〈40〉借りは返す
――その数日後。
何かを企んでいるハリエットからお呼びがかかった。アーヴァインを連れてこいとのことだ。
急な呼び出しではあったけれど、アーヴァインはなんとか都合をつけてきてくれた。
ハリエットの家の家令が部屋に通してくれたが、ハリエット自身はちっとっも顔を出さなかった。そして、結構待たされた。
アーヴァインは出された紅茶も茶菓子も何もかも手をつけようとしない。未だにハリエットを警戒しているらしかった。
オーレリアは、高級な茶葉で淹れられた紅茶を堪能していた。部屋の中で控えていた有能そうなメイドが、ニコニコとオーレリアたちを見守っている。
「遅いね」
ポツリと言うと、隣の部屋の扉がパタンと閉まった音がした。
誰かいるらしい。ハリエットか。
――声が聞こえる。
「ようこそ我が家へ。来て頂けて嬉しいわ」
ハリエットの取り澄ました余所行きの声がする。
「ブリンクリー侯爵家の御令嬢直々のお声がけですもの。商人とあらば、どんな者も喜んでお伺い致しますわ」
どこか媚びを含んだ甘い声。
商人と。まさか――。
向かいに座るアーヴァインを見遣ると、顔つきが厳しく変わっていた。どうやらブリジット・ワドルに間違いないらしい。
これは盗み聞きをしてはいけない状況ではない。むしろ盗み聞きをするためにセッティングされている。
オーレリアは堂々と息をひそめて耳に意識を集中した。
「ハリエット様は薔薇の花も霞むほどお美しいと聞き及んでおりましたが、お会いしてみて噂した方の気持ちがよくわかりました。私などの器量では、こうしているだけでとても恥ずかしく感じてしまいます」
さすが商人。お世辞が上手い。
とはいえ、ハリエットは一筋縄ではいかないひねくれ令嬢である。表向きだけは完璧なのだが。
ハリエットはでっかい猫を被り、フフッ、と上品な笑い声を立てている。
「まあ、お上手だこと。でも、あなたはとても魅力的だわ。どんな殿方もあなたの虜になるのでしょうね」
「いいえ、まさか。私なんてとても」
謙遜しながらも、どこか声が得意げだった。
ハリエットの方がおだて上手なようだ。
そこでふと、隣室の空気が変わったような気がした。
「では商談を始めましょうか」
ハリエットが落ち着いた声で切り出す。
「ええ、よろしければ」
そこで少し間を置き、ハリエットは言った。
「あなた、コーベット商会会長のお子様方をご存じ?」
いきなりハリエットがそんなことを言うから、ブリジットが戸惑っている気がした。
「え、ええ。コーベット商会は大手ですから。もちろん、うちとは格が違いますし、直接の知り合いというわけではありませんが」
「あらそう。私ね、あのご兄妹には恨みがあるの」
え――っ、と叫びたくなったが、我慢した。これはハリエットの演技なのだと自分に言い聞かせる。
兄については知らないが、オーレリアはもう友達のつもりだから。
「……でも、近頃仲睦まじくされておいでだと伺っておりますが?」
ブリジットもそんなに簡単には罠にはまらない。ちゃんと下調べをしてきているようだ。
アーヴァインも真剣な顔をして話の続きを待っている。
「あれを仲良くと受け取れる方は底が浅いのよ。私は敵になりそうな人間は、まず近づいてみてしっかり見極めているの。出る杭は打たないと」
きっと、にっこり綺麗に笑ってこれを言っているんだろうなと思えた。
「あ、あの、商談は……」
「これが商談の始まりなのよ。私、あのご兄妹が困っているところを見たいの。ねえ、あなたならオーレリア嬢の婚約者のアーヴァイン・ウィンター中尉を誘惑できないかしら?」
これが聞こえた時、アーヴァインの顔が死んでいた。
「それは、その……私には到底出来かねます」
ブリジットからは案外まともな返事が返ってきた。
そりゃあそうだろうとは思う。ハリエットは一体何を企んでいるのだろう。
「ねえ、もし首尾よく行ったら、うちの領地で運営する事業のいくつかの取引先をワドル商会に変えてもらえるようにお父様に取りなすわ。私の婚約者の方にもね。あなたみたいに優秀な方がいれば今後も安心だもの」
「で、でも……」
とても渋っている。
