声と、花びらと。-いつもぼっちな彼と話がしたくて、おまじないに頼ってみることにしました
新年度がはじまって興奮冷めやらぬ様子の放課後。皆瀬未来は親友の絶叫をBGMにしながら、右手でパンを食べ、左手でスマホをいじっている。
午前中は始業式とホームルーム、午後は部活動に加入している者なら新入生を勧誘するための準備がある。未来は帰宅部だが、籍を置いてあるだけの美術部に義理を通そうと、数日だけ準備を手伝うと伝えてあった。
「いやああああああっ! ヒトが始業式出てる間に限定イベント捲られてんだけど!」
「50位内厳しそ?」
「まだギリギリ残ってるけどイベ終まで持たないと思う。最悪。はぁ、またお布施しなきゃ。バイトしてもしても足りないわ」
彼女は女性向けのスマホアプリゲームに廃課金している。推しキャラにお布施ができると喜んでいるので、誰もそれを窘めたりはしない。
未来も同じゲームをプレイしてはいるが、無課金だ。推しはいるにはいるものの、単純に声が彼と似ているからというだけで、キャラそのものには興味がなかった。
「で? みくの王子様はもう帰ったの?」
「多分……? 部活やってないし」
「せっかくクラス替えしたんだし友達作ればいいのにね。てか先生たちもよく注意しないよね、顔の99パーセント隠れてるじゃん」
「99パーセントは言い過ぎじゃないかな。……あっ! もう行かなきゃ。バイト頑張って」
パックのコーヒー牛乳でパンを流し込み、マスクをつけながら席を立って親友に手を振った。
未来の通う高校は教室棟、特別棟、体育館という3つの建造物からなっている。美術室を含めたほとんどの特別教室は特別棟にあり、そこへ向かうには中庭に面した渡り廊下を通る必要があった。
2階の渡り廊下に差し掛かって、未来は窓の外へ目を向ける。
右手側を見れば中庭で勧誘のための立て看板を作ったり、出し物の練習をしたりしている生徒たちがいた。左手側の、裏庭というには貧相な狭い庭には桜の木があって――。
「星くん……」
親友の言うところの99パーセント顔が隠れた男子生徒が、ぼんやりと桜を眺めていた。黒いマスクが顔の下半分を、長い前髪が目元までをすっかり覆っている。
彼の姿に思わず足が止まる。
星壮真との出会いはちょうど1年前の入学式。いま彼が眺めているこの桜の木の下だった。
去年の入学式、未来は緊張のあまり1時間近く早く家を出てしまい、到着したときにはクラス発表さえ張り出されていなかった。仕方なく校舎の周りをぐるぐるまわっているうちに、この裏庭へたどり着いたのだ。
大きな桜の木は、塀の向こうを通りすがる近隣住民のためにあるのではないか。そう思ってしまうほど、小さくて人気のない裏庭には不釣り合いだ。けれどもその時の未来にとっては、時間を潰すのにもってこいの場所でもあった。
そよそよと風が吹く。ピンク色の花びらがふわりと舞って、ひらひら落ちる。思わず手を伸ばしたけれど、未来の小さな手をすり抜けて花びらは落ちていく。
幾度も舞い落ちる花びらに手を伸ばし、幾度も零れ落ちる花びらを見送って、うっすらと汗をかき始めた頃。感情があるのかないのかわからないような、涼やかな声が聞こえた。
「なにしてんの?」
振り返るとそこには、黒いマスクに長い前髪の男子生徒の姿。背はひょろりと高く、真新しい制服が新入生なのだと未来に教えてくれる。
未来は息苦しくて下げていたマスクを慌てて付け直し、早口でまくし立てた。
「あのね、『ふわふわ舞う桜の花びらを空中でつかまえられたら願いが叶う』って、知ってる?」
「は……?」
「知ってるわけないか。へへ、でもキャッチできたらちょっと嬉しいでしょ?」
そのロマンチックな伝説は、以前視聴したウェブアニメの端役の子どものセリフだ。当該アニメはその後テレビで放映されたが、アニメーションも声も全てが変わっていたし、端役の子どもの出るエピソードはカットされていた。
だから、知っている人などいるはずがないのだ。
