〈31〉変わってる
この話をアトウッドで他の人にしない方がいいと兄は結論づけた。
「僕の憶測にすぎない部分が多すぎるから。確かな証拠がない以上、いたずらに不安を煽るのはよくない。キンブルさんにも言っちゃ駄目だ。でも、キンブルさんの身辺には気をつけた方がいいね」
「兄さんの誘拐の件が父さんの耳に入って代金を運んでくるとしても、まだ時間があるよな。その間にあたしたちはどうする?」
オーレリアが問いかけると、兄は苦笑した。
「なるべく自然に、何もしないでいい。父さんか、もしくはその使者と行き違いにならないように到着まで待たせてもらうとだけ言っておこう」
「うん。あたし、眼鏡を失くしたけど、もういいかな?」
「いいよ、オーレリアは自由にしていても」
自由にしていていいという。
それは毎日ガルムと戯れていてもいいということだろうか。
思えば、アトウッドに行くと決めた時、行儀見習いの勉強もあることだから十日ほどで帰ってくればいいかと思っていた。十日を越してしまうかもしれないが仕方ない。
――ただ、出かけた時と決定的に違うのは、アーヴァインへの疑惑だ。
このまま、見たものを呑み込んでおけばいいだけなのかもしれない。けれど、生憎とオーレリアはそういうことができない人間である。
腹の底に思いを溜め込んだまま、今まで通りになんてできない。
それがわかっていたら、取るべき行動はひとつだ。
問い詰めてやる。
オーレリアはそれを決めた。
愛人なんていたら嫌だと真っ向から言えばいい。それしかない。
そこに考えが行き着いたら、気分が少し楽になった。
「よし! じゃあ散歩に行ってくるな」
「僕もお供します!」
コリンがそう言ってついてきた。
ラルフは兄の話が衝撃的すぎたのか、座り込んだまま考え事をしている。
オーレリアがコテージから出ると、待っていたガルムが擦り寄ってきた。
「よしよし、一緒に行こう」
わふぅ、と嬉しそうに鳴いた。可愛い。
畦道を歩くと、小火があったせいかほんの少し焦げた臭いが漂っているものの、空気は冷たく気が引き締まる。
空は青くて、人間の悩みとは無縁に晴れていた。
「でも、こんなにややこしいことになるなんて思いませんでしたね」
コリンがぼやく。
「うん、まあな。でもここへ来てよかったと思ってるよ」
「えー?」
「だって、あたしがいて少なくともキンブルさんは命拾いしたんだろ? 兄さんも無事だったし、まあそこまで最悪でもないよ」
「僕は姉御に何かあったら嫌ですからね! 無茶ばっかり駄目です!」
「はいはい」
とても真剣にコリンは怒ってくれた。
思えば、小さな頃に助けられた恩を未だにこんなにも抱え込んでいる。
コリンももう、それほど子供ではないのだから、もし将来に何かしたいことがあるのならそれを優先してもいいのに。
その時には、オーレリアは寂しい思いをするだろうけれど。
オーレリアが寂しがるのをわかっているから、コリンはそれを考えられないのかもしれないが。
畦道から葡萄畑が見える。葡萄の粒が膨らんで、収穫が近いのが素人目にもわかった。
青臭さが漂う中、じっと葡萄畑を見ていると、作業をしていた男たちがオーレリアに気づいてギョッとした。
また暴言を吐かれるかと思ったが、そういうことはなかった。ただ気まずそうに肩をすぼめている。
「あ、あの……」
そのうちの一人が口を開いた。
オーレリアは立ち止まった。コリンとガルムもそろって立ち止まる。
「その、すまなかった」
何に対して謝られたのか、オーレリアにはわからなかった。男は四十代くらいで、鼻が丸い。誰だったかなと考える。
無言で考えていると、続けて言われた。
「場の空気に呑まれて言いすぎた。コーベットが悪者だって、皆がそう言うならそうなんだって、自分では何も考えていなかったんだ」
これを聞いた時、オーレリアは自然と笑っていた。それは多分、嬉しかったからだ。
「もう何を言われたかなんていちいち覚えてないよ。でも、そんなふうに謝るのは勇気の要ることだから、素直に受け取ろうかな。ありがと」
「い、いや……」
しどろもどろになった男に、ガルムがやれやれとばかりに、わふっと鳴いた。
「この葡萄がワインになるんだよな。葡萄って、こうやって眺めていると綺麗なもんだね」
感じたままのことを言うと、男は少しだけ誇らしげに見えた。
「そりゃあ、毎日丹精込めて世話をしているからな」
「へぇ……」
しかし、よく見るとそんな男の足元には踏みつぶされた葡萄が散乱していた。青臭さのもとはこれだ。
「って、あんた! 大事な葡萄を踏んでるじゃないか!」
「ん? ああ、これは未熟果だよ。肩果って言って、成長が遅いところを切って落としてやる作業だ」
「えー! 勿体ない!」
オーレリアが声を上げても、男は笑いながら鋏を繰る。パチン、パチン、と葉っぱも房も落とされる。
「贅沢だけど、これが最高級のワインのために必要な葡萄を作る工程だ」
「なあ、近くに行って見てもいいかい?」
思いきって言ってみたら、男は嫌だと言わなかった。
「いいけど、汚れるぞ」
「いいよ、それくらい」
オーレリアは堂々と葡萄畑へ下り、男の手元をじっくりと見ていた。リズミカルな鋏の音が心地いい。
男の作業には迷いがなかった。的確に未熟果と残すものとを見分け、鋏を入れている。
「あんたみたいな若い子が見てて面白い作業じゃないだろう?」
「なんで? 面白いよ。職人の仕事じゃないか。葡萄作りって深いんだなって、これからもっとワインを美味しく飲めるよ」
「……あんた、変わった人だな」
なんてことを笑いながら言われた。
けれど、別に嫌な気分にはならなかった。多分、相手が笑っていたからだろう。
最初にここへ来たことを思えば進歩だな、と思った。




