第15話:ミッドポイント・クライマックス
「最も強固な城壁も、内側から開けられれば無力である。
『信頼』という名の鍵は、時に凶器へと姿を変える。」
◾️ デジタル野戦病院
一月二十五日、金曜日。十五時三十分。
西芝電機本社は、週末を控えた独特の弛緩した空気に包まれていた。
前回の「炎上騒動」を見事に鎮火させ、世間からの評価をV字回復させた情シス部は、束の間の平和を噛み締めていた。
「はー、やっと今週も終わりかあ。今日は定時で上がって、焼き肉でも行きません?」
辻正一が背伸びをしながら提案する。
「いいですね! 岩工場長も呼んで、祝勝会やりましょうよ」
山藤健太も乗ってくる。
美冬は笑顔でSTノートを閉じた。この一週間、大きなトラブルもなく、システムは順調に稼働している。平和だ。本当に平和だ。
その時だった。
キーン、という耳をつんざくような警告音が、フロア中に鳴り響いた。
複数の大型モニターが一斉に赤く点滅を始める。
「なっ、なんだ!?」
辻が飛び起きる。
夏川葵がスライディングするように自席に戻り、キーボードを叩く。その表情が、瞬時に蒼白に変わる。
「アクセス急増! 毎秒五十万リクエスト……いえ、百万を超えたわ! 帯域が埋め尽くされてる!」
「百万!? バカな、新製品の発売日でもねえぞ!」
「正常なアクセスじゃない! これ、DDoS攻撃(分散型サービス拒否攻撃)よ!」
夏川の叫びと共に、フロアの電話が一斉に鳴り始めた。
「メールが送れないぞ!」「工場の生産管理システムが止まった!」「受発注画面が開かない!」
怒号のような問い合わせの嵐。
西芝の心臓部であるメインシステムが、外部からの大量のデータ爆撃を受け、窒息寸前に陥っていたのだ。
「状況報告!」
桐谷秀樹の声が響いた。彼はすでに指揮官席に立ち、全体を見渡している。
「世界中のボットネットから一斉攻撃を受けています! 攻撃規模は推定一テラビット毎秒。過去最大級です!」
夏川が報告する。
「ファイアウォールは?」
「持ちません! このままだと十分で全システムがダウンします!」
フロアはパニック状態だった。社員たちが右往左往する中、桐谷だけが静止画のように冷静だった。
彼の目には、赤く点滅するシステム構成図が見えている。西芝という巨体の、どこが壊死しかけているか。
「トリアージ(選別)を行います」
桐谷が静かに、しかし力強く宣言した。
「トリアージ……?」
美冬が聞き返す。
「全システムを守ろうとすれば共倒れになります。重要度の低い臓器を切り捨て、心臓と脳だけを生かします」
桐谷はモニターを指差した。
「社内メールサーバー、人事システム、経費精算システム。これらへの通信を遮断してください。回線を物理的に抜いても構いません」
「なっ……メールを止めるんですか!? 全社員の業務が止まりますよ!」
山藤が驚愕する。
「止めるんです。代わりに、生産ラインの制御システムと、顧客データベースへの回線帯域を確保します。西芝にとって、止めてはならないのは『現場』と『顧客』です。社員の不便は、後回しだ」
冷徹な判断。だが、迷っている暇はない。
「辻さん、物理切断、急いで!」
「くそっ、わかったよ! 大森、手伝え!」
辻と大森がサーバルームへ走る。
「夏川さんはCDN(コンテンツ配信ネットワーク)の設定変更を。トラフィックをスクラビングセンターへ迂回させ、攻撃パケットを洗浄してください」
「了解! でも、洗浄が追いつくかどうか……」
夏川の指が残像が見えるほどの速度で動く。
美冬は立ち尽くしていた。自分に何ができる? 技術的なことは夏川さんたちに任せるしかない。
「美冬さん」
