第11話:母、来襲
「劇薬は、病巣を焼くと同時に、健康な細胞をも傷つける。
だが、恐れてはならない。
破壊なくして、再生はあり得ないのだから。」
◾️ 黒船、成田より来たる
十月上旬。東京の空は高く澄み渡り、心地よい秋風が吹いていた。
しかし、西芝電機本社ビルの地下二階にある情報システム部には、嵐の前の静けさが漂っていた。
「……おかしい」
デスクでキーボードを叩いていた夏川葵が、モニターから顔を上げずに呟いた。
「何がだよ、夏川ちゃん」
隣でサーバーの負荷テスト結果を眺めていた辻正一が、あくび混じりに答える。
「桐谷部長の様子よ。朝からずっとソワソワしてる。あのポーカーフェイスが、貧乏揺すりしてるなんて異常事態よ」
言われてみれば、奥の部長席に座る桐谷秀樹は、頻繁に腕時計を確認し、タブレットでフライトレーダーのような画面をチェックしていた。
白雪美冬もまた、落ち着かない気分でいた。
今朝、母・真冬から届いた『着いたわ』という短いメッセージ。それが意味するものを考えると、胃がキリキリと痛む。
「美冬、顔色が悪いぞ。大丈夫か?」
同期の山藤健太が心配そうに声をかけてくる。彼は経営企画部に戻っているが、今や情シスの準レギュラーとして、頻繁に地下へ顔を出していた。
「う、うん……。ただ、ちょっと予感がして」
「予感?」
「台風が来る予感」
その時だった。
エレベーターホールの方から、カツ、カツ、カツ……と、硬質なヒールの音が響いてきた。一定のリズムで、容赦なく床を叩くその音は、地下の湿った空気を切り裂くように近づいてくる。
自動ドアが開いた。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。
年齢は五十歳前後だが、背筋は定規が入っているかのように伸び、チャコールグレーのパンツスーツを完璧に着こなしている。手にはリモワの銀色のスーツケース。成田空港から直行してきたことは明らかだった。
その顔立ちは美冬と似ているが、纏っているオーラの強度は桁違いだ。美冬が「雪解け水」なら、彼女は「氷河」だった。
伝説のプロジェクトマネージャー、白雪真冬。
「……相変わらず、カビ臭い部屋で仕事しているのね」
彼女の第一声は、挨拶ではなく環境へのダメ出しだった。
フロアの空気が一瞬で凍りつく。辻や大森といった古参社員たちも、その威圧感に気圧されて言葉が出ない。
桐谷だけが、静かに立ち上がった。
「お久しぶりです、白雪さん。長旅、お疲れ様でした」
「疲れている暇はないわ。……美冬」
真冬の視線が、娘に向けられた。
美冬は直立不動になり、震える声で答えた。
「は、はい! お母さ……いえ、白雪さん!」
「会議室を空けなさい。十五分後にプロジェクトの進捗報告。全員参加。遅れた者は部屋に入れないわよ」
それだけ言い捨てると、彼女はスーツケースを転がし、奥の一番大きな会議室へと入っていった。
残されたメンバーは顔を見合わせる。
「おい、なんだあの迫力は……ラスボスか?」
辻が小声で桐谷に尋ねる。
「ええ。ある意味、後藤専務より厄介なラスボスです。……さあ、急ぎましょう。彼女は一秒の遅刻も許しませんよ」
十五分後。大会議室。
ホワイトボードの前には、プロジェクトの工程表が投影されていた。山藤が徹夜で仕上げた、完璧なはずのスケジュールだ。
真冬は腕を組み、その資料を一瞥した。
沈黙が一分続く。その間、誰も息ができない。
「……で?」
真冬が冷ややかに言った。
「これが、あなたたちが半年かけて作った計画? 本気で言ってるの?」
山藤が勇気を出して説明する。
「は、はい。現状のリソースと、各部門の調整期間を考慮し、来年度末までの十八ヶ月で基幹システムの刷新を完了させる計画です。リスクバッファも二割確保しており……」
