第12話:データという名の武器
「データは、企業の嘘を許さない。
隠された真実を直視する勇気こそが、
組織を腐敗から救う唯一のワクチンである。」
◾️ 聖域なき戦い
十一月。東京の街路樹が色づき始める頃、西芝電機本社の地下二階では、季節外れの熱波と冷気が交錯していた。
熱波の源は、稼働し始めた全社データ統合基盤のサーバー排熱と、連日遅くまでコードを書き続けるエンジニアたちの熱気。
そして冷気の源は、フロアの奥で仁王立ちする「鉄の女」、白雪真冬の視線だった。
「遅い」
真冬の氷のような声が響く。
「基盤はできたのに、肝心の中身が空っぽじゃない。器だけ立派な仏像を作るつもり?」
ホワイトボードの前に立たされた山藤健太は、脂汗を拭った。
「申し訳ありません。技術的な連携テストは完了しているのですが……データの提供元である各事業部、特に営業本部からの合意が得られず、接続を拒否されています」
「拒否? 会社の決定事項よ。強制執行すればいいじゃない」
「それが、営業本部長の鬼頭常務が『営業データは聖域だ』と頑として譲らず……現場レベルではどうにも」
山藤が言い淀むと、真冬は呆れたようにため息をついた。
「山藤くん。あなたはハーバードで何を学んできたの? 聖域なんて言葉は、既得権益者の隠れ蓑に過ぎない。それを剥がすのが、経営企画出身であるあなたの仕事でしょう?」
正論だ。ぐうの音も出ない。
真冬は腕時計を一瞥した。
「三日あげるわ。それまでに営業データをレイク(蓄積基盤)に流し込みなさい。できなければ、データ連携プロジェクトのリーダーは更迭。外部のコンサルに委託するわ」
「ッ……承知しました」
山藤は頭を下げた。更迭されることへの恐怖よりも、自分たちの手で成し遂げたいという意地があった。
ミーティング後、山藤は美冬と共に、十五階にある営業本部のフロアへ向かった。
エレベーターの中で、美冬が心配そうに声をかける。
「山藤くん、大丈夫? 鬼頭常務って、後藤専務派の武闘派で有名だよ。『瞬間湯沸かし器』ってあだ名があるくらい」
「知ってるよ。新人の頃、一度挨拶に行ったら『数字も作れない管理部門の穀潰しが』って名刺を投げ返されたことがある」
山藤は苦笑いしたが、その目には静かな覚悟が宿っていた。
「でも、引くわけにはいかない。桐谷さんと白雪さんが作ったこの流れを、俺が止めるわけにはいかないんだ」
営業本部のフロアは、独特の活気と殺伐さが混在していた。電話の怒鳴り声、ノルマ達成グラフ、そして床に散らばる段ボール。
その最奥にある本部長室のドアを、山藤はノックした。
「入れ!」
怒号のような返事。入室すると、革張りのソファに大柄な男がふんぞり返っていた。鬼頭剛蔵。赤ら顔に鋭い眼光、典型的な昭和の猛将だ。
「なんだ、また来たのか。情シスの小僧っ子どもが」
鬼頭は煙草を揉み消しながら睨みつけた。
「鬼頭常務。先日申し上げた『全社データ統合プロジェクト』へのご協力のお願いです。顧客データと商談履歴のアクセス権を解放していただきたいのです」
山藤が単刀直入に切り出すと、鬼頭は鼻で笑った。
「断る。何度来ても同じだ」
「なぜでしょうか。これは社長決裁も下りている全社案件です」
「社長がどう言おうと、現場の流儀は俺が決める。いいか、営業ってのはな、顧客との『信頼』で成り立ってるんだ。データだのAIだので管理できるもんじゃねえ」
鬼頭は立ち上がり、山藤に詰め寄った。酒臭い息がかかるほどの距離。
「お前らみたいな頭でっかちが、数字だけ見て『効率化』だの『最適化』だの言い出す。そうやって現場をかき回し、顧客の顔も見ないで商売ができると思ってる。それが気に入らねえんだよ」