桐谷が呼んだ。
「君の仕事は、現場への『アナウンス』です。メールが止まれば現場はパニックになる。今すぐ全拠点に一斉放送を入れてください」
「な、なんて言えば……」
「真実を伝えてください。『敵の攻撃を受けている。だが、生産ラインだけは我々が死守する』と。現場を信じさせるんです」
美冬は頷き、放送マイクを掴んだ。震える手をもう片方の手で押さえ、深呼吸をする。
『……全社員の皆様に、緊急連絡です。現在、大規模なサイバー攻撃を受けています』
美冬の声が、本社ビル、そして全国の工場へと響き渡る。
『社内システムは一時的に使用できません。ですが、工場のラインとお客様窓口は、情シス部が必ずなんとかします! ですから……どうか、現場の手を止めないでください!』
その放送は、混乱する現場に一本の楔を打ち込んだ。
府中工場のライン横で、岩工場長が放送を聞き、ニヤリと笑った。
「命に代えても、か。……若造どもが、言うじゃねえか。おい! 情シスが踏ん張ってるんだ! 俺たちも手動で回すぞ!」
「おう!」
現場の空気が変わった。
地下二階は、まさにデジタルな野戦病院と化していた。切り捨てられたシステムの悲鳴を無視し、重要な臓器だけを守り抜く。
終わりの見えない防衛戦が始まった。
◾️ 見えない敵
攻撃開始から三時間が経過した。十九時。
情シス部員たちの疲労はピークに達していた。
「……しつこい。こいつら、無限に湧いてくるの?」
夏川が充血した目をこすりながら悪態をつく。
CDNによる緩和策で一時的にトラフィックは減ったものの、攻撃者はすぐに手法を変え、新たな穴(脆弱性)を突いてくる。
まるで、こちらの防御策を先読みしているかのような動きだ。
「おい、佐久間! ログ監視はどうなってる!」
辻が怒鳴る。
元品証部の佐久間健は、複数のモニターに流れるアクセスログを、瞬きもせずに見つめ続けていた。彼の特技である「異常パターンの検出」に全てがかかっている。
「……おかしい」
佐久間が呟いた。
「何がおかしいんだよ!」
「攻撃のタイミングです。私たちがファイアウォールの設定を変更した直後、わずか数秒で攻撃パターンが切り替わっています。早すぎる」
佐久間はログの一箇所を指差した。
「それに、この攻撃パケット……狙っているポート(接続口)が、あまりに正確です。私たちが裏口として使っているメンテナンス用のポートや、テスト環境のIPアドレスまで、ピンポイントで突いてきている」
「なんだって?」
夏川が椅子を蹴って佐久間の席に寄る。
「テスト環境のIPなんて、外部には公開してないはずよ。社内の人間しか知らないはず……」
夏川の言葉が途切れた。
そして、フロアの空気が、ひやりとした。
その時、白雪真冬がカツカツと足音を立てて入ってきた。
彼女はPMとして他部署との調整に奔走していたが、現場の異変を察知して戻ってきたのだ。
「状況は?」
「……防戦一方です。敵がこちらの情報を知りすぎています」
桐谷が答える。
真冬は眉をひそめた。
「内部情報の漏洩? まさか、まだスパイがいるとでも言うの?」
その言葉に、夏川がビクリと肩を震わせた。彼女には「前科」がある。まさか、また私が疑われているのでは……。
その空気を察した美冬が、即座に叫んだ。
「夏川さんじゃありません! 彼女はずっとここで戦ってます!」
「分かってるわよ。そんな安直な話じゃない」
真冬は夏川の肩に手を置いた。
「夏川さん。ハッカーの視点で考えなさい。もしあなたが、この鉄壁の防御を破るとしたら、どうする?」
「……私なら」
夏川は思考を切り替える。自分ならどうするか。外部からの力押しが通じないなら……。