「ゴミね」
真冬は山藤の言葉を遮り、手元のレーザーポインターをスクリーンに向けた。
「まず、この要件定義フェーズ。三ヶ月? 長すぎるわ。現状業務(As-Is)の分析なんて終わってるんでしょう? なら二週間で十分よ」
「二週間!? しかし、各部署の合意形成が……」
「合意なんて後回しでいいの。あるべき姿(To-Be)を提示して、乗れない奴は置いていく。それが改革でしょ?」
真冬のポインターが次々と移動する。
「それから、このテスト工程。ウォーターフォールでやるつもり? アジャイルでモジュールごとにリリースしなさい。手戻りのリスクを考えたら、一括リリースなんて自殺行為よ」
「しかし、ウチの品質基準では……」
「その基準が古いのよ! ISOの何版を基準にしてるの? 十年前の常識で語らないで」
バシッ、と真冬の手が机を叩いた。
「いいこと、桐谷。そして美冬。あなたたちは半年で『現場の信頼』を得たと言ったわね。それは素晴らしいわ。でも、それは『仲良しクラブ』を作っただけに過ぎない」
真冬の視線が美冬を射抜く。
「現場に気を使い、抵抗勢力に配慮し、安全マージンを取りまくった結果が、この間延びしたスケジュールよ。こんなスピード感で、世界と戦えると思ってるの?」
美冬は唇を噛んだ。反論したかったが、母の言葉はすべて論理的で、正論だった。自分たちが「現実的」だと思っていた計画は、グローバルな視点で見れば「甘え」の塊だったのだ。
「やり直しよ」
真冬は宣言した。
「期間は半分。来年の六月、株主総会までに全システムの刷新を完了させる。それが私の条件よ」
「は、半分!?」
辻が悲鳴を上げる。「無茶だ! 物理的に間に合わねえ!」
「間に合わせるのよ。そのために私が来たの」
真冬は不敵に微笑んだ。それは、女神の微笑みではなく、戦場に立つ鬼神の笑みだった。
「さあ、リブートの時間よ。あなたたちの生ぬるい覚悟ごと、焼き尽くしてあげるわ」
◾️ 劇薬の副作用
白雪真冬の着任から一週間。西芝の地下二階は、阿鼻叫喚の地獄と化していた。
彼女が持ち込んだのは、米国仕込みの超高速開発手法と、一切の妥協を許さない品質管理基準だった。
「佐久間さん! このテスト仕様書、考慮漏れがあるわよ。異常系シナリオのパターン数が足りない。境界値分析はしたの?」
真冬の声がフロアに響く。
元品証部で「重箱の隅つつき」の異名を持つ佐久間健が、真っ青な顔で直立不動になっていた。
「は、はい……ですが、発生確率は0.01%未満のレアケースでして……」
「そのレアケースでシステムが止まったら、誰が責任を取るの? 百億の損害賠償、あなたが払えるの?」
「す、すみません! すぐに修正します!」
佐久間が逃げるように自席に戻る。完璧主義者の彼が、ここまでやり込められる姿を誰も見たことがない。
次は大森だ。
「大森さん、このコスト試算、甘いわ。クラウドの従量課金リスクを見積もってない。オートスケーリングでアクセスが急増した時、予算ショートするわよ。シミュレーションやり直し」
「ひぃっ……! 1円の誤差も許さない私が、まさか……」
電卓を叩く大森の手が震えている。
そして、現場責任者の辻。
「辻さん、インフラ構築遅れてるわよ。IaC(Infrastructure as Code)のコードレビュー、まだ終わらないの?」
「だから! 現場の回線工事が終わってねえんだよ! 物理層の問題はどうしようもねえだろ!」
辻がついにキレて怒鳴り返した。しかし、真冬は眉一つ動かさない。
「物理層がボトルネックなら、なぜ並行して仮想環境で検証を進めないの? 言い訳をしてる暇があったら手を動かしなさい」
「くそっ……! あの鉄の女め!」
辻は机を蹴飛ばしそうになるのを堪え、モニターに向き直った。
情シス部は完全に疲弊していた。
