第71話 時代劇の嘘と、サラブレッド
今回は、ほとんど競馬とは関係ない話です。
実は、私は大学で日本史を勉強していたので、日本史について興味があるのですが。
よく時代劇に出てくる「馬」。実際にはあれはほとんど「嘘」で、あんなに大きくありません。
これは、日本にも中国にも西洋にも言えることらしいのですが、サラブレッドの体高(肩までの高さ)は、160~170センチ程度と言われています。
これに対して、日本古来の馬や西洋の同時期(中世から近世)の馬の体高は、大体120センチ前後。
つまり、今で言えば「ポニー」みたいな可愛くて、小さな馬に跨っていたのが正しいのです。
日本の馬産地としては、木曽が一番有名でしたが、そこの馬自体が小柄な物なのです。(他にも各地に馬産地はありましたが同様)
織田信長も、ナポレオンも、そんな小さな馬に乗っていたと考えると、なんだか可愛いですが、当時の日本人の平均身長が150センチくらいなので、むしろ体格に合っていたのかもしれません。(ナポレオンは169センチ)
サラブレッド自体が、18世紀初頭にイギリスでアラブ馬やハンター(狩猟に用いられたイギリス在来の品種)などから競走用に品種改良された軽種馬なのです。
では、日本においてサラブレッドが入ってきたのはいつか?
これを調べるとなかなか深くて、面白い事実がわかります。
海外から日本に入ってきた馬で、一番古い記録は、1863年に、フランス皇帝ナポレオン3世から、江戸幕府13代将軍の徳川家茂に贈呈された26頭の駿馬がいます。
このときの1頭である牝馬の高砂が吾妻という馬を産みます。その吾妻の子孫は明治全期を通じて大いに繁栄し、13頭の帝室御賞典競走(現在の天皇賞の前身)の勝ち馬を出したほか、1955年の最良アラブに選出されたタツトモや1999年NARアラブ系最優秀3歳馬ハッコーディオスをはじめ昭和、平成の時代も活躍馬を輩出し、現在でも地方競馬の重賞勝馬を出しています。
しかしながら26頭のうちのほとんどは、間もなく戊辰戦争になり、その後は明治政府関係者が私物化してしまい、国産馬の改良には寄与しなかったと言われています。
明治時代に入り、北海道や青森県を中心に牧場が出来ます。これらの牧場では、乳牛・肉牛・綿羊・肉豚などと並び、乗用馬、貨車用馬、農耕馬など様々な目的で様々な品種の馬が輸入され、血統のはっきりしない在来種、洋種、または血統のはっきりしているアラブ、アングロノルマン、アングロアラブ、ギドラン、ハクニー、トロッターらに混じって、かろうじてサラブレッドが繋養されているといった状態で、これらの交配によって雑種も生産されました。
この時代にはサラブレッド種牡馬・種牝馬の数が絶対的に不足していたこともあり、競走用のサラブレッドの生産が本格化するのはもう少し先のことで、様々な種の雑種の生産や育成を通じて西洋式の馬産の方法技術を模索していた時期だったようです。
体系的な馬産が開始されるのは明治中期のこと。1894年の日清戦争、1899年の義和団の乱、1904年の日露戦争に際し、大日本帝国陸軍は軍馬として在来種を中心とした日本産馬を大陸に連れて行き、西洋の馬との差を痛感することになります。
義和団の乱後の北京では、駐屯する西洋列強の軍馬に比べ、日本産の馬は馬力、速度、持久力など全てにおいて著しく劣っていることが明らかになります。
列強の馬に比べると日本産馬は20センチほど体高が低く、走らせると1分で180メートルも引き離されるほど。性質も悪く、日本産馬は集めて繋ぐと暴れ、物資を運ばせれば転倒し、大砲を運ばせれば動きが鈍く、騎手の指示に従わず、牝馬を見れば発情し、銃声に驚いて逃げ出す有様で、西洋列強の軍隊との共同作戦において隊列を乱したり行軍を遅らせたりと列国に多大な迷惑を与え、西洋からは「日本の馬は猛獣か」とか「日本の騎兵は馬の一種に乗っている」と嘲笑されたそうです。
