〈38〉スッキリしない
「――だけど、スッキリしないよな」
解散してから、オーレリアは集会所の外でアーヴァインにぼやいた。
「それは、ブリジット・ワドルのことか?」
さすがにアーヴァインはよくわかっている。
「そうだよ。証拠がそろってないって言うけど、散々引っ掻き回してまったくお咎めなしってのもどうなのさ?」
それを言うと、アーヴァインは苦い顔をした。
「それに関しては、ちゃんと順序立ててどうにか対処する」
けれど、軍人たちは大半が男なわけだからあっさり丸め込まれそうだなと思った。
オーレリアが何かを考えたのがわかったのか、アーヴァインが先回りをしてきた。
「お前は下手に動くな。家に戻って大人しく行儀作法を習って待て」
「それな。やるけど」
「けど、は要らない」
ピシリと言われた。
「うーん……」
この時、わふぅ、とガルムの鳴き声がした。ガルムはエリノアが大変気に入ったようでデレデレしていたが、アーヴァインと目が合うと気を引き締めたようだ。
賢いガルムは侮れない相手を瞬時に嗅ぎ分ける。
コリンはガルムからちょっと距離を保って待っていた。
そんなコリンにアーヴァインはどこか優しい微笑を向け、小さくうなずいてからオーレリアに言った。
「俺はまだラティマーでやることがあるから帰れないが、今度こそ大人しくしてろよ」
「へぇい」
渋々返事をすると、エリノアが可憐にクスクスと笑っていた。
この時、父が会話に割って入る。
「さて、お前たち。帰る支度をしなさい。じきに馬車が出る」
「えっ? 今日?」
「そうだ。日が暮れてしまう前にある程度進んでおこう」
もちろん帰るつもりではあるけれど、あまりにも急でびっくりした。
けれど、思えば不測の事態が起こりすぎただけで、本来はこんなに入り浸る予定ではなかった。長く居すぎたくらいだ。
ただ――別れがつらいなと思った。
ここへ来た時はこんな気持ちになるなんて少しも思わなかったのに。
「じゃあ、俺ももう行く」
「うん、気をつけて」
アーヴァインは一度オーレリアの手を握り、離した。それがどこか名残惜しそうに見えて少し嬉しい。
ただ、アーヴァインは去り際に一度ラルフを見て、そして妙に厳しい目をした。
まさか、威嚇したのだろうか。ラルフはちょっと戸惑っている。
あとどれくらいでアーヴァインの出張は終わるのだろう。
長引けば三月と言っていたけれど、ポルテス伯やマドックが尻尾を出した以上、案外早く終わるのかもしれない。
ゆっくりと落ち着いて会える日を待とう、と部下たちのもとへ歩いていくアーヴァインの背中を見送った。
「オーレリア、荷物はそれほどないだろう?」
兄がそう問いかけてきた。何気にエリノアとぴったりくっついている。
「うん」
「忘れ物をしないように」
ジョージやアネリには特別世話になったから、ちゃんと別れの挨拶をしたい。
そこでオーレリアはハッとした。
「あっ! 忘れ物!」
正確には忘れ物ではなく、心残りだ。
まだそこにいたキンブルやジョージに勢いよく顔を向けて言う。
「なあ、最後に酒蔵に入ってみたいんだ! いいだろ、キンブルさん?」
アトウッドに行きたいと思った最大の理由がそれだった。
たっぷりのワインで満たされた酒樽が眠る酒蔵に入ってみたかった。アストリーの倉庫には酒樽はたくさんあったけれど、それとはまた違う。たくさんの樽が並ぶ絶景を見ずにアトウッドを去ったのでは絶対に後悔する。
キンブルは何故オーレリアがそんなことを言い出すのかと戸惑っていたが、隣にいたジョージに振った。
「本来、一般人は立ち入り禁止なんだが。ジョージ、あんたが決めてくれ」
「いや、キンブルさんが組合長なんだから……」