時間を確認しようとスマホを取り出したその刹那、ぶわっと強く風が吹いた。未来の目の前を男子生徒が横切る。すらっとした腕が伸びて、落ちて来た花びらを見事その長い指が摘まんだ。
「とれた」
「す……っご。すっごい! 一発で成功するなんて凄いね!」
手を叩いて喜ぶ未来に、彼は花びらを差し出した。思わず受け取ったそれは、淡いピンク色で柔らかくて、大事にしないとすぐに壊してしまいそうだ。
「あげる」
「ありがと! あ、でも自分で取らないと願い事叶わないのかなぁ」
「君の――」
「みくる。皆瀬未来です」
「みく……あ、いや皆瀬の願い事ってなに」
問われて、未来は特に願い事をしようと思っていたわけではないのだと思い至った。首を傾げて「なんだろう」と呟く。男子生徒は困ったようにぽりぽりと頭を掻いた。
「んー。あっ! 友達。友達ができますように! 同じ中学出身の子いないからさ」
ようやく思いついたのは、これから入学式を迎える新入生にとっては切実な願いだ。どうしてすぐに思いつかなかったのかと未来は笑う。
男子生徒は手を伸ばし、花びらを摘まむ未来の手に触れた。
「じゃ、俺の願いは『皆瀬に友達ができますように』だ」
「え……?」
彼は見上げた未来の目から逃れるように顔を背け、未来の手から離した大きな手で前髪をかきあげる。
薄い茶色の瞳は声と同じように涼しげで、太くも細くもない一文字眉がその瞳を際立てていた。未来はその瞳に釘付けになったが、視線に気づいた男子生徒がすぐに前髪を戻してしまう。
「あ、えと。私もそっちの分の花びらとるから待ってて! あ、名前なんだっけ」
「星壮真」
「星くんね。願い事考えといてよね、すぐとるから」
「アハハ! 無理するなよ、今までぜんぜん取れなかったのに」
未来は初めて聞いた壮真の笑い声に嬉しくなって、次から次へと花びらへ手を伸ばした。けれども触れることさえできないまま、予鈴が鳴り響く。
「ヤバ、時間忘れてた!」
「もういいから行くぞ!」
ふたりで大笑いしながらクラス分けを確認し、同じクラスだと喜びながら校舎を駆け上がった。未来にとって、もうすでに願いは叶ったも同然だった。
「ミナミク! 何やってんだよ、そんなとこで?」
ぼんやりしていた未来を現実に引き戻したのは、同級生の男子だった。中学生時代に、同じ塾に通っていた友人、大谷陸だ。
「えっ、あ、美術部の部室に行こうと思って」
「じゃ途中まで一緒に行こうぜ。こっちも生徒会の集まりあるらしい。初日からよくやるよな」
「あー、それは大変だね」
「お前とクラスも別々になったし、ツイてねぇわ。まぁ仲いいヤツだいたい同クラだったからいいけど」
裏庭からはいつの間にか壮真の姿は消えていた。
未来は陸と並んで歩き出す。
「ミナミクんとこは他に誰いんの?」
「サトちゃんとか、タナカとか、あと……星くん」
「あー、あいつまた同クラなんだ。もう放っとけよ、どうせ誰とも喋んねぇだろうしさ。あんま気にしてっと疲れるだろ」
「ん」
壮真が喋らなくなったのは自分のせいではないか、と未来は思っていた。そんなはずはないとわかっていても、胸にもやもやとつかえ続けている。
「いやーでもミナミクと同じ学校でマジで良かった」
「まーたその話?」
陸と同じ学校だったのは、未来にとっても僥倖と言えた。
入学式の日、壮真と連れだって教室に入ったときに誰より早く陸が叫んだのだ。「ミナミクじゃん!」と。
「そら何回でもするよ。おかげでリラックスできたし、ミナミクの紹介ついでにいろんな奴と喋れたしさ」
「同中はいないと思ってたから、私も知ってる人がいてびっくりしたけど」
渡り廊下を渡り終えて特別棟に入る。生徒会室は左へ、美術部は右側の階段を上がらないとならない。ふたりはどちらともなく立ち止まった。
「ミナミク、あのさ、俺――」
「ごめ、もう行かないと」
「あ、ああ。そうだな。じゃあ、また明日」
「うん、また明日」
階段に差し掛かるとどうにも足が重くて、未来は手すりにつかまって一段ずつゆっくり上る。
