〈37〉集会所にて
――正直に言うと、ちょっと忘れていた。
都からの馬車がアトウッドに到着した時、兄の身代金になるワインの代金を持った誰かが来たのだと思い出した。
兄は伝書鳩を使わせてもらって、自分の無事を報せる手紙を飛ばしたと言ったけれど、馬車が出発したのはそれよりも前のことなのだ。馬車に乗っている人物は兄の無事を知らない。
馬車を護送するのは雇われた傭兵たちだろうか。結構物々しかった。
「父さんかな」
「どうだろう?」
兄は苦笑している。
アトウッドの人々は自分たちが取った態度のために、使者とどう接するべきかと戦々恐々していた。まあ、キンブルに関してはブリジットの色香に負けたとあっては自業自得ではある。
オーレリアとコリンとアーヴァインは、馬車に近づいていく兄を見守っていた。ラルフとトンプソン夫妻、キンブルはやや遠巻きだ。
コーベット家の御者が無事な兄の姿を見て感涙していて、兄はそんな御者を労っていた。馬車の扉が外から開かれると、そこから飛び出してきたのは――エリノアだった。
「ユリシーズ様!」
いつもの楚々とした妖精のような彼女ではなく、顔を紙のように白くして悲愴な面持ちだった。
淑女としてのマナーなどはかなぐり捨て、兄の首に飛びついて号泣した。
「ごめん、心配かけたね」
兄はエリノアを抱き締めて囁くけれど、エリノアはろくに口が利けないほど泣きじゃくっている。可愛い。
そこでアーヴァインにひと言ボソリと言われた。
「安心しろ。お前にああいうのは期待していないから」
「ああ、そりゃあ助かる」
あんな可愛くできない。アーヴァインがもし誘拐される日が来たら、敵地に乗り込む方が性に合っている。
涙の再会をしている二人の後ろから父が降りてきた。
「あっ、父さん」
コーベットの会長が直々にやってきた。
アトウッドの面々は蒼白である。
父はとにかく、無事な子供たちを見てほっとしたようだ。
「私たちがここへ着く前に事態が動いたようだね。詳しく話を聞かせてくれるかい?」
にこり、と柔和な笑みを浮かべているのはさすがだった。
コーベットの会長を通したのは、アトウッドの集会所だった。
そこはワインを寝かせてある倉庫のそばの一室であって、ワインの香りがプンプンしてオーレリアは無駄にテンションが上がった。
キンブルにジョージ、それからアトウッド酒造組合の役員が他に三人。そこに兄とオーレリアとアーヴァインが加わる。そして、ラルフも。
皆が情報を出し合った。
父の所作ひとつひとつにアトウッドの面々がビクついている。
「――なるほど。今回の誘拐も悪評もアトウッドの利権を得んとした人々によるところだと」
ため息をつきながら父が言う。
そこで発言したのはアーヴァインだった。
「ポルテス伯にも事情を訊ねるべく拘束しています。実は、我々が今回ラティマー方面へ向かったのは、隣国への牽制ばかりが目的ではなく、ポルテス伯に不審な動きがあるという情報からでした」
「不審な動き?」
「ええ。ポルテス伯が隣国へ物資の横流しをしているという情報です。アトウッドワインは国内でも需要が高く、国外でも評価されている代物ですから、先方からの希望もあったことでしょう。ポルテス伯はなるべく多くのアトウッドワインを手に入れたかったようです」
結局のところは金が絡むのかと、オーレリアはげんなりした。
それでも話は終わらない。
「先代ポルテス伯の時から仕えている家令が密かに色々なことを教えてくれました。先代ポルテス伯の子息は、事故に巻き込まれて怪我こそしましたが生きていたそうです。しかし、その子供を狙っている人々がいることを察していた家令は密かにその子を逃がしたと言っていました」
それがラルフだということか。
現ポルテス伯の裏事情を軍に漏らしていたのはこの家令なのだろうか。
どうしていつまでも伯爵家に残って仕え続けていたのか、それが不思議ではあるけれど。
考えられることといえば、それでも代々仕えていた屋敷を捨てられなかったか、不当な主の手に渡った家をいつか正当な主が取り戻すのを見届けたかったのか――。
ラルフはずっと黙っていた。
ジョージの手前、何も言いたくなかったのだろうか。
「とにかく、アトウッドの自治は保たれたわけだから一件落着ということでいいのかな? うちの息子も娘も無事のようだし」
父は笑っている。顔で笑っていても怒っているかもしれないと皆が恐れていた。
「これまでお世話になってきたというのに、我々はとんでもない不義理を働きました。どうお詫びしてよいか、言葉もございません」
キンブルが頭髪の薄い頭を下げると、皆がそろって頭を下げた。ジョージは下げなくていいと思うけれど。
でも、父がどうするつもりかなんてことはわかりきっていた。
「では、これまで通りのおつき合いをして頂けるということでよろしいかな?」
反省している人たちを責め立てるようなことはしない。そういう懐の広さが好きだ。
まったく似ていないコーベットの父とアドラムの親父だけれど、そういうところだけはどこか似ているのかもしれない。
「も、もちろんです! いえ、これまで以上に誠意を持って関係を築かせて頂きます!」
「そっかそっか。よかったねぇ、父さん」
オーレリアが軽く口を開くと、父は楽しげに声を立てて笑った。
「ああ、これで安心して帰れるよ。お前たちの無事な顔を早く母さんにも見せてやらないと」
『帰る』というひと言にラルフが少しだけ反応を見せたが、特に何も言わなかった。




