第4話
社用携帯電話のバイブレーションの振動に、私はハッと目を覚ます。
窓から見える空は、墨汁を垂らしたような暗闇さで、夜になっている事を教えてくれた。
対して室内は寝ている間に照明を点けていたらしく、優しい明るさだった。
ベッドの上で飛び起きた私は、テーブルの上に置かれた鍋料理を前に感嘆の声を上げるよりも先に携帯電話を耳に当てる。
「はい、朽方です」
『休み中にすまんな。ちょっと聞きたい事があってな…』
言葉を濁す電話口の相手に、私は僅かに眉間に皺を寄せた。
電話をかけてきた相手の名前は、山田伸介。
会社の直属の上司その人だった。
そして、休みの日に上司が電話をかけてくるという行為は、絶対に良い事じゃない。
幾分かマシになったはずの頭痛が、ジワジワとまた忍び寄ってくるかのようだった。
「Cサーバーでも落ちました?」
心当たりのあるサーバー名を告げれば、山田部長は首を横に振っているような雰囲気と共に、
『いや、サーバーは問題ないんだけどな』
と、随分と煮え切れなかった。
言うべきことをさっさと言うタイプの部長らしからぬ言動に、私はいよいよ眉間の皺を深くする。
サーバーが落ちる以外で、一体どんな用があると言うのか、見当のつけようが無かった。
私がベッドの端に腰かけ、少し尻を浮かした所で、山田部長は口をモゴモゴさせるような歯切れの悪い物言いを繰り返した。
『あー……その、だな。社内で、ちょっと変な噂が回りだしてんだよ』
「……はぁ」
浮かしかけた尻をベッドに下ろした私は、気の抜けた声を上げる。
そんな私に対し、山田部長は意を決したように話し始めた。
『いやな、お前が、営業部の川本にストーカーして、川本の家に乗り込んで、たまたま遊びにきていた甘宮の写真を撮っただのなんだのっていう』
あまりにも寝耳に水な言葉に、
「………は?」
と、私の反応は大きく遅れてしまう。
『いやいや、私は朽方がそんな事するとは思ってないよ? そもそも論として、ストーカーって、朽方にそんな時間あるか?っていうな』
慌てながらの山田部長の言葉に、私の脳内ではシンバルをぶん鳴らされたような気分だった。
奴らは私が休んだことをこれ幸いとし、先手を打って、私を悪者に仕立て上げる魂胆に出た訳だ。
最初に流れ出した噂は尾ひれがついて広がるだろうし、後々で訂正できたとしても、その訂正が広がり切った噂と同等に広がるとは限らない。
だから、私は誰かの記憶の中で、一生ストーカー女となったということだ。
なるほど。先手としては、最低にして最高かもしれない。
噂のせいで針の筵になった私が泣き喚いて慌てふためいて、会社を辞めるとでも思ったのだろうか。
社用携帯電話を握りしめた手に力がこもり、小さくビキッと変な音を立てる。
「………そうですね。まぁ、写真を撮った、という事実だけは正しいですけど」
私は能面のような顔をして、言葉を静かに返せば、
『エェッ?』
と、山田部長は素っ頓狂な声を上げた。
ひょいっと台所から顔を出したレオンハルトは、私の表情をジッと見ながらも、口を挟んだりはしなかった。
「今週の残り、ちょっと休んでもいいですか?」
私の言葉に、
『ちょっと待て』
と、山田部長は言うが早いか、キーボードを叩く音を僅かに電子に乗せた。
『――ああ、大丈夫だ』
スケジュールの確認を終えた山田部長の言葉に、私は小さく胸を撫でおろす。
やっておくべきは無理のないスケジュール調節だった。過去の私、偉い。
「ありがとうございます。では、来週の月曜に出社しますので。多分、その時、人事から呼び出し来ますよね」
『ああ、まぁ、今、人事から確認の連絡が来てる』
「では、来週の月曜に説明する、と伝えてもらえますか?」
『分かった。――あーなんだ、大丈夫か?』
「ええ、何も問題ありません。では」
『ああ、体調に気を付けてな』
山田部長の言葉を聞き終えた私は、通話を切り、そして、深く深く溜息を吐き出す。