「……中から鍵を開けさせます」
「そうね。それが一番効率的だわ」
真冬は頷いた。
「ビーコン(誘導信号)だ」
桐谷が低く呟いた。
「社内LANの中に、外部の攻撃者(C2サーバー)と通信している端末があるはずです。リアルタイムで情報を送っている裏切り者が」
フロアに戦慄が走る。
外部からの攻撃だと思っていたものは、実は内部からの手引きによる「連携プレー」だったのだ。
「探せ!」
桐谷が叫んだ。いつもの冷静な彼らしくない、強い語気だった。
「外からの攻撃は囮だ。本丸は中にいる。全通信ログを洗え! 通常業務に偽装した不正通信を見つけ出すんだ!」
チーム全員が動き出した。
DDoS攻撃の対応を辻とお荷物社員たちに任せ、夏川と佐久間、そして大森が内部ログの解析に入る。
「通信量が多すぎて、砂漠から砂金を探すようなものよ……」
夏川が弱音を吐く。
「諦めないでください。必ず痕跡(足跡)はあるはずです」
大森が眼鏡を光らせる。
「不正な経理操作と同じです。どんなに隠しても、データの整合性(辻褄)は必ず合わなくなる」
美冬は祈るような気持ちで画面を見つめていた。
敵は、中にいる。
半年間、一緒に改革を進めてきた社員の中に、まだ会社を壊そうとする人間がいるなんて。
信じたくない。でも、信じるためには、疑わなければならない。
それが、桐谷さんの言う「ゼロトラスト(何も信頼しない)」の本当の意味なのかもしれない。
「……あった」
深夜二時。
静寂を破ったのは、佐久間の掠れた声だった。
「見つけました。一見、通常のWeb閲覧に見せかけていますが……パケットのヘッダ情報に、暗号化された指令コードが埋め込まれています」
佐久間が指差したログ。それは、一秒間に数回という微細な頻度で、外部の特定サーバーへ信号を送っていた。
「発信元は?」
桐谷が身を乗り出す。
夏川がIPアドレスを逆引きする。
「……十五階。役員フロア」
夏川が息を飲む。
「IDは……『Y.Segawa』。瀬川IT担当役員よ」
その名前が出た瞬間、山藤が机を叩いた。
「あの風見鶏か! 後藤専務の腰巾着で、いつも責任逃ればかりしてる……!」
「いえ、瀬川さん一人でできることではありません」
桐谷は冷ややかに言った。
「彼はIT音痴だ。こんな高度なマルウェアを仕込めるはずがない。誰かに『踏み台』にされているか、あるいは……もっと大きな絵を描いている黒幕の指示で動いているか」
桐谷の目が、鋭い光を放った。
「掃除の時間ですね。物理的に、根を絶ちます」
◾️ ビーコンの正体
深夜二時半。役員フロア。
人気のない廊下を、桐谷、美冬、山藤、そして警備員を連れた一行が進む。
瀬川役員の個室の前で、桐谷は足を止めた。
マスターキーで解錠し、中に入る。
部屋は暗かったが、デスクの上で一台のノートPCだけが、青白い光を放ちながら稼働していた。スクリーンセーバーには西芝のロゴが漂っているが、その裏では高速で通信が行われていることを、桐谷の「ストラテジック・アイ」は捉えていた。
「確保します」
桐谷がPCに手を伸ばそうとした時、背後から声がした。
「……何をしているのかね?」
振り返ると、そこには瀬川康明が立っていた。深夜だというのに、スーツ姿で、額には脂汗を浮かべている。
「瀬川役員。こんな時間にどうされました?」
桐谷が問いかけると、瀬川は視線を泳がせた。
「い、いや、システムトラブルが心配でな。様子を見に来たんだ。君たちこそ、勝手に役員室に入るとは……」
「貴方のPCが、外部への攻撃誘導信号を発信していることが判明しました。証拠保全のために回収させていただきます」
