音のない夜
その男に話しかけたのは、言うなれば取材のようなものだった。
場所は大衆居酒屋。
週の始めの月曜日と言うのに、店内は大繁盛で喧々囂々としていた。
だからこそ、私は暖簾をくぐった時に「おや」と思った。
それと言うのも、周りがあんまりにも騒がしい分、その男の異質さが目についたからだ。
そいつは一人カウンター席に座っていて、両肘を卓上に乗せてちびちびとロックグラスを傾けていた。
丸めた背中から陰欝な気配が漂い、周りとの対比でそこだけぽっかり切り抜かれたようだった。
それでいて、その静けさが逆に男をスポットライトにあてられた舞台上の主演男優のように思わせたのだ。
エキストラたちはジョッキを掲げたり、大口を開けて腹を抱えたり思い思いのポーズをとり、照らされた円の外側で灰色の石像のように固まっている。そうして舞台セットと化した出演者たちの中で、主演男優の男は観客の視線を一心に集め徐に口を開く、、、
__私がこうしたイメージを抱いたのには、その男が中々整った顔つきをしていたのも起因しているのだろう。
とは言え、最初からその事に気づいたのではない。どちらかというと第一印象は男の持つネガティブな雰囲気に引きづられその容姿を明確に認めたのはもっと後になってからだった。
潜在意識の中で私は男の容姿から舞台俳優を想像し、そうして男の隣の席に腰を下ろした。
何故か?__冒頭に述べたように取材のためだ。
もしくは、知見のためか?
私というものは本業の傍らいつまでも芽の出ない執筆活動に精を出すいっぱしの文筆家気取りで、その日その酒場に入ったのも酒を呑むわけではなく創作活動のアイデアを得るためだった。
酒場ほどインスピレーションを与えてくれる場はない。
ちょっと聞き耳を立てるだけで馬鹿げた噂話から悲恋の愁嘆場まであらゆるタイプの体験談を回収することができる。これは私の創作活動に大いに役立っていて、私の書く話などは大抵そういう話のなかから面白い箇所をちょいちょいつまんで寄せ集めた謂わば現実のツギハギなのだ。
そういうわけで、酒を楽しむつもりもなくむしろ面白い話はないかと目を光らせていた男にとって、何やら訳ありそうなカウンターの男は恰好の獲物だった。
私が隣に座っても男はこちらに目を向ける事すらなかった。
霧島を2杯奢ってやると、誰に聞かせるわけでもないように男は虚ろな目をグラスに注いだまま次のような話を口にした。
×××
後藤は突然やってきた。
僕は出向先の大阪にいて、その前に後藤に会ったのは新橋の安い居酒屋でだったから僕は驚いた。
「やあ、近くだと思ったからさ」
そう言って後藤は少年期から変わらない笑みを浮かべてみせた。
確かに僕はこの来訪者に驚いていた。
でも、それはさっき言った理由の他に、そいつがあんまりにもずぶ濡れだったからだ
雨にやられた、と後藤は言った。
僕はそれを聞いて、相変わらず抜けてる奴だなあと思いながら、後藤を部屋に入れてやった。
後藤はそういう奴だったんだ。
僕らの故郷の長閑な田舎でその気性まで引き継いだように、後藤は穏やかでおよそ争い事を好まない、まあよくあるお人好しという奴だった。
僕と同じで大学進学とともに都会に出てきたくちだが、終始地元に帰りたいと漏らしていた。
この前呑んだ時も丁度その話が出て、あいつは都会がどれだけ住みづらいかを嘆いていたが、「じゃあ、そうすりゃいいじゃないか」とこっちが言うと、「いや、それは」と口をもごもごとさせて誤魔化すようにウーロン茶を飲んだ。
「どっちつかずだなぁ」と僕が言うと、後藤は「ははは」と酒を飲んでいないにも関わらず顔を赤くして笑って見せる。
後藤はそう言う奴だった。
滅多に怒ることがなくて、多少のことは「まあまあ」ととりなしてしまう。
けど、僕は奴のそう言うところが気に入っていて東京に戻るときには必ず奴と約束をとりつけていた。
だから、後藤が突然とは言えやってきてくれたことは嬉しかった。
それに、その夜は急な約束のキャンセルがあってつまらない想いをしていたので、タイミングよく友人が現れたことは僕には歓迎すべき事だったんだ。