やってくれやがったな、あのクソ野郎共。
唇をワナワナと震わせた私は、叫び出したい衝動をどうにか抑える代わりに、携帯電話をそこらへんに投げ捨てる。
悲鳴を上げた携帯電話はベッドから転げ落ち、白いラグの上に不時着した。
「どうする?」
携帯電話から漏れ聞こえた声で事態を把握しているらしいレオンハルトの言葉に、私は再度大きく溜息を吐いて自分の神経を落ち着かせながら口を開いた。
「ボッコボコにする」
「車を借りた方が良いかな?」
レオンハルトの想定外の言葉に、私は目を瞬かせ、
「え?」
と、思わず返すと、レオンハルトの方が面食らったようだった。
「え?」
そういう話ではないの、とばかりの表情に、私の口角は思わず笑みに歪む。
「ごめん違う違う。――ちょっと一本、電話かけても良いかな? ご飯の準備をしてくれてるのに悪いけど」
私の言葉にレオンハルトは、全然気にした風もなく笑顔を浮かべ、
「うん、全然いいよ」
と、非常に優しく答えてくれた。
私はそれにお礼を述べながら、自分のスマートフォンに手を伸ばし、母親に電話をかけた。
二コールの後に、
『はいはいはいはいはいはい。あんたが電話なんて珍しいわね』
と、元気の塊のそのものの声が鼓膜を叩いた。
「ごめん、不躾に悪いんだけど、良い弁護士知らない?」
私の言葉に、母親は流石に驚いたような声音で、
『ええ? 何? 会社の顧問弁護士さんとかはダメなの?』
と、問い返してきた。
「うん、ダメ」
『そう。まぁいるのはいるけど、あんたが住んでるところからはちょっと遠いわよ。大丈夫?』
「大丈夫。有給取ったから」
私の言葉に、母親は小さく溜息を吐き出した。
そして、
『……分かった。メールで送っとくから。で、大丈夫なわけ?』
と、私自身の心配を最後に口にした。
その言葉に、私はグッと唇を噛みしめる。
川本との同棲と結婚の話に、母親は大いに喜んで、動画にまで撮っていた。
その様を思い出すと、どうしてもやるせなかった。
そして、私は小さく細く息を吐き出して、堰を切ったように喋り出す。
「大丈夫。簡単に言うと、川本が浮気してて」
『は?!』
母親の合いの手を無視して、
「そんで、私がストーカーだったって噂を流したから。弁護士立てて、ボコった方が良いでしょ」
と、言い切ると、母親は、
『それが良いわ。母さんが撮った動画も送っとくわ。挨拶しにきた馬鹿男の動画をね!』
と、我がことのように怒りだした。
『負けんじゃないわよ。勝ちなさいよ。勝って島流しにでもしてやるのよ!』
母親の言葉に私は浅く笑う。
「分かった」
『勝負の途中で倒れないように、お母さんそっち行こうか?!』
今にもパンチでも繰り出しそうな勢いに、私は首を横に振る。
「それは大丈夫」
『そう?! まぁいいわ! 応援が必要ならいつでも呼びなさい! いくらでも連れてったるからね!』
誰を連れてくるのかは謎だが、母親の言葉に私は小さく頷いた。
「ありがとう」
私の言葉に満足した母親は、じゃっと言う言葉と共に電話を切った。
そのやり取りを台所から見ていたレオンハルトは、
「ご飯、食べれる?」
と、優しく声をかけてくれた。
「うん、ありがとう。食べる」
私の言葉にレオンハルトは、盆に茶碗を二個乗せて、部屋へと戻ってきた。
そして、片膝をついてテーブルの上に、ご飯を配膳すると、
「冷蔵庫にあった白菜と豚肉で、簡単にお鍋にしてみたんだけど、どうかな」
と、言いながら、向かい側に腰を下ろした。
「ありがと。丁度やろうと思ってたんだよね、それ」
私の言葉にレオンハルトは、にっこりと笑い、
「それはよかった」
と、言いながら鍋の蓋を開けた。
ふわっと立ち上った湯気は美味しさを演出した鍋の中身は、見事な白菜と豚肉を重ね合わせて作ったミルフィーユに、葱とエノキも添えた見栄えの非常に良いものだった。