「管理するためではありません。現場を支援するためです」
美冬が横から口を挟んだ。「過去のトラブル事例や成功パターンを共有すれば、若手の営業さんも助かります!」
「黙れ! 女子供が口を出すな!」
鬼頭の一喝に、美冬がビクリと肩を震わせる。
「とにかく、ウチの顧客リストは門外不出だ。万が一情報漏洩でもしたら、誰が責任を取るんだ? お前か? ああん?」
鬼頭は山藤の胸倉を掴まんばかりの勢いだ。
完全に、理屈の通じない相手。威圧と感情論で壁を作っている。
これまでの山藤なら、ここで「持ち帰って検討します」と逃げ出していただろう。
だが、今は違う。
山藤は一歩も引かず、鬼頭の目を真っ直ぐに見返した。
「……責任なら、取りますよ」
「何だと?」
「情報漏洩のリスクについては、CIOの桐谷と、セキュリティ担当の夏川が万全の対策を敷いています。それでも不安だと言うなら、私が辞表を預けます」
山藤は懐から封筒を取り出し、テーブルに置いた。
「ですが、その代わりに『データガバナンス規定』第5条に基づき、強制監査権を行使させていただきます」
「き、貴様……!」
「協力いただけないのなら、システム側で強制的にデータを吸い上げます。これは『お願い』ではありません。通告です」
山藤は静かに、しかし冷徹に言い放った。
その姿は、かつての上司・田中の面影と、師匠である桐谷の冷徹さを併せ持っていた。
鬼頭は顔を真っ赤にして震えているが、山藤は踵を返し、美冬を連れて部屋を出た。
「……行こう、美冬。ここからが勝負だ」
廊下に出た山藤の手は、微かに震えていた。美冬はその手をぎゅっと握りしめた。
◾️ 接待費の秘密
翌日。情シス部は「データ洗浄」という名の泥沼の戦場と化していた。
山藤の宣言通り、システム権限を使って営業サーバーからデータを強制的に吸い上げたものの、その中身は惨憺たるものだったからだ。
「うわっ、汚なっ! 何これ、ヘドロ?」
モニターを覗き込んだ夏川葵が悲鳴を上げた。
「顧客名の表記ゆれが酷すぎるわ。『株式会社五菱自動車』『(株)五菱自動車』『五菱自動車』……全部バラバラ。しかも半角全角入り乱れてるし、住所も番地が抜けたりしてる」
「名刺管理ソフトのスキャンデータをそのまま放り込んでるみたいだな。重複登録だけで数万件あるぞ」
辻も頭を抱えている。
「これをAIに食わせても、学習どころか食あたりを起こすわね。『ガーベージ・イン・ガーベージ・アウト(ゴミを入れればゴミが出てくる)』の典型だわ」
夏川は高速でキーボードを叩き始めた。
「私が名寄せ(クレンジング)用のスクリプトを書くわ。正規表現で揺らぎを吸収して、国税庁の法人番号データベースと突合させる。辻さんは重複データの洗い出しをお願い」
「おうよ。泥仕事は任せとけ」
エンジニアたちがデータの海を浄化していく中、その横で一人の男が、鋭い眼光で数字の羅列を見つめていた。
元経理の「人間計算機」、大森剛だ。
「……匂いますな」
大森が眼鏡の位置を直しながら呟いた。
「何か見つかりましたか、大森さん」
山藤が駆け寄る。
「この『特別交際費』の項目です。特定の顧客群に対して、異常な頻度で接待が行われています。しかも、その顧客からの受注単価は、年々下がっている」
大森は電卓を叩き、弾き出された数値を指差した。
「通常、接待費が増えれば、関係性が強化されて利益率は維持されるか、上がるはずです。ですが、ここは逆相関になっている。接待すればするほど、西芝が損をする契約を結ばされている」
