第1章6話 潜入
月が厚い雲に覆われ、街全体が不気味な静寂に包まれていた。
貧民街の北西――使われなくなった小さな廃屋の裏手。
見張りもいないその一角で、リアンは仲間たちと身を潜めていた。
今夜がすべての始まりだ。
一年前から積み上げてきた“計画”を、実行に移す時が来た。
「準備は?」
低い声で囁いたリアンに、マルクが頷きながら答える。
「斥候班から報告。奴隷商人の馬車がさっき、例の倉庫裏に入った。時間通りだ」
「よし」
リアンの脳裏には、過去の記憶が鮮明に焼き付いていた。
――回帰前。
リアン自身が奴隷商人に捕まり、真っ暗な地下牢に放り込まれたあの時。
仲間を失い、絶望の底で一人、震えていたあの夜。
誰にも気づかれず、声も届かず、ただ闇の中で泣いていた妹の姿――
(……あの時の俺を、もう誰にも味あわせたくない)
だからこそリアンは、この一年、地下牢の構造を記憶を頼りに“逆算”して動いた。
表からは決して見つからないよう、廃屋の裏手――雑草に埋もれた地面から、
密かに掘り進めた穴は、すでに地下牢の天井近くまで届いている。
夜に紛れ、何ヶ月もかけて少しずつ進めた作業。
仲間と交代で土を掘り、石をどかし、支柱を立てた。
「入口は……ここか」
リアンが指差す地面は、ぱっと見ではただの湿った土の一角。
だが、落ち葉を払い、枯草をどけると、小さな木蓋が現れる。
「開けるぞ……静かにな」
そっと木蓋を開け、地下へと続く通路が顔を覗かせた。
手掘りの土のトンネルは、大人では通れないほどの狭さだ。
「先頭は俺だ。続いてマルク、ターニャ、ソウ……いいな?」
「了解」
「了解だ、リアン」
ひとりずつ、無言で頷く仲間たち。
誰も騒がず、誰も怯えない。すでに彼らは、ただの貧民街の子供ではなかった。
リアンは手にした火石で小さなランタンに灯をつけ、その先を照らす。
湿った空気と土のにおいが肺に入り込んでくる。
手と膝で這いながら、ゆっくりと進む。
(この先には……“あの場所”がある)
かつて、自分が心を閉ざした場所。
誰にも届かない場所で、誰かの悲鳴とすすり泣きが響いていた――地下牢。
今度は、自分が“そこ”を壊す側だ。
前を進むリアンの手が、ぴたりと止まった。
「……着いた」
指先に触れる、冷たい石。土の感触とは明らかに違う質感。
――地下牢の天井だ。
「ここからが本番だ。静かに準備を」
後方から渡されたのは、手製の鉄製くさびと小型のハンマー。
土の中での作業に慣れたリアンが手際よくくさびを当て、小さく、慎重に叩いていく。
コン……コン……
鈍い音が、石を伝って響く。
音を最小限に抑えるよう、呼吸すら細心の注意を払った。
コン……コン……
「っ……!」
小さな振動とともに、石にひびが入る。
だが同時に、上から土くれがパラパラと落ちてきた。
「くっ、支柱ずれてる……!」
マルクがすぐさま後方から木杭を渡し、ソウが手際よく支えを補強する。
――ギギ……ミシ……
わずかに、天井がきしむ音。
その下に“誰かがいる”。
そして――その“誰か”の声が、リアンの耳に届いた。
「……っ、う……だれか……いるの……?」
掠れた、幼い声。
目を閉じ、リアンは静かに頷いた。
「もう大丈夫だ……助けに来た」
仲間が手を止め、息を呑む。
リアンは天井にもう一度くさびを打ち込む。
「壊すぞ。……このくそったれな牢獄ごと、叩き壊すんだ」