美冬も、そんな簡単に騙せる相手じゃない」

「騙す必要はない。疑惑さえ作ればいいんだ」

 後藤はニヤリと笑った。

「総会の日に監査が入る。その時に証拠が出れば、桐谷は終わりだ。……そして、お前の過去も守られる」

「……できません。もう、仲間を裏切りたくない!」

 夏川が叫ぶと、後藤の表情が一変した。

「仲間だと? 笑わせるな」

 後藤はスマホを取り出し、画面を夏川に向けた。

 そこには、かつて夏川がハッキングした銀行のログデータが表示されていた。

「お前は犯罪者だ。光の当たる場所にいていい人間じゃない。もし断れば、このデータを警視庁のサイバー犯罪対策課に送る。お前は逮捕され、西芝も『犯罪者を雇っていた』と大バッシングを受けるだろうな。お前のせいで全部終わるぞ」

 夏川の膝が震えた。

 自分が捕まるのはいい。でも、西芝に、美冬たちに迷惑がかかる。

「桐谷を守るか、自分を守るか。……明日の朝までに返事をもらおうか」

 後藤は冷酷に告げた。

 夏川は逃げるように料亭を飛び出した。

 夜の街を彷徨いながら、涙が止まらなかった。

 夏川の足は思ったように前に進まなかった。


◾️ 人間の盾


 翌朝。

 夏川は出社していなかった。

「夏川さん、電話にも出ないし、メッセージアプリも既読にならない……」

 美冬が不安げにスマホを見つめる。

「珍しいな。あいつが連絡なしに休むなんて」

 辻も首を傾げる。

 その時、桐谷が部長席から声をかけた。

「……GPSによれば、彼女は東方向、成田空港ですかね」

「えっ、成田!?」

「社用スマホの位置情報です。国外へ逃亡するつもりかもしれません」

 桐谷はモニターに地図を表示させた。赤い点が、高速道路を東へ移動している。

「逃亡って……何があったんだ」

 山藤が動揺する。

 美冬はハッとした。ここ数日の夏川の様子。怯えるような目。そして、昨夜の不在。

「……後藤専務だわ」

 美冬は確信した。

「夏川さんは、何か弱みを握られてる。一人で抱え込んで、私たちに迷惑をかけないように消えようとしてるんだ!」

 美冬は立ち上がった。

「追いかけましょう! 今ならまだ間に合う!」

「待ってください」

 桐谷が止めた。

「彼女を連れ戻すだけでは解決になりません。元を絶たなければ、彼女は一生、脅え続けることになる」

 桐谷は立ち上がり、ジャケットを羽織った。

「行きましょう。ただし、空港ではありません。……『松風』です」

「えっ?」

「彼女と後藤専務のスマホのログを解析しました。昨夜、彼女たちが最後にいた場所に、後藤専務もいました。……そこで何があったか、本人たちに再現してもらいましょう」

 桐谷は美冬と山藤を見た。

「夏川さんには、私がメッセージを送ります。彼女がハッカーなら、この『暗号』の意味が分かるはずです」


 一時間後。

 成田空港のロビーで、夏川は搭乗手続きの列に並んでいた。

 手には片道切符。行き先はどこでもよかった。とにかく、遠くへ。

 その時、スマホが震えた。

 通知には『Kiritani』の文字。

 メッセージは短かった。

 『port 443 open. We are waiting at Matsukaze. (443番ポート開放。松風にて待つ)』

 夏川は息を飲んだ。

 443番ポート。それは、暗号化通信(HTTPS)に使われるポートであり、「安全な接続」を意味するエンジニアの隠語だ。

 『安全な場所を用意した。戻ってこい』

 桐谷は、全てを知っているのだ。

 夏川はその場に座り込み、顔を覆った。

 逃げるな。立ち向かえと、彼は言っている。

 夏川は立ち上がり、チケットをくしゃっと丸めてゴミ箱に捨てた。そして、来た道を全速力で引き返した。


 昼下がりの料亭『松風』。

 後藤は再び個室にいた。昼から酒をあおり、苛立っていた。夏川からの連絡がないからだ。

「あの小娘、逃げたか……? なら、警察に通報してやる」

 スマホを取り出した時、襖が静かに開いた。

 そこに立っていたのは、息を切らした夏川葵だった。

「……戻ってきたか。賢明な判断だ」

 後藤はニヤリと笑った。

「どうだ、うまくやったか?」

「いいえ」

 夏川は凛とした声で言った。

「お断りします。私は、仲間を売りません」

「ほう。……後悔するぞ」

 後藤がスマホを操作しようとした瞬間。

 

 バンッ!