山藤は画面を覗き込んだ。
対象となっている取引先は、中堅の商社や資材卸売業者が中心だ。そして、その担当営業の欄には、ある共通点があった。
すべて、鬼頭常務の直轄チーム、通称「鬼頭親衛隊」と呼ばれる古参社員たちが担当している案件だった。
「……夏川さん、この接待費の支払先データを洗えますか?」
「お安い御用よ。経費精算システムのログと突き合わせるわ」
数分後。夏川が口笛を吹いた。
「ビンゴ。支払先の料亭やクラブ、全部同じ系列店ね。しかも、その経営者の名前……鬼頭常務の親族と一致したわ」
フロアに衝撃が走る。
「つまり……自分の親族の店で会社の金を使って豪遊し、その見返りに取引先には安値で商品を卸していた、ということか?」
辻が呆れたように言う。
「利益相反取引。いや、これは特別背任の可能性がありますね」
大森が静かに、しかし怒りを込めて言った。1円の不正も許さない彼の正義感が燃え上がっている。
「『聖域』の正体は、これだったのか」
山藤は拳を握りしめた。
鬼頭が頑なにデータを隠そうとした理由。それは顧客情報漏洩などではなく、自分たちの薄汚い錬金術を守るためだったのだ。
「山藤くん、どうする? これ、かなりヤバいネタだよ。握りつぶされるかも」
美冬が不安げに聞く。相手は常務取締役だ。
その時、背後から声がした。
「握りつぶさせませんよ」
桐谷だった。いつの間にか部長席から降りてきて、後ろで話を聞いていたのだ。
「これは、組織の癌細胞です。摘出するのに遠慮はいりません」
桐谷は山藤の肩に手を置いた。
「山藤くん。君の武器は揃いました。あとは、トリガーを引くだけです」
山藤は頷いた。
「はい。……引導を渡してきます」
その直後だった。
ドカドカと足音がして、自動ドアが乱暴に開かれた。
「おい! 山藤! どこだ!」
鬼頭が、数人の取り巻きを引き連れて怒鳴り込んできたのだ。顔は茹でダコのように赤い。
「俺の部下の経費データまで覗いたそうだな! プライバシーの侵害だ! 今すぐデータを消去しろ!」
情シス部員たちが怯む中、山藤は一人、静かに立ち上がった。
「消去はしません。鬼頭常務、少しお話があります」
山藤の手には、一枚のタブレットが握られていた。
そこには、鬼頭たちの「裏帳簿」が、逃れようのないグラフとなって表示されていた。
◾️ パンドラの箱
地下二階の空気は張り詰めていた。
鬼頭と対峙する山藤。その後ろには、美冬、夏川、辻、大森たちチーム全員が控えている。
「話だと? 弁明なら後で聞いてやる。まずはサーバーを止めろ!」
鬼頭が喚き散らすが、山藤は動じない。
「サーバーは止めません。それより常務、このグラフをご覧ください」
山藤はタブレットを操作し、フロアの大型モニターに画面をミラーリングした。
映し出されたのは、鬼頭直轄チームにおける『接待費対効果(ROInv)』の散布図だ。他の営業チームが右肩上がり(健全)なのに対し、鬼頭チームだけが右下がり(異常)の赤い領域に固まっている。
「な、なんだこれは……」
「貴方のチームの成績表です。過去三年間、貴方のチームは会社に累計二億円の損失を与えています。過剰な接待費と、不当な値引き販売によって」
山藤は冷徹に告げた。
「そして、接待に使われた店のリスト。銀座のクラブ『ルージュ』、赤坂の料亭『松風』……すべて、貴方の義理の弟さんが経営する会社ですね?」
鬼頭の顔色が変わった。赤から青へ、そして土気色へと変わっていく。
「ば、馬鹿な……何を根拠に……」
「根拠なら、ここにあります」
大森が一歩前に出た。手には分厚いファイルを持っている。