これまで桐谷の下で培ってきた「自律的なチームワーク」は崩壊寸前だった。真冬の指示は絶対であり、彼女の求める基準はあまりに高すぎる。
昼休み。美冬は給湯室で、死んだような顔をしてコーヒーを淹れていた。
「……大丈夫?」
夏川が声をかけてくる。彼女だけは、真冬の要求水準についていける唯一の存在だったが、それでも目の下にはクマができている。
「夏川さん……。私、もう見てられません」
美冬はカップを強く握りしめた。
「みんな限界です。母さんは……白雪さんは、みんなを道具としか思ってない。これじゃ、システムができる前に人間が壊れちゃいます」
「でも、あいつの言うことは技術的には正しいのよね。悔しいけど」
夏川は苦笑する。「ま、確かに劇薬すぎて、副作用が強烈だけど」
午後。美冬は意を決して、部長席にいる真冬の元へ向かった。桐谷は外出中でいない。
「白雪さん、少しよろしいですか」
「手短にね。三十秒で」
真冬はPCから目を離さない。
「みんなを休ませてください! この一週間、誰も定時に帰れてません。佐久間さんは胃薬を飲み続けてるし、大森さんは幻覚が見えるって……」
「それが?」
真冬が顔を上げた。その瞳は氷のように冷たい。
「プロフェッショナルなら、自己管理も含めて仕事よ。ついて来られないなら辞めればいい」
「そんな言い方ないじゃないですか! 彼らは、半年間一緒に戦ってきた仲間なんです!」
美冬は声を張り上げた。
「仲間? 甘いこと言わないで」
真冬は立ち上がり、美冬を見下ろした。
「美冬。あなたは勘違いしてるわ。ビジネスは学校じゃない。仲良しごっこで傷を舐め合って、それで百年続く企業が救えると思ってるの?」
「思ってません! でも、心が折れたら戦えません!」
「心が折れる程度の覚悟なら、最初から戦場に来るなと言ってるの」
真冬の声が低くなる。
「壊れるなら壊れればいい。その時は、私がもっと優秀な人材を外部から調達してくるわ。再起動とは、部品を入れ替えることも含むのよ」
「ッ……!」
美冬は言葉を失った。母の論理は完璧だ。だが、決定的に何かが欠落している。
人の心だ。この人は、会社を治すために、そこで働く人の心を殺そうとしている。
「……私は、認めません。そんなやり方」
美冬は涙をこらえて睨み返した。
「あら、反抗期かしら? なら、結果で見せなさい。私のやり方以上に成果が出るというなら、認めてあげる」
真冬は冷笑し、再びPCに向き直った。
美冬は拳を握りしめ、逃げるようにその場を離れた。
悔しい。何も言い返せない自分が悔しい。
このままでは、チームが死ぬ。どうすればいいの……。
その夜、美冬は一人、屋上のベンチでSTノートを開いていた。
文字が涙で滲んで読めない。
「……泣いてる暇があったら、策を練りたまえ」
不意に、頭上から声が降ってきた。
桐谷だった。彼は缶コーヒーを二本持っていた。
「桐谷さん……どうして止めてくれないんですか。母さんの暴走を」
美冬は涙を拭わずに訴えた。
桐谷は隣に座り、コーヒーを差し出した。
「暴走ではありません。彼女は最速でゴールを目指しているだけです。F1レーサーが、一般道を300キロで走っているようなものですね」
「みんな轢き殺されちゃいます!」
「ええ。だからこそ、君が必要なんです」
桐谷は静かに言った。
「君が、彼女のブレーキになりなさい」
◾️ 毒を以て毒を制す
「ブレーキ……私が?」
美冬は桐谷の顔を見た。
「そうです。白雪真冬というエンジンは強力すぎる。放っておけば車体ごと空中分解します。ですが、そのパワー自体は西芝の改革に不可欠です」
桐谷は夜景を見つめた。
「彼女の役割は『推進力』。嫌われ役を引き受けてでも、組織を強制的に前に進めるヒール(悪役)です。……彼女もそれを自覚して演じている」