「だから、組合長の座をジョージに譲る」
「えぇっ」
「ワシは今回のことで皆がワシを咎めずとも、自分で自分を許すことはできん。到底、今まで通りとはいかんよ。ただ、完全に退くのもまた無責任だ。だから、ワシは今後ジョージの補佐をしてアトウッドを盛り立てていこう」
ブリジットの色香に負けてあっさりとコーベットを見限ったので、オーレリアはキンブルがそれを言い出した時にちょっと笑ってしまった。
「あ、うん。ジョージさんが適任」
「……そこは嘘でももうちょっと惜しんでやるところじゃないか?」
ラルフにボソリと言われたが、まあいい。
キンブルは顔をしかめながらも続ける。
「ジョージは気が優しすぎて交渉では舐められるからな。そういう時にはワシがついていてやる」
「ああ、そういう時は性格悪い方がいいよな」
フォローしたつもりが、少し外したらしい。場が静かになってしまった。
しかし、キンブルにとってオーレリアは命の恩人なのだ。コホンとひとつ咳をして許してくれた。
「ジョージよ、今回くらいはいいのではないか?」
ジョージはクスクスと笑う。
「ええ、そうですね。オーレリアさんにはとてもお世話になりましたから」
「やった!」
手放しで喜ぶオーレリアにコリンもついていこうとしたが、コリンは断られてしまった。子供は駄目だと。
アトウッドの酒蔵には、オーレリアが生まれるよりもっと前のワインも眠っているのだという。
当たり年の『至高の雫』はたった一本でもこの前の一ダースに匹敵する値段らしい。
キンブル、ジョージ、ラルフとオーレリアは酒蔵に向かった。
兄がついてこなかったのは、エリノアしか見ていなかったからだ。あの二人は完全にその他が目に入らなくなっている。
「あー! 樽がー! 樽だらけだー!!」
あまりの絶景に言葉が出ない。バカみたいなことを口走っていた。
アトウッドの酒蔵は樽がぎっしりと詰め込まれていた。立ててあるよりも横に寝かせてある方が多いかもしれない。
奥の奥までワインが詰まった樽が並んでいるのだ。かぐわしいワインの匂いに樽の木の匂いが混ざり、夢見心地だった。
いろんなことがあったけれど、ここに来れてよかった。普通に来ただけでは入れてくれなかっただろうから。
「これであんたの心残りはなくなったのか?」
ラルフがオーレリアの横顔に向けて言った。
「ここでできることは終わったよ」
「そうか」
短く言って、ラルフは黙った。
この先、ラルフはどう生きていくのだろう。
ラルフの人生で先にある道はどちらを選ぶかで大きく行き先を変える。
何を選ぶのもいい。当人が後悔しなければ。
酒蔵から出ると、皆が待っていた。
オーレリアに別れの寂しさが押し寄せてくる。
「寂しい」
ポツリとつぶやき、駆け寄ってしゃがみ込んだ。
「別れるのがつらいよ。なあ、ガルム」
わふぅぅ。
ガルムも別れの時が来たことを知った。
驚き、瞬いている。
オーレリアはそのまんまるな体を抱き締め、目に涙を溜めて頬ずりした。
「いっぱいありがとな。また会おうな」
わふうぅぅ。
切ない鳴き声だ。ガルムも別れを惜しんでくれる。
ラルフが、そっちかとぼやいていたけれど。
オーレリアが支度を終え、アネリにも挨拶を済ませて馬車に乗り込むと、ガルムは小さな耳を垂れていた。
そして、馬車が走り出す。ガルムはアトウッドの道が切れるまで、一生懸命馬車を追いかけてきてくれた。
最後までガルムのわふぅぅという遠吠えが聞こえ、オーレリアは胸が絞めつけられた。
「ガルム……っ」
「いや、犬だからね?」
と兄が突っ込んできた。
犬を相手に大げさだと言いたいのだろうか。犬とだって友情は成立するのに。