それで、僕は後藤に風呂を勧めた。
後藤は「それは悪いよ」といったが、僕が折れないのが分かると渋々それを受け入れた。
後藤が脱衣所に姿を消して、僕も家を出た。
近くのコンビニに酒やつまみの補充をしにいこうと思い立ったんだ。
さっきまで土砂降りだった雨はもう止んでいて外は蒸し蒸しとしていた。
戻ってくると、後藤は既に風呂から上がっていて、まるで忠犬のように僕の帰りを玄関で待っていた。
「急にいなくならないでくれよ、びっくりするだろ」
あいつにしては珍しい口調で後藤は僕にそう言ったが、僕は特に気にしなかった。
後藤もすぐに気を取り直したように僕が買ってきたつまみ類をテーブルに出すのを手伝うと僕らは晩酌を始めた。
その夜はいつになく盛り上がった。
後藤は珍しく酒を口にし、奴にしては珍しく喋った。冗談を口にする事もあった。
これは稀な事で、2人でいる時は大抵後藤が聞き役に回っていた。あいつ自身喋るのが得意では無いからその方が良かったんだろう。
けど、その日は確かに後藤はよくしゃべった。
子供の頃の話、
地元の連中で行った深夜の肝試し、
親に隠れて飲んだ酒__後藤があまりにも弱い為にすぐにバレて学校で大事になったことなど今になれば笑い話だ
それと同世代で1番可愛かった子のこと、
「山口さんは絶対お前のこと好きだったよな」
後藤が揶揄うように言う。
彼女がもう二児の母だと思うと急に時の流れを感じた。
そうやって何時間か経つと、急に後藤が静かになった。
どうやら酒が回ってきたらしい。
何かぼうとしていて僕の話もよく聞いていないようだった
「おい、飲み過ぎたんじゃないか?」と僕が肩を揺さぶってやると驚いたように頭をぶるりと振るわせ、もごもごと「トイレ」とかなんとか呟いて部屋を出てった。
人と酒を飲んでいる時に急に1人になる事ほど寂しいものはない。
僕自身、どちらかと言うと寂しがり屋の分類だから後藤が出てって5分もしないうちにテレビをつけた。
また降り出した雨音が友人のいなくなった部屋を殊更に強調したせいもあるかもしれない。
そして、空白を埋める為の時に限って面白い番組もやってなくて、結局深夜のニュース番組に落ち着いた。
ぼうとしていた。
急に部屋には自分以外誰もいなくて後藤だなんだは人恋しさのあまり自分が幻覚を見ていたのかと思うほどに、部屋の中は静かだった。
雨の音を聞きながら、画面がスタジオとVTRを行き来するのを眺めている。
ぼうと見ている。
今となってはもうあの時自分が何を見ていたのかなんて思い出せない。
あれは嵐の前の静けさだった。
僕はそうと知らずに台風の目の中にぽんと放り込まれて、あまりの平和さにその数分後に何が起きるかなんて分からず、指を咥えて突っ立ってるほうけ者だった。
__何かがハッとこめかみのあたりで掠めた。
どこか覚えのあるもの、それも予想だにしないタイミングででてきたそれに対する小さな衝撃とでも言うものが僕を動かした。
勿論、ただの嫌な予感であることはわかっていた。
しばらくして後藤が戻ってきた時、入れ替わるように僕は廊下に出た。
背後で後藤が何か言ったが、よく聞き取れなかった。
「どうしたんだ?」
部屋に戻ってくるとすぐさま、後藤は尋ねた。
チャンネルが変わったのか、漫才のはしゃいだような声が聞こえた。それがやけに空虚に感じた。
後藤の口調はどこかぶっきらぼうだった。
でも、そんな事は気にならなかった。
「ちょっと行かなきゃならないかもしれない」
「行く?どこへ?」
「警察が来る」
「…」
「さっき、テレビでやってたんだ
犀川河原町で殺人事件があったって
そのマンションが僕の知り合いの住んでるところで嫌な予感がして電話を掛けたんだ。
そしたら、相手は警察だって
身元の確認も手伝って欲しいから、迎えをよこすって」
「被害者の女性とはそんな親しい仲なのか?」
「いや、そう言うわけじゃない
ただ、とても母親に見せられる状態じゃないらしい、、まさか、こんなことになるなんて」
「…恐ろしい話だな」
「ああ、それに僕はもしかしたら、犯人を見たかもしれない」