この話には裏があると思うのか、それともアーヴァインが手強いのを知っているからか。
なかなかうんとは言わない。
ブリジットがいつまでも戸惑っていると、ハリエットは痺れを切らしたようにして言った。
「あなた、ヴィンス・マドック氏といい仲だったんでしょう? 上手くいけば伯爵夫人だったのに、当てが外れてがっかりしているのではないの? ウィンター中尉はもっと上等な獲物よね」
これを言われた時、ブリジットが立ち上がったようだった。
「いえ、私はそんな方とはなんの関りもございません! 私を陥れようと悪評を撒いた人たちがいるだけです!」
そう簡単にマドックとの繋がりは認めないらしい。
けれど、ハリエットの笑い声は本当に楽しそうに聞こえた。
「あら、そうなの? ごめんなさいね。私、その噂を信じてしまったわ。……でも、そうよね。よく考えたら、無爵位の商人の娘が伯爵夫人にって、かなり突飛な話だものね。余程惚れ込まれていない限り、難しいでしょうね」
「……っ」
「私の見込み違いね。いいわ、この話はなかったことにしましょう。だって、無理だものね。あの計算高いマドック氏が惚れ込むくらいの女性なら、さぞ抗いがたい魅力があるのだと思ったのに」
ハリエットの毒舌が止まらない。本当に、一度上げて落とし始めた。一体どうしたいのだろう。
ブリジットは黙っている。きっと、顔を真っ赤にして恥辱に耐えている。
「あなたも知っているでしょう? オーレリア嬢は、まあ見た目は結構な美人だもの。若くて美しい彼女から婚約者を奪うなんて、劣っている女には無理よね。マドック氏にさえ見向きもされなかったのなら、ウィンター中尉なんて到底無理だわ」
すごいこと言うな、と感心してしまうほど、ハリエットはベラベラと続けた。
ブリジットは最低限の礼を取って立ち去るかと思ったのだが――。
「劣っているですって? 私があんな小娘に! ヴィンスは、そうよ、私にぞっこんで言いなりだったわ。でも、私の方が捨てたのよ。だって、本物のポルテス伯の血筋の跡取りが見つかったのよ? 養子になれるか怪しい男になんてもう価値がないじゃない! 彼が何を喋ろうと、私は全部フラれた逆恨みで陥れられそうな可哀想な女で通すの! ポルテス伯夫人にはなるわ。そうね、ヴィンスより彼の方が好みだし――っ」
――ラルフが狙われているようだ。
ブリジットが自分を見限り、ラルフに鞍替えしそうになったから、マドックはラルフを始末しに来たのだ。怖い話である。
オーレリアが呆然としている横を通り、アーヴァインはノックひとつせずに隣室の部屋の扉を開けた。
ブリジットの悲鳴が轟いたが、アーヴァインは涼しげな声で告げる。
「もっと詳しい話を聞かせてもらおうか。――ああ、誘惑されるつもりはないが」
「あら、アーヴァイン様。うちの紅茶はお気に召しました?」
なんてことを言って笑っているハリエットは、やっぱり性格が悪い。けれど、今回はとても助けられた。
オーレリアが顔を出すと、ブリジットはもう蒼白だった。薔薇の香水の匂いが漂っている。
「ハリエット、ありがとう」
「よろしくてよ。私たち、友達ですもの」
「頼もしい友達がいてよかったよ」
本当に、二度と敵に回したくない令嬢だけれど、味方だととても強い。
オーレリアは何とも言えず笑ってしまった。
「なっ、何よ! あんたなんて、家が裕福じゃなかったら誰も相手にしないんだから!」
ブリジットがオーレリアをキッと睨みつけて吐き捨てる。
「それってさ、あんたが裕福じゃない人は相手にしないってだけだよな? 残念だね。貧乏でも面白いヤツがいっぱいいるのにさ」
「何よそれ! 馬鹿にしてっ!」
「馬鹿になんてしてないよ。だって、あたしが婚約者と友達を選んだ基準はそこじゃないし。本人たちが面白いからだ」
本音で語ったつもりなのに、ブリジットはまだ馬鹿にされていると思うのか、顔を真っ赤に染め上げた。
そんなやり取りに、ハリエットが堪えきれずといった調子で笑い、アーヴァインも苦笑していた。
だからか、ブリジットはなんと言っているのか聞き取れないような感情的な声を上げたけれど、彼女の運命はそれくらいでは変わらなかった。