陸が「ミナミクじゃん!」と叫んだ結果、未来と陸とはクラスの中心人物となってしまった。例えば海外でジョックやクィーンビーと呼ばれるような人気者は他にすぐ出現したが、それでも3学期が終わるまでの1年間ずっと未来がクラス内の序列で1軍に居続けたのは、その時の影響が大きいだろう。
一方、壮真は盛り上がる教室の中でひとり、口を閉ざしてしまったのだ。
「よし!」
未来は深呼吸をひとつしてから、気合を入れて階段を駆け上がった。
翌朝。いつもより1時間早く学校へ到着した未来は、校内のいたるところに人の気配を感じた。去年はまるで気付かなかったが、それは緊張のせいだったのかもしれない。
教室棟の裏手にまわって、湿った土を踏む。渡り廊下の見えるあたりに差し掛かって足を止めた。
桜の木は静かに、悠然と、ただそこにいる。しばらくして小さな風を感じ、ゴクリと喉を鳴らして身構えた。
「星くんが、また私と喋ってくれますように」
掴もうとすると逃げてしまう花びらに、「ああもう」とこぼしながらまた手を伸ばす。
あの日、未来と壮真が桜の花びらに挑んでいたころ。教室ではすでに互いの挨拶を終えて、薄っすらとではあるが人間関係が築かれ始めていた。近い席同士で自己紹介を終え、同じ中学出身の者同士が他校出身の者にさらに友人を紹介し、声の大きな者は全員の注目を集め……。
最後にそっと教室へ入る男女にとって、その空気に溶け込むことなど難しいはずだった。本来なら。
「ミナミクじゃん! うっひょ! 超ツイてる!」
「あれっ、もしかして大谷? この学校だったんだ?」
「もしかしなくても俺だわ」
そんな会話は教室中の好奇心を集め、未来と陸は一躍時の人へ。
陸が大きな声で未来を紹介し、どんな人間か、中学時代にどんなことがあったかと面白おかしく話して聞かせる。その脇をすり抜けて、壮真は自身の席へ座った。
「あ、それでね、こっちは――」
「俺はいい」
未来が陸にしてもらったのと同様に、クラスのみんなへ壮真を紹介しようとしたとき、彼はハッキリと拒絶の意を示した。
それは沈黙を呼び、沈黙は彼から人を遠ざけ、以来、壮真はひとりで行動している。
目立ちたくはなかったのだろうと、後から謝罪をした未来に彼は「アンタは悪くないから。でも、もう関わらないで」とそれだけ言って背を向けた。
学校は休みがちだし、昼休みはふらっとどこかへ消えてしまう。
未来にはもう、どうしようもなかった。けれど、ずっと気になっていた。入学式の日に見た薄い茶色の瞳が。照れた顔も笑い声も、温かな手も忘れられなかった。
また1枚、花びらが未来の手をすり抜ける。少し離れたところを舞う花びらに気づいて、足を踏み出したとき。未来の身体は何か大きくて硬いものにぶつかった。
「下、ちょっとぬかるんでる。危ない」
感情がこもっているのかいないのかわからない涼やかな声。未来の心臓がドキンと跳ねて、声の主を見上げる。
「星くん……」
「またやってんの? 今年の願い事はなに?」
そう言って壮真は手を差し出した。その指先には花びらがある。
俯いて逡巡した未来だったが、意を決して顔を上げた。前髪の隙間に彼の瞳が見える。
「星くんがまた私と喋ってくれますようにって」
「っ……んな、もう願う前から叶ってるじゃん」
「じゃあ、これからもずっとずっと喋ってくれますように」
壮真の深いため息に、未来は胃に握りつぶされるような痛みを感じた。踏み込んではいけない領域だったろうか。少なくとも、本人に伝えるべきではなかったかもしれない。
「あの」
言いかけた未来の手を取って、壮真はその手のひらに花びらを握らせた。
「星壮真は、皆瀬未来とちゃんと喋る」
「いいの?」
「いいよ」
「良かったぁー! じゃあ、ちょっとコレ持ってて!」
貰ったばかりの花びらを壮真に預け、未来は桜の木を見上げた。やるべきことはまだある。
強く風が吹いて、ざわりとたくさんの花びらが舞った。あの中のたったひとひらでいいから、と手を伸ばす。