「犯人を?」
「今日、彼女に会う予定があってあのマンションに行ったんだけど、途中で彼女が男と2人でいるのを見かけて…」
「さすがにそれだけじゃ犯人だなんて言えないだろ」
後藤はそう言った。
だが、僕の中では確信に近いものがあった
2人は小さな黒い傘の下身を寄せ合っていた。どう見ても恋人同士だ。
だから、僕は家に帰った。
以前、彼女は言っていた。彼氏がかなり嫉妬深い。遠距離恋愛じゃなきゃやってれないくらいだわ。
、、嫉妬にかられた男が、彼女を殺したのだ
あの綺麗な額に膨れ上がった醜い殺意を何度も何度も振り下ろしたのだ
体中がぶるぶると震え出した
僕は崩れ落ちるようにして床に沈むと酒を煽った
まさか、こんなことになるなんて
頭の中にあの男の姿が浮かぶ
顔は見えなかった。でも、彼女と半分こした傘の中で半分だけでた濡れた肩がやけに目についた……
インターホンの呼び出し音に僕はびっくりした。
もう来たのか
「悪い、ちょっと出てくるから、もしあれだったら鍵はポストに入れてもらえればいいから」
僕はキーボックスの合鍵を指差すと、後藤はうなづいた。
胃袋がやけに重たく感じた。
短い廊下を抜けて、玄関を開けようとする。
頭の中ではあの場面がずっと反芻し続けている。
あの男、あの男の後ろ姿、どこかで見たような、、、
ふと、玄関先のリュックが目についた。
それは後藤のもので僕は古新聞を敷いてやった。
僕は黙ってそれを見下ろした。
呼出鈴が再び鳴らされる。
けれど、僕はドアノブに手を伸ばすことはなかった。
僕はリュックを開いた。
何でそんなことをと言われてもよく分からない。何となく、後藤の趣味じゃない感じがした。それに何となく歪な形をしている。
そんなあやふやな理由で僕は友人の荷物を漁ったんだ。
普通であれば咎められる行為だ。
「やめておけ」と良心がなんども非難の声をあげた
けど、そんなの全く意味がなかった。
消え去った。
リュックの中にはビニール袋があって、それがかさかさと音を立てて立てた。そのビニール袋の中には何か入っていた。
傘だった。
綺麗に折り畳まれた折り畳み傘だった。
なぜ、傘があるのか?
いや、なぜ後藤は傘があるのに刺さなかったのか?
なぜ、濡れるのに任せていたのか?
そのくせ、なぜ丁寧に袋に入れて持ち歩いているのか?
頭の中でいくつもの映像が浮かんだ。
彼女のマンション、
数ヶ月前関係をもってから何度も通ったあの道、
彼女の語ったこと、
嫉妬深い恋人、遠距離、
僕の隣に寝そべりながらけらけらと笑っていた。
__つまらない男
そう言っていた。
__でも、もし私とのことを知られたら、あなたあいつに殺されちゃうかもね
そう、楽しそうに言っていた。
見覚えのある後ろ姿、、、あの時、僕は慌てて身を翻した
だって、あの男が振り返ろうとしたから、、、
左肩の濡れた男が、、
僕を見た気がしたから
僕は振り返った。
後藤がそこにいた。
変わらない笑みを浮かべて。
×××
男が黙ると、外の雨の音が聞こえる
いつの間にか降り出したのだろう
頭の中にさっき語られた情景が浮かんできた
友人の恋人と知らずに関係を持って、結果殺人事件までに発展した、とは…
「なかなかお上手ですね」
「は?」
「いや、お兄さんそれ作り話でしょ?
私にもそれくらいぱっと話せる創作能力があればなぁ」
男の体がぴくりと揺れた。
「なんで、作り話って?」
どうやら図星だったらしいと気をよくした私はちょっと吹き出しそうになりながら言った。
「だって、お兄さんはここにいるじゃないですか!五体満足で」
つまり二者視点のホラーでよくありがちなあれだ。語り手がいると言う事は、結局のとこその人は無事だったんだから恐怖も半減する。
そうして、私はぎょっとした
ずっと項垂れていた男が初めてこちらに顔を向けていた
まるで、私を初めて認識したような、
私と言う人間に初めて気づいたような、私をその他大勢のエキストラから初めて認知した__そんな顔だった。
夜の海のような色だった。
やけに黒い目が私を見ていた。
2度目は1度目よりもハードルが低い