「演じている……?」
「ええ。彼女ほどの人なら、チームの疲弊など計算済みでしょう。それでも止まらないのは、誰かがそのケアをすると信じているからです」
桐谷は美冬に向き直った。
「美冬さん。君は彼女を超える必要はありません。彼女になろうとしてはいけない」
その言葉に、美冬の肩の力が抜けた気がした。
ずっと、母のような完璧なPMにならなきゃいけないと思っていた。でも、無理だ。自分にはあんな冷徹にはなれない。
「君の武器は何ですか?」
「私の……武器」
美冬は考えた。技術力はない。経営知識も山藤くんには勝てない。
でも、私には……。
「……みんなの痛みが、わかります」
「その通り」
桐谷は頷いた。
「君は『共感』できる。それは真冬さんが切り捨てた機能です。彼女が猛スピードで走り抜け、こぼれ落ちたボールを、君が拾うんです。傷ついたメンバーをケアし、彼女の冷たい言葉を、現場が受け入れられる熱さに『翻訳』する。それが君の役割です」
アクセルとブレーキ。剛と柔。
二人が揃って初めて、このプロジェクトは制御可能になる。
「毒を以て毒を制す。彼女という劇薬を使いこなすための、君が中和剤になりなさい」
美冬の中で、霧が晴れたような気がした。
母と戦うのではない。母を利用し、チームを守るのだ。
「……わかりました。私、やってみます」
美冬は涙を拭い、コーヒーを一気に飲み干した。苦味が、今は心地よかった。
翌日から、情シス部の風景が変わった。
真冬の厳しさは相変わらずだ。
「辻さん、まだできないの? 遅いわよ」
真冬が叱責する。辻がカッとなって言い返そうとした瞬間、美冬が割って入った。
「辻さん! 白雪さんが言ってるのは、ここの配線の冗長化のことですよね? ここさえクリアできれば、後のテスト工程が三日短縮できるってことですよね!」
美冬は真冬の指示を噛み砕き、その「意図」をポジティブに伝えた。
「あ、ああ……そういうことか。なら、最初からそう言えってんだ」
辻の怒りが収まる。
「それと、辻さんが昨日の夜中まで頑張ってくれたおかげで、ネットワーク遅延は解消してます! そこは凄いです!」
美冬は褒めることも忘れない。辻はまんざらでもなさそうに鼻をこすった。
「へっ、当たり前だろ。……しゃあねえ、やるか」
佐久間や大森に対しても同様だ。真冬がダメ出しをした後、すかさず美冬がフォローに入り、具体的な改善案を一緒に考える。
さらに美冬は、山藤と協力して「おやつタイム」を導入した。十五時には強制的に手を止めさせ、甘いものを食べて雑談をする時間を設けたのだ。
真冬は「無駄な時間ね」と顔をしかめたが、美冬は笑顔で言い返した。
「脳の糖分補給です。生産性を上げるための『戦略的休憩』ですよ、白雪さん」
真冬はふんと鼻を鳴らしたが、止めることはしなかった。
奇妙なバランスが生まれた。
真冬が超高速でタスクを投げ、チームが悲鳴を上げそうになると美冬がクッションに入り、夏川や辻が技術で打ち返す。
恐怖政治ではなく、高度な緊張感と相互補完のあるチームワーク。
プロジェクトは、驚異的なスピードで進み始めた。
「……やるじゃない」
ある日の夕方、真冬がボソリと呟いた。
彼女の手元にある進捗表は、当初の「半分」の期間に見事に収まっていた。
少し離れた席で、桐谷がその様子を見ていた。
真冬と視線が合う。
真冬は微かに口角を上げ、桐谷は無言でコーヒーカップを掲げた。
言葉はいらない。二人の熟練プロフェッショナルだけが知る、共犯関係の合図だった。
『うまく育てたわね、桐谷』
『ええ。彼女は貴女を超えるかもしれませんよ』
嵐は過ぎ去ったわけではない。むしろ、船は加速し、より荒れ狂う海へと乗り出していく。
だが、今のチームなら越えられる。
美冬はSTノートを開き、新しいページに書き込んだ。