「がんばれ」
背中から、少しだけ熱のこもった涼やかな声が聞こえた。
大切なものを包み込むように、両手でそのひとひらを捕まえる。右手と左手の隙間からそっと中を覗き込んで、未来はにんまりと笑った。
おにぎりでも握っているかのような形の左右の手を壮真に差し伸べて言う。
「星くん! さあ! 願い事をどうぞ!」
「ぷっ……あははは! マジかよ、すげぇ執念じゃん」
「だっ、だって約束したでしょ」
お腹を抱えながら笑った壮真は、最後にひとつ大きく息を吐いて前髪をかきあげた。薄茶色の瞳が真っ直ぐに未来を見つめる。
差し出した未来の両手に右手を乗せ、一歩近づき小声で囁いた。
「皆瀬が悪いんだからな。関わるなって言ったのに」
「……え?」
「俺の願いは、ずっと皆瀬と……仲良くできますように」
壮真の前髪がさらさらと落ちて瞳を隠したが、その直前、薄茶の瞳は心細そうに揺れていた。未来は「うん」と頷く。
「皆瀬未来は――」
「ミナミクっ!」
壮真の願い事を読み上げようとしたとき、頭上から陸の声が響いた。慌てたような声だ。
けれども、未来の言葉は止まらない。
「星壮真とずっと仲良くしますっ!」
一瞬、静けさが裏庭を包んだ。桜の木だけがそろそろと揺れる。
大きな右手が乗せられた未来の両手にさらに左手が触れ、その手を開かせた。未来の手のひらに乗る花びらを摘まみ上げて、壮真が微笑む。
「ありがとう」
未来が笑顔で返し、そしてふたりで2階の渡り廊下を見上げた。
「も……もうホームルーム始まるぞ」
陸はそれだけ言って、窓を閉めてしまった。未来は慌ててスマホを取り出す。
「げっ、もうそんな時間?」
「え。皆瀬、そのゲーム」
ロックを解除したスマホは、電車の中でポチポチといじっていたゲームを表示したままだ。親友に勧められて始めた女性向けのスマホアプリゲーム。ゲーム内の壁紙は推しキャラを設定してある。
ホームボタンを押そうと慌てた未来の指は、ゲーム画面をタップしてしまった。
『おはよう、早起きだね。ぼくはもう少し寝ていたいな……』
時間毎に変わるキャラボイスが流れる。
「あっ、あのっ、こっ、これは」
壮真の声に少し似ている気がして推しているのだなどと、言えるわけもなく。
前髪を整えて瞳をすっかり隠した壮真がマスクをおろして未来の耳に口元を寄せた。
「ぼくももう少し寝ていたいな」
「へぁっ! えっ、星く――」
それはゲームのキャラとそっくりな声だ。なんと答えればいいのかわからないまま、未来は目をしばたたかせる。
「こんなのもできるよ。『ふわふわ舞う桜の花びらを空中でつかまえられたら願いが叶うんだ!』ってね。どう?」
「それ! えっ、嘘!」
もう幻となってしまったウェブアニメの端役の声だ。このセリフを聞くことはほぼ不可能なはずだった。だが未来の目の前には、中の人がいる。
「俺と皆瀬だけの秘密な」
未来は壊れた赤べこのように何度も頷き続ける。壮真はそんな未来の手をとって歩き出した。
ずっと壮真のことが気になっていたのは、約束を守れなかったからとか、拒絶されたからとか、そんな風に考えていた。若しくは、あの薄茶色の瞳に一目惚れしてしまったのかもしれない、とか。
でもそうではなくて――。
「一聴き惚れだったのかも」
「何か言った?」
「なんでもない! ね、教室まで競争しよ」
「やだ。遅刻してもいいからゆっくり話しながら行こう」
クラス分けの表が張り出されている校門を入ってすぐの広場も、新入生の姿はすでにない。教室へ入ったらまた口を噤んでしまうであろう壮真と、ゆっくり話せるのはこの時間だけなのかもしれない。
「星くんが学校来るときは、」
「そうま」
「そ、壮真くん、が学校来るときは、朝と放課後にお喋りしよう。お昼休みも」
「昼はいいよ、友達と過ごしな。その代わり、ずっと仲良くしてもらうから」
差し出された花びらをハンカチに挟んで、未来は大切にそれをカバンにしまった。