 隣の襖が勢いよく開いた。

「そこまでです、後藤専務」

 現れたのは、桐谷、美冬、山藤。そして、スーツ姿の男たちが数人。

「なっ、貴様ら……!」

「法務部コンプライアンス室のメンバーです」

 桐谷が紹介する。

「夏川さんへの脅迫、および不正アクセスの教唆。すべて聞かせてもらいました」

「き、聞いていた? まさか盗聴か!」

「いいえ。彼女が、自分の意思で『共有』したのです」

 美冬が夏川の隣に立ち、彼女の手を強く握った。

「夏川さんは一人じゃありません。私たちがついています」

 山藤も前に出る。

「彼女の過去の件については、すでに我々で調査済みです。確かに法に触れる行為はありましたが、私的利益を得ていないこと、そして当時の脆弱性を指摘し被害拡大を防いだ点を考慮し、弁護士チームが身元引受人となります」

 山藤は後藤を睨みつけた。

「つまり、彼女の罪と罰は、西芝法務部が管理し、弁護士もつけます。貴方が脅迫の材料に使うことはできません」

「な……馬鹿な! 会社が犯罪者を守るのか!」

「犯罪者ではありません!」

 美冬が叫んだ。

「彼女は、西芝を守るホワイトハッカーです! 過去に何があったとしても、今の彼女がどれだけ会社のために尽くしてくれたか、私たちは知っています。だから……」

 美冬は夏川の前に立ち塞がった。

「彼女を傷つけるなら、私たち全員を倒してからにしてください!」

 まさに「人間のヒューマン・シールド」。

 夏川の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「みんな……」

「遅いよ、夏川ちゃん」

 いつの間にか、部屋の外には辻や大森たちも集まっていた。

「水臭いなあ。ハッキングなら俺たちも共犯だろ?」

 仲間たちが、彼女を守るために集結していた。


◾️ 録音された墓穴


 後藤は逃げ場を探して視線を走らせていた。

「ふん、美しい友情ごっこだな。だが、証拠はあるのか? 私が脅迫したという証拠が!」

 後藤は開き直った。

「言った言わないの水掛け論だ。私の社会的地位と、前科持ちの小娘の証言。世間がどちらを信じるかな?」

 確かに、密室での会話だ。録音していなければ証明できない。そして、昨夜の夏川は録音機など持っていなかったはずだ。


「証拠なら、あります」

 夏川が涙を拭い、一歩前に出た。

 彼女は自分の首元に手をやった。そこには、いつも着けているシルバーのチョーカーがある。

「これ、ただのアクセサリーじゃないんです。骨伝導マイクと通信モジュールが内蔵された、ウェアラブルデバイスです」

 夏川はスマホを取り出し、画面を後藤に見せた。

「昨夜の会話も、さっきの会話も。すべて録音してリアルタイムでクラウドストレージに同期されています」

 画面には、音声波形が表示されていた。

 再生ボタンを押す。

 『桐谷を引きずり下ろせ』『お前は犯罪者だ』『警察に通報してやる』

 後藤の醜悪な声が、クリアな音質で再生された。

「なっ……!」

 後藤の顔が土気色に変わる。

「改ざん防止のために、ブロックチェーンにハッシュ値も記録済みです。……これ、削除できませんよ」

 夏川は、震えの止まった指で画面をタップした。

「そして今、このデータを監査役会と、警察の担当部署に送信しました」

「や、やめろぉぉぉ!」

 後藤がスマホを奪おうと飛びかかってくるが、法務部の屈強な男たちが彼を取り押さえた。

「放せ! 私は専務だぞ! 次期社長だぞ!」

 無様に喚く後藤。

 桐谷が、冷ややかに見下ろした。

「貴方は『ログは消した』と思っていたでしょうが、デジタルの世界に完全な消去などありません。……そして、人の記憶からも、貴方の罪は消えない」


 後藤は連行されていった。

 部屋に残されたのは、静寂と、安堵の空気だった。

 夏川はその場に崩れ落ちた。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 謝り続ける夏川を、美冬が抱きしめた。

「謝らないで。戻ってきてくれて、ありがとう」

「怖かった……一人で……」

「もう一人じゃないよ。絶対に離さないから」

 美冬の温かさに包まれて、夏川は子供のように泣きじゃくった。

 ずっと孤独だった天才ハッカーが、初めて「家」を見つけた瞬間だった。


 その夜、情シス部。

 夏川は、自分のPCに向かっていた。

 画面には、過去のハッキングツールや、攻撃用のスクリプトが表示されている。

「……消すの?」

 後ろから桐谷が声をかけた。

「ええ。もういらないから」

 夏川は少しだけためらったが、『Delete』キーを押した。

 ブラックハット時代の遺産が、次々と消去されていく。

「これからは、守るためのコードだけを書くわ。……西芝のセキュリティ・アーキテクトとして」

 夏川の表情は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。

「期待していますよ、夏川葵さん」

 桐谷が微笑む。

 夏川も、少し照れくさそうに笑い返した。


 これで、社内の敵対勢力は壊滅した。

 後藤は失脚し、その派閥も解体されるだろう。

 美冬たちは勝利した。

 誰もがそう思いたかった。


 だが、彼らは忘れていた。

 ウイルス(悪意)は、宿主が死んでも、プログラムとして残り続けることを。

 後藤が連行される直前、ポケットの中で握りしめていたスマートフォンの存在を。

 そこから送信された、たった一行のコマンドが、西芝のシステム深部で静かに起動していたことを。


 『Execute LogicBomb(論理爆弾起動)』

 『Target Date: June 2X (Shareholders Meeting)』


 三月三十一日。年度末の深夜。

 誰もいないサーバルームで、一台のストレージランプが、不吉な赤色に一瞬だけ点灯した。

 それは、来るべき破滅へのカウントダウンの始まりだった。


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