〈35〉無情な雨の中で
転がるように坂を降りてきたガルムは巨体でマドックに突進し、腕に食らいつこうとした。
しかし、マドックも軍人だけあって一筋縄ではいかない。とっさにガルムの牙を躱し、ガルムの腹を蹴り上げる。ブーツのつま先がガルムの毛に埋もれた。
あの毛がクッションになってダメージは少ないと思いたかったが、ガルムはきゃうん、と痛そうに声を上げた。
「オーレリア!」
兄の声が遠くから飛んできた。
でも、腕力はからっきしだから来ないでほしい。下手に巻き込んでもオーレリア自身がこの体たらくでは助けられない。
頭がグラグラする。それでも、立たないと。
冷たい地面に手を突いて、オーレリアは無情な雨の中でグッと足に力を込めた。柔らかい土に靴底が埋まる。
その時――。
黒い影がオーレリアの横をかすめた。
黒い影は素早く、ガルムに手こずるマドックに駆け寄ると、瞬時に背後を取った。マドックの首に腕を巻きつけて絞め落とす。
――アトウッドに、あんなアーヴァインみたいなのがいたんだな。
雨に打たれながら感心してしまった。
背も高く、すっきりとした鼻梁を雨が伝う。崩れ落ちたマドックを地面に放ると、濡れた髪を掻き上げた。
軍服まで着て、本当にそっくりだ。
そう思った辺りで後のことは覚えていない。
それからオーレリアはしばらく寝ていた。
起きた時、そばにいたのはベソベソと泣いているコリンだった。
「お? コリン、もう起きてもいいのかい?」
声をかけたら、自分の声があまりにもガラガラでびっくりした。もとからそれほど高くない声がさらにハスキーだ。
ちょっと面白いけれど、面白いと言っている場合でないことを思い出した。
「あ、姉御! お祓いしましょう! ここ最近、ろくな目に遭ってないじゃないですかっ」
「うーん、そうだなぁ」
とりあえず、オーレリアはベッドに寝転びながら手を伸ばしてコリンの頭を撫でてやった。
「なあ、あたしも何がなんだかよくわからないんだけど、あの軍人の男はどうした? あいつ、ラルフを狙ってたんだよ。ラルフは?」
すると、コリンはきょとんとして泣くのをやめた。
「ラルフさんですか? なんでまた? 全然無事ですよ。あの変質者はアーヴァイン様が連れていきましたし」
その名前にギクリとした。
「アーヴァイン、来てるんだ?」
「姉御、覚えてないんですか?」
「う……」
「姉御のことをここまで運んだのもアーヴァイン様ですよ。あ、着替えさせてくれたのはアネリさんですが」
「そっ、そこは訊いてないっ」
アーヴァインがいた。
それは間違いのないことらしい。
「そ、それで、アーヴァインは?」
「あのクズを連行しにいきました。また戻ってくるって言い残してましたけど」
「そ、そうなんだ」
一応、大人しく花嫁修業をする予定はしていた。それがちょっとばかり予定がズレて悲惨なことになり、しかもアーヴァインにそれを知られてしまった。
怒っているだろう。呆れているのはわかる。
でも――とオーレリアはモヤモヤした。
それでも、愛人は嫌だ、と。
続けて部屋に入ってきたのは兄とラルフだった。
「オーレリアをここへ連れてきたことを僕がどれだけ後悔しているかわかるかな?」
兄はしょんぼりと言って、オーレリアの額に手を当てた。
「あたしが勝手についてきたんだけどな。ごめん、兄さん。でも、大丈夫だから」
痛む喉でそれを言うと、兄は苦笑した。
「アーヴァイン、今も気が気じゃないんだよ。急いで戻ってくると思う」
「……怒ってた?」
「心配していたよ」
「うん……」
そこでふと、オーレリアは後方でぼうっと立っているラルフに目を向けた。
そして、コリンと兄に言う。
「あのさ、ちょっとラルフに話があるんだ。二人とも部屋の外で待ってておくれよ」
「へっ? 駄目ですよ」
サラリとコリンが断ってきた。すっかり元気そうだ。
しかし、兄はそんなコリンの肩を抱き、ぐいぐいと引っ張って訳知り顔で外へ出てくれた。気を利かせたよというように見えたけれど、別にそう個人的に深い意味があるわけではない。ラルフの出自に関するデリケートな話だから人払いした方がいいかと思っただけだ。
「あのさ」
オーレリアが切り出すと、ラルフは深々とため息をついた。
しかし、ラルフは難しい顔をしている。そして何を言い出すかと思えば――。
「あれがあんたの婚約者か」
「え? あ、ああ、会ったんだ?」
オーレリアは知らないが、二人は顔を合わせたようだ。
今はそんなことは関係ない。
「それはそうと、あの男はあんたを探してここへ来たんだ。あんたが先代ポルテス伯に生き写しだって、ワドル商会のブリジットが言ってたって」
そんな話は寝耳に水だったのだろう。ラルフはただ目を瞬かせた。
「ポルテス伯? まさか。俺がワドル商会のブリジット嬢と会ったのなんて精々一、二回程度だし」
それでも優れた商売人は一度会った人の顔は忘れないものなのかもしれない。
ブリジットはどうも男を味方につけることに長けているから、男の顔は覚えているだけだろうか。
「あいつ、ポルテス伯の養子になるのにあんたが出てくると邪魔だから消したいってほざいてた」
「冗談だろ……」
「大分イカれてたけど」
ラルフは黙った。
当人にとっては荒唐無稽な話でしかないのだ。
捨て子から貴族へ。そんな心構えはまだない。
その気持ちはオーレリアにもよくわかった。
今の暮らしに不満もなければ、急な出生の秘密なんて邪魔なだけだ。そんなものは要らない。今の暮らしを続けていたいと思うだけだろう。
幸い、ジョージもアネリも優しい。あの二人が親でいいのだと。
ラルフはポツリ、と零す。
「俺が表に出ていったら、俺は伯爵家の血筋ってことになるのか?」
「そうみたいだね。あんた、貴族になりたいのかい?」
意外だな、と思った。ラルフにそういう手の欲があるとは思わなかった。
ただ、ラルフはじっとオーレリアを見てつぶやく。
「あんたの婚約者、アーヴァイン・ウィンター中尉は伯爵家の後継ぎらしいな」
「そう、だけど」
「ポルテス家も伯爵位だ。俺も伯爵になるとしたら――」
何が言いたいのだろうと、オーレリアは普段以上に働かない頭で考えた。
けれど、すぐにラルフの方が諦めた。
「ま、可能性はないんだろうな。あんなのが相手じゃあな」
「可能性?」
ちっともわからないオーレリアに、ラルフは吹っ切れたのか笑っていた。
「あんたが婚約破棄して俺を選んでくれる可能性だ」
「……うーん、ないね」
「はっきり言うなよ」
苦笑されたが、こればかりは仕方ない。
「まあ、貴族になるのなんてまっぴらなんだけどな」
「そうだね、ワイン造ってる方がきっと楽しいよ」
「だよな」
そう言って笑ったラルフの心は、オーレリアに理解できるものではなかった。
多分、いろんな葛藤を抱え、これからも選択していくしかない。
そして、他人のオーレリアがそれに手を貸すことはない。深入りはできないのだ。
それでも、ラルフが納得のいく道を選べたらいいと心から思った。




