★もう1つの物語
窓の外、冬空の雲は重たく沈んでいた。
病室のベッドの上で、小さな体が静かに呼吸を繰り返している。
12歳の少年――小湊春樹。原因不明の病に侵され、現代医学でも手立てはなく、彼の命はゆっくりと、だが確実に消えていこうとしていた。
点滴の針が刺さる腕は、細くて青白い。
指先に握られていたのは、何度も読み返した一冊の小説――『アスティア戦記』。
(もう……すぐ、なんだな)
体の感覚はほとんどなかった。まぶたは重く、息をするだけで苦しい。
それでも、春樹は微笑みを浮かべていた。
(読めてよかった……最後まで、読めた)
大好きだった物語。剣と魔法、誇り高き騎士たち、世界を旅する主人公たち。
病院の外には出られなくても、春樹の心はその世界を駆け巡っていた。
(……一度でいいから、あんなふうに……)
目を閉じる。意識が、ふわりと浮かび上がるような感覚に包まれる。
(自由に生きてみたい。走って、旅して、誰かを助けて……)
(この本の主人公みたいに、騎士になって……人を守る冒険がしたい)
心の中で、確かにそう願った。
言葉にはならなかったけれど、確かに、魂が叫んだ。
その瞬間、視界が、真っ白に染まった。
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気づいた時、春樹――いや、“彼”は、柔らかな陽光の中にいた。
「……ここ、は……?」
まるで夢のような景色だった。
豊かな草原。遠くに見える山並み。澄んだ空気。
目の前に広がるのは、これまで本でしか見たことがなかった、異世界の景色。
やがて耳に届いたのは、大人たちのざわめきと、泣き声。
「おぎゃあああああ!」
自分のものとは思えない甲高い叫びが、喉からほとばしった。
――そう、転生していたのだ。
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気づけば、春樹は帝国の武闘派貴族・シュタイン辺境伯家の末息子として生まれていた。
名はレオン・シュタイン。
前世とは違い、健康な肉体。裕福な生活。
自分の足で走り回れる世界。夢に見た“自由な人生”。
すべてが叶ったように思えた――最初は。
「おいレオン! その程度で音を上げるな!」
「情けない弟だ。シュタインの名が泣くぞ」
目を覚ませば、剣の稽古。食事を終えれば、学問と礼儀作法の猛訓練。
兄姉たちは皆、武の天才ばかり。
レオンはその中で“落ちこぼれ”と呼ばれ、冷たい目で見下ろされていた。
(これが……現実?)
夢に描いた世界の中で、レオンはまた、現実の重さに打ちのめされていた。
どれだけ努力しても、認められない。
いや、努力すらできず、心が折れてしまうのだった。
(もう、無理だ……)
身体も、心も、限界だった。
そんなある日。城の外に続く道を、じっと見つめながら、レオンは決意した。
(せめて……自分の足で、この世界を生きてみたい)
そうして彼は、たった一人で家を出た。
家族も、地位も、何もかもを捨てて――
(ここからが、本当の“冒険”だ)
小さな背中に、そんな希望を宿して。
しかし、その旅の始まりも、すぐに暗雲に覆われることになるとは、まだ彼は知らなかった。