〈32〉日常の輪
剪定作業をやってみたくなった。
言ってみたら、いいよと鋏と手袋を貸してくれた。その代わり、切るところは指示に従うようにとのこと。
思ったよりも枝が硬かったけれど、普通の女の子ほどか弱くないオーレリアはバチンバチンと音を立てて枝を切り落とした。
そんなオーレリアを、コリンは心配そうに見ていた。ガルムはその場に寝そべっている。
「あっ、汁が飛んだ!」
白いブラウスの胸元に葡萄の染みができる。多分汚すだろうなと思ったけれど、やっぱり汚れた。それが可笑しくて一人で笑っていた。
ちょっと前までは兄の安否もわからなくて、不安で仕方がなかった。気が楽になった途端にこれだ。
いつの間にか子供たちまで出てきて、落とした葡萄の房や葉を集めて掃除し出したから、オーレリアもそれを手伝う。ブラウスはまだらに染まったけれど。
「おねーさん、どうやってガルムと仲良くなったの? ガルムは小さい頃にここへ来て、それから皆で育てた犬なんだよ。葡萄泥棒を追い払うんだ。だから、よその人には懐かないのに」
小さな男の子にそんなことを言われた。
「どうやってって、そうだなぁ、目を見たら一瞬でわかり合えたんだよ」
「えー! 目なんて埋もれてる!」
「その奥をよく見てみるんだ」
自分の話をされているのがわかるのか、ガルムがわふぅと鳴いた。
目が埋もれているとは失礼なと言っているようで、男の子もその仲間たちも急に笑い始めた。
――これが本来のアトウッドなのだろうなとオーレリアは思った。
皆して職人気質だけれど、仲良く楽しく毎日を過ごしている。
それがいろんな思惑に歪まされてしまったのは残念だけれど、まだ大丈夫だと人々の笑顔を見て思った。
「もう! 姉御、顔まで葡萄塗れじゃないですか!」
遠くから眺めていたコリンが見かねて近づいてきた。
「おう、美人が台無しだな!」
そばで作業していた七十歳くらいの男がニヤニヤしながら言う。
「汚れたくらいで姉御の美貌は台無しになんてなりませんよ!」
コリンが変なフォローをしながらハンカチで顔を拭いてくれた。
「まだ酸っぱいなぁ」
葡萄の汁を舐めながらそんなことを言っていると、いつの間にか畦道のところに兄とラルフが立っていた。
「なかなか帰ってこないと思ったら……」
兄が苦笑している。
「悪い。楽しくなっちゃってさ」
とはいえ、この格好はアーヴァインとラングフォード夫人には見せられない。
「雲行きが怪しくなってきたから、そろそろ雨になるぞ」
ラルフが空を見ながら言った。
けれど、オーレリアが見る限りでは雨が降りそうには思えなかった。空は晴れているし、雲は白い。
「ラルフがそう言うなら降るんだろうな」
皆がうなずく。降るらしい。
「葡萄作りは天候に左右される。天候を読むのは大事な才能だよ」
誰かがそんなことを言った。それなら、ラルフはいい酒造家になれるのかもしれない。
根っこはまっすぐな男だから、きっとなれるだろう。
じゃあね、と皆に手を振って兄たちのところに戻ると、ラルフはオーレリアをじっと見た。
「なんだよ。汚れ過ぎだって言うんだろ」
髪にまで葡萄の汁が飛んでベタベタしていた。葡萄の汁塗れの令嬢はどこを探しても他にいないだろう。その自覚はある。
けれどラルフは、いや、とつぶやいて首を振った。
「ちょっと驚いただけだ」
「うん?」
「あんたがあんまりにも自然に輪の中にいるから」
「ひどいこと言ったって謝ってくれたんだ。だから水に流して仲良くなったよ」
それを聞くと、兄は嬉しそうに目を細めた。
「そうなのか。それは何よりだ」
商売のことを抜きにしても、アトウッドの人たちに嫌われ続けるのは悲しいから。
オーレリアはよい仕事をするアトウッドの人々を嫌いなわけではなく、むしろ尊敬の念も抱いている。
「……皆を許してくれてありがとな」
ふと、ラルフが柔らかな声で言った。
ジョージたちと血の繋がりがない、正確な身元のわからないラルフだが、このアトウッドの皆が家族で身内なのだろうと思う。
「いつまでも怒ってたっていいことないからね」
ニッと笑って答えると、ラルフはどこか苦い表情を浮かべた。
「これ以上惚れさせるなよ」
余計なことを言うから、コリンが過剰反応した。
「はぁあ? 今、なんか聞き捨てならないコト言いませんでしたっ?」
「気のせいだ、コリン。さ、着替えてこよう」
そう言って、オーレリアはコリンの両耳を塞いでトンプソン家の方へと押す。
「あっ、このまま雨に打たれたら汚れが落ちるんじゃ?」
ちょっといいことを思いついた気になったが、思いきり馬鹿にされた。
「この時季の雨を甘く見るな。確実に風邪ひくからな」
ラルフは散々その寒さに耐えてきたのだろう。
残念だが、その思いつきは地面に捨てて急いで帰った。
しかし――。




