第66話 地方競馬に光を
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ホームページやYou Tubeで発信している人の情報を見ると、今回から「地方にスポットを当てる」的な内容に感じる(ダート三冠追加など)ので、それでは地方競馬について、ちょっとだけ語ります。
地方競馬の中でも、特に個人的に「ウマ娘」にも恐らく出てないこの馬に注目。
トウケイニセイ
1990年代初頭に地方、というより岩手を賑わせた、通称「岩手の魔王」。
トウケイニセイの名の由来は、父が「トウケイホープ」と呼ばれる馬だったため。
父も同じく岩手競馬で活躍しました。
とにかく地方、岩手競馬ではめちゃくちゃ強かった。ただし、彼は全然、遠征をしなかったので、有名なのは本当に地方だけ。
なので、当時、中央競馬界では全然有名ではなかったのです。
その彼。実は体が弱く、2歳9月のデビュー戦を楽勝するんですが、その直後に左脚前に屈腱炎を発症。
いきなり1年7ヶ月の長期休養を余儀なくされました。この屈腱炎は結局、完治せず、運動したらすぐに氷で冷やさなければならないような状況が現役生活を通して続いたそうです。
復帰して、屈腱炎をだましだましのレース生活がスタートします。すると相手関係の軽いところを選んでいるとはいえ連勝がスタート。
そして、勝つわ勝つわの18連勝。これは当時の日本記録でした。しかしながら、一度も重賞には使わない上、体調面から強い調教も掛けられず。連勝が止まって、陣営はようやく重賞を目指してトウケイニセイを鍛え始めます。
迎えたみちのく大賞典。ここには「岩手の怪物」と言われた、スイフトセイダイとグレートホープ、後に生涯のライバルとなるモリユウプリンスが出走してきていました。
しかし終わってみるとレースは圧勝のレコード勝ち。トウケイニセイはここに来てようやく岩手競馬の頂点に上り詰めます。
それから先はもう「岩手競馬=トウケイニセイ」といった感じでした。みちのく大賞典以来18戦して負けたのは2着が2回あるのみ(勝ったのはライバルのモリユウプリンス)。
正に無敵でした。「魔王」トウケイニセイの名は東北中に鳴り響きました。
ただし、前述したように、全国的な知名度はまったく無かったのです。
なにしろトウケイニセイは遠征をほとんどしなかったためです。東北サラブレッド大賞典のために新潟と上山(山形県)に行ったのみ。元々、足元に爆弾を抱えた馬だったので、慣れない馬場を走らせたくなかったということ、環境の変化に敏感な馬であったということが理由としてはあったらしいです。
もちろん、You Tubeどころか、インターネットすらない時代。コアな競馬ファンしか知らなかったのです。
しかし、1995年。いわゆる交流元年。水沢のマイルチャンピオンシップ南部杯が交流競争になり、そこに当時の中央ダート王、ライブリマウントが出走してきます。
当然、トウケイニセイも迎え撃ちます。中央の王者と地元の英雄の対決に岩手県中が沸きかえり、水沢競馬場には大観衆が押し寄せました。
しかしレースでは、直線で抜け出すライブリマウントと高崎のヨシノキングにトウケイニセイは付いて行けず、完敗の3着。ゴールの瞬間、水沢競馬場は異様な沈黙に包まれ、勝ったライブリマウントには拍手一つ飛ばない有様だったそうです。
菅原勲騎手は「トウケイニセイが後1歳若い頃にこのレースがあれば」と悔しがったそうです。なにしろこの時トウケイニセイは9歳(現在の8歳)だったのです。
連対記録は41でストップ。ですが、確かこの連対記録はいまだに破られていない日本記録だったと思います。この時、一つの伝説が終わりを告げました。
トウケイニセイはこの後、引退レースの桐花賞を勝って有終の美を飾ります。通算39勝。
最近、やってないので、忘れてますが、確か「ウマ娘」には「ホッコータルマエ」は出てたと思いますが、そのホッコータルマエ以上に、地方で、というより「岩手」で勝ちまくった馬ですね。
地方競馬で活躍した馬は、他にもいっぱいいますが、個人的に印象に残っている馬です。(年齢的にリアルタイムでは全然見てませんが)