「経費精算書の筆跡、領収書の連番、そして貴方の出張記録との矛盾。すべて精査させていただきました。逃げ道はありません」
元経理の執念の調査結果だ。
「き、貴様ら……! たかが地下の便利屋風情が、常務である俺を嵌めるつもりか!」
鬼頭は逆上し、山藤に掴みかかろうとした。
「やめてください!」
叫んだのは、美冬ではなかった。
鬼頭の後ろにいた、若手の営業部員だった。彼は鬼頭の取り巻きの一人だと思われていたが、その目には涙が溜まっていた。
「もう、うんざりなんです……!」
「なっ、佐藤、お前……」
「毎日毎日、常務の親戚の店に付き合わされて、美味くもない酒を飲まされて……。お客様からは『西芝さんは接待ばかりで提案の中身がない』って呆れられて……。俺たち、こんなことするために営業になったんじゃないんです!」
若手の悲痛な叫び。それは、腐敗した組織の中で押し殺されていた、現場の良心だった。
他の取り巻きたちも、うつむいて震えている。彼らもまた、鬼頭の恐怖政治の被害者だったのだ。
山藤は若手部員に歩み寄り、優しく言った。
「ありがとう、佐藤さん。君たちのその声を守るために、僕たちはデータを出したんだ」
そして、鬼頭に向き直る。
「常務。データは嘘をつきません。そして、現場の想いも嘘をつかない。貴方が守っていたのは『聖域』ではなく、ご自身の『保身』という名の檻だ」
鬼頭はわなわなと震え、何か言い返そうとしたが、言葉が出なかった。
そこへ、ゆっくりと拍手の音が響いた。
フロアの奥から、白雪真冬が現れた。
「見事ね。お手並み拝見させてもらったわ」
真冬は鬼頭を一瞥もしない。
「この件は、すでに北室社長と監査役に報告済みよ。鬼頭常務、懲罰委員会でお待ちしています」
その言葉が、トドメだった。
鬼頭はその場に膝から崩れ落ちた。猛将の仮面が剥がれ落ち、ただの老いた男の姿がそこにあった。
数日後。鬼頭の解任と、営業本部の抜本的な人事刷新が発表された。
それは「恐怖」としてではなく、「浄化」として社内に受け止められた。
営業フロアでは、若手社員たちが生き生きとデータを入力し始めていた。
「山藤さん! このCRM(顧客管理システム)、凄いです。過去の商談履歴が見えるだけで、こんなに提案が楽になるなんて」
佐藤が嬉しそうに報告に来た。
「これなら、まっとうな営業で勝負できます。ありがとうございます」
山藤は照れくさそうに笑った。
「礼なら、彼らに言ってください」
山藤が指差した先では、夏川と辻、大森たちが、今度は経理部や資材部から持ち込まれたデータの山と格闘していた。
パンドラの箱は開いた。
営業部の聖域が崩れたことで、「ウチも調べられる前に出そう」と、他部署が観念してデータを開示し始めたのだ。
隠されていた不効率や小さな不正が次々と明るみに出るが、それは組織が健康を取り戻すための「好転反応」だった。
夕暮れの屋上。
桐谷と真冬が並んで缶コーヒーを飲んでいた。
「……少しは使えるようになったわね、あの子たち」
真冬がポツリと言う。
「ええ。山藤くんの突破力、大森さんの分析力、夏川さんの技術力。そして彼らを繋いだ美冬さんのケア。良いチームです」
「ま、最低限の掃除はできたようね。でも……」
真冬は空になった缶を握り潰した。
「データが集まれば、次はそれをどう使うか(戦略)が問われる。本当の地獄はこれからよ」
「望むところです」
桐谷は不敵に微笑んだ。
データという名の武器を手に入れたリブート・スクワッド。
次なる戦場は、紙の山脈か、それともメディアの炎か。
西芝の再起動は、まだ道半ばだ。