そこで、慌てた軍部は日英同盟を頼って濠州からサラブレッド牝馬を大量輸入しますが、これらの馬は結局、戦場には連れて行かれず、民間に払い下げられました。
日露戦争の陸戦では日本側の人的損失は甚だしく、戦後の国内世論は西洋並みの優秀な軍馬を育成することが急務であるとされ、やがてそれが明治天皇の知るところとなります。
1904年に政府内に馬政調査会が設置されて国内各地に官営の種畜場が開設されていましたが、馬術への関心が元々強かった明治天皇は元老・伊藤博文に馬匹改良を命じます。
1906年には第一次桂太郎内閣直属の馬匹改良を目的とした馬政局が設立、農商務・外務・大蔵・逓信大臣を歴任した曽根荒助男爵が馬政局長官に任命され、軍馬改良を柱とする馬政30年計画が上奏されます。
この馬政局は奨励する種馬の種類として、軽種にサラブレッド、中間種にハクニー、重種にペルシュロンを指定し、これを補うものとしてギドラン、アングロアラブとアングロノルマンを選定します。
そして、ようやくサラブレッドが出てきますが。
最初の問いの答え。日本で最初のサラブレッドと呼ばれるのは、インタグリオー(1899~1922年)と言われています。
岩手県の小岩井牧場が1907年、種牡馬インタグリオーと種牝馬20頭をイギリスから輸入し、本格的なサラブレッド生産に着手したと言われています。このとき小岩井農場に輸入された種牝馬のうち、ビューチフルドリーマー、フロリースカップ、アストニシメント、プロポンチスなどの子は特に優秀で、これらの小岩井農場の基礎輸入牝馬の子孫は現在にまで連なる繁栄を示しています。
そのインタグリオーの子の、レッドサイモンが日本史上初めて内国産馬として外国産馬に勝ち、帝室御賞典を2勝してます。この帝室御賞典を2回勝利する競走馬が次に現れるのは、実にそれから80年以上後の1988年のタマモクロスなのです。(1981年までは勝ち抜け制度により天皇賞を一度勝つと、二度と天皇賞には出走できなかったため)。
また、インタグリオーの産駒は1912年のデビュー以来の4年間で、帝室御賞典を4勝、優勝内国産馬連合競走(年2回)を5勝して当時の大競走を勝ちまくってます。優勝内国産馬連合競走は一生に1回しか出られないため、この勝利回数は驚異でした。
この時期に生産されたインタグリオー産駒が競走年齢に達して競馬場に現れると再び活躍し、20勝のペットレルやクヰンマリーが帝室御賞典や優勝内国産馬連合競走を制してます。
これを受けて国営の奥羽種畜牧場では1906年に濠州産馬128頭を輸入し、翌年にはインフォーメーションなどの種牡馬を導入してます。
宮内省管轄の下総御料牧場(千葉県)は1907年にブラマンテー、サッパーダンスなどサラブレッド種牡馬4頭をイギリスから輸入すると共に、雑種の繋養馬を売却処分してます。
ということで、現在のサラブレッドの繁栄に繋がりますが。
最後に、現在のサラブレッドの年間生産数を見ましょう。(2018年のデータ)
1位 アメリカ 19925頭
2位 オーストラリア 13016頭
3位 アイルランド 9569頭
4位 日本 7242頭
5位 アルゼンチン 7125頭
となっています。ちなみに、凱旋門賞で有名なフランスは、5575頭。ダービーで有名なイギリスは、4826頭。
つまり、今では競馬の本場や発祥地より、日本やアメリカ、オーストラリアの方が上なのです。
今回はここまで。少し堅苦しい勉強会になりました。