〈33〉悪化
帰ってから、あたたかい風呂に入らせてもらってちゃんと着替えたというのに、翌朝のオーレリアは寒気がしたのだった。
この感覚は久しぶり過ぎてすっかり忘れていたが、どうにも気のせいとは言い難い。
アトウッドは寒い。この寒さが葡萄を美味しくするのだとしても、人間には厳しいところだ。
海風に慣れていたオーレリアだが、それとはまた環境が違った。完全に油断していた。
しかし、体調不良を素直に認められないオーレリアである。何も問題などない顔をしてコリンと一緒に朝食を無理やり押し込む。この時も外は雨だった。
「雨、ひどいな」
オーレリアがぽつりと言うと、アネリが眉を下げた。ジョージはキンブルたちと会合があるとのことで朝からいない。
「この地方では、一度降り始めるとなかなか止まないこともあるんですよ」
「それは葡萄にとっていいこと?」
「悪いことです。雨で収穫の時期をずらすことになったら、出来も最良とは言えません。かといって、雨の中で無理やり収穫すると葡萄も雨に濡れていますし、何よりずぶ濡れになった人間が肺炎になってしまったり、散々です」
「そうだよな。早く止むといいけど」
こちらに向かっていると思われる父たちのことも心配だった。無理をして馬車を走らせて道が滑らないといいけれど。
この時、横にいたコリンの様子がおかしいことに気づいた。ぼーっとしているのだ。
「コリン?」
顔が赤い。これはまさか――。
「なあ、コリン。熱っぽいとか言わないよな?」
「そ、そんなことはっ!」
と言いながらも涙目である。
この場合、多分オーレリアのせいと言えるのだろう。昨日は散々つき合わせてしまったから。
「ごめんな、コリン。昨日、寒かったよな」
「違います、僕、なんともありません!」
強がりを言うのは、オーレリアが気に病むからだろう。それがかえって申し訳ない気分にさせる。
「アネリさん、コリンの具合が悪いんだ。ベッドに寝かせてやりたいんだけど」
朝食の片づけをしていたアネリに声をかけると、アネリは手を拭きながら戻ってきた。
「あら、それはいけませんね」
「あたしが使ってるベッドに寝かせるよ」
「はい、風邪でしょうか? 薬をもらってきましょう」
「うん、ありがとう」
うにゃうにゃと何かつぶやきながら抵抗するコリンを半ば強引にベッドまで連れていって寝かせた。
コリンが真剣に泣いている。
「こんな大事な時に、僕……っ」
「ああ、泣くなよ。いいからゆっくり休みな」
べそをかくコリンに毛布をかけ、胸元をトントンと叩いて、コリンが寝つくまでそうしていた。まるで子供の頃に戻ったような気がして少し懐かしかった。
ただ、この上自分まで具合が悪いとはとても言えなくなった。コリンが余計に泣いてしまう。
――気のせい。多分、熱っぽいのも寒気がするのも気のせい。
それで乗り切るしかない。
コリンが眠ったのでオーレリアが部屋から出ると、アネリが風邪薬らしき小瓶を持って戻ってきていた。
「今、眠ったところだよ」
「それなら、お薬は後にしましょうか」
「うん。あたしは兄さんに状況を伝えに行ってくるから、少しだけコリンのことをお願いできるかな?」
「ええ、わかりました」
兄にもコリンのことを伝えておかなくては。なんらかのフォローをしてくれるだろう。
それにしても、寒い。――いや、気のせい。
トンプソン家から出て借りた傘を差す。
雨は少しだけ小降りになっていた。
コテージまでは近いけれど、今のオーレリアにはとても遠く感じられる。こう雨が降っているせいか人はほとんどいない。
そう思ったら、いた。
暗色のコートは雨を吸ってほとんど黒に見えた。
コートの下になっていても、程よく筋肉のついた体をしているのがわかる。濡れそぼった茶髪が頭の形に添って張りついている。このつり目、どこかで見たことがあるような気がするけれど、どこにでもいる顔なのかもしれない。
見たことがあると思ったのはお互い様だったようだ。
男はハッと息を呑んでいた。
「お前……」
一歩、近づいてくる。
男の目がオーレリアに留まる。
「お前……ウィンターの婚約者の女か?」
それを言われ、オーレリアも思い出した。
社交場で軍服を纏い、オーレリアに声をかけてきた男――。
名前はマドック、だっただろうか。うろ覚えだが。
「なんで軍人がこんなところにいるんだよ?」
思わず言うと、マドックはそんなオーレリアを鼻で笑った。
「なんだその粗野な言葉遣いは?」
「あんたこそ、夜会で挨拶してきた時より口が悪いじゃないさ」
言い返したが、あまり効果はなさそうだ。
「あいつがこんな女と結婚するつもりとは笑えるな」
カチンと来たが、こんなのを相手にする必要はない。
「勝手に笑ってたらいいさ」
その言い方が気に入らなかったのか、マドックは大きく踏み込み、オーレリアの肩をつかんだ。
親の仇であるかのように恐ろしい形相で肩を揺さぶられる。
「俺に偉そうな口を利くな!」
嫌なヤツだ。普段ほどの元気があれば振り払ってやった。
――いや、この男は危ない。
オーレリアはすぐにそれを察した。勝てるとは限らない。きっと、本調子であっても。
腐っても軍人だ。それだけの身体能力を持ちながらも、感情に歯止めをかけるには精神が未熟という最悪のタイプだ。
つまり、暴力で解決するのも辞さない。相手が女だろうと子供だろうと。
揺さぶられて、ただでさえ眩暈がするのに立っていられない。傘が手から滑り落ちて雨が頬にかかった。
皮肉にも、オーレリアはマドックの手に支えられて立っているような感覚だった。足に力が入らなかった。
耳元でマドックが言った。
「ラルフ・トンプソンってやつはどこにいる?」
あまりにも予想外の名がマドックの口から漏れた。そのためにオーレリアの意識が僅かに立ち直った。
「……なんでラルフを探してるんだ?」
ラルフは毎日コツコツと葡萄の世話をしながらワインを作る庶民だ。一体なんの用があるというのだろう。
すると、マドックはチッと舌打ちして吐き捨てた。
「ブリジットがそいつの顔を覚えていて、ここにいると言ったんだ」
ここへ来て、またその名が飛び出す。
「ワドル商会の……?」
ワドル商会。ブリジット。マドック。そしてラルフ。
わけがわからなかった。
「とにかく、やつのところへ案内しろ! 言っておくが、俺はアーヴァイン・ウィンターなんて恐れない。俺はヤツと同格なんだからな」
アーヴァインと同格と言えるほど偉かっただろうか。よく知らない。
そんなことよりも、この男――ラルフに会ってどうするつもりなのだろうか。