桐谷がPCを取り上げると、瀬川は血相を変えて飛びかかってきた。
「よ、よせ! それは私の私物だ! 機密情報が入ってるんだぞ!」
「ええ、入っているでしょうね。西芝を沈めるための機密が」
山藤が立ちはだかり、瀬川を制止する。
瀬川は喚き散らしたが、警備員に取り押さえられた。
その時、PCの画面が一瞬赤く点滅し、コマンドプロンプトが立ち上がった。
『Self-Destruct Sequence Initiated(自己破壊シーケンス起動)』
「なっ……!?」
夏川が叫んだ(彼女はリモートで画面を見ていた)。
「桐谷さん! 遠隔操作でデータ消去コマンドが送られたわ! 証拠が消される!」
黒幕が、瀬川の失敗を悟り、トカゲの尻尾切りに出たのだ。
「させません」
桐谷は迷わずPCの裏蓋を開け、バッテリーを引き抜いた。さらに、予備電源が作動する前に、ドライバーを突き立てて通信モジュール(Wi-Fiチップ)を物理的に破壊した。
バチッ、と火花が散り、画面がブラックアウトする。
「……あらら。ずいぶんと乱暴な強制終了ね」
インカム越しに夏川が呆れる。
「ストレージ(SSD)は無事です。これで解析できます」
桐谷は破壊されたPCを瀬川に見せつけた。
「終わりです、瀬川さん。貴方が誰の指示でこれをやったのか、このPCがすべて語ってくれるでしょう」
瀬川はガックリと項垂れた。
「……言われたんだ。後藤専務に」
瀬川が震える声で告白を始めた。
「『ちょっとしたUSBを挿しておくだけでいい』と。そうすれば、次の株主総会で俺の地位は安泰だと……。まさか、こんな大規模な攻撃を引き起こすなんて聞いてなかったんだ!」
「知らなかったで済む話ではありません。貴方は、会社の鍵を泥棒に渡したのです」
美冬が悲しげに、しかし毅然と言った。
三十分後。
瀬川のPCからビーコンが消滅したことで、外部からの攻撃は統制を失った。
的確さを欠いたDDoS攻撃は、夏川たちが設定したフィルターに次々と捕まり、急速に鎮静化していった。
システムのアラート音が消え、静寂が戻ってくる。
「……止まった」
辻が椅子に崩れ落ちる。
「終わった……のか?」
「ええ。私たちの勝ちです」
夏川がVサインを掲げた。フロア中から歓声が上がり、拍手が巻き起こる。お荷物社員たちも抱き合って喜んでいる。
だが、桐谷だけは笑っていなかった。
彼は回収した瀬川のPCを見つめていた。
「桐谷さん? どうしました?」
美冬が声をかける。
「……早すぎます」
「え?」
「瀬川さんが自白し、攻撃が止まるまでの手際が良すぎる。まるで、こうなることが予定されていたシナリオのように」
桐谷は眼鏡の位置を直した。
「後藤専務は、瀬川さんという『小者』を切り捨てることで、本丸(自分)への延焼を防いだのかもしれません。……あるいは、これはまだ予行演習に過ぎないのか」
美冬は背筋が寒くなるのを感じた。
システムは守った。内通者も捕まえた。
それでもまだ、本当の闇には届いていない気がする。
翌日、瀬川役員は「健康上の理由」で辞任した。後藤専務は「部下の監督不行き届き」を詫びただけで、自身の関与は一切否定した。証拠となるはずのメールや指示書は、きれいに消去されていたからだ。
やはり、黒幕は生きている。
そして二月。
DDoS攻撃の余波は、思わぬ形で表面化した。
工場の部品在庫が底をついたのだ。
攻撃中に発注システムを止めていた影響で、サプライチェーンが寸断されていた。
下請け工場からは「もう西芝さんとは付き合えない」という絶縁状が届き始めていた。
デジタルな戦いの次は、リアルな「モノ」と「人」の絆が試される戦いが始まる。




