〈27〉片足を突っ込んだ
兄が馬を借りてきた。
この馬、帰りはどうするのかと思ったら、アトウッドまで引き取りに来てくれるという話になっているらしい。その分の料金も支払ったのだろう。
黒毛の馬は大人しかったが、兄が馬に乗っているとなんとなく違和感がある。
「兄さん、馬に乗れたんだね」
「この間も乗ったよね?」
この間というのは、家族でカントリーハウスに行った時の話だ。
確かに乗っていたかもしれないけれど、あれはきちんと調教されたお行儀のいい馬だから誰でも乗れると思っていた。
「貴族の男性は基本、乗馬を習うものだから。一部の女性もね。でも、オーレリアはやめておいた方がいい。どこまでも飛ばして行っちゃいそうだし」
「うーん、乗れたら楽しそうだけど、今は行儀作法の勉強だけで手いっぱいだしな」
これ以上学ぶことを増やすと自分の首を締めそうだ。余裕が出たらでいいかもしれない。
そうして、オーレリアはラルフの荷馬車に揺られ、楽々運ばれていくのだった。
道中、ガルムと戯れて緊張感を忘れそうになったが、アトウッドに着いたら気を引き締め直さないと。
道中、オーレリアはガルムを撫でて気持ちを落ち着けつつも、あのハゲに会ったらなんと言ってやろうかとそればかり考えていた。
いくらコーベットが気に入らないとしても、人の命がかかっているかもしれない局面で偽物を渡すなんてひどすぎる。どうにかなったからいいようなものの、一歩間違えたら危なかったのだ。
コテンパンにのしてやろう。
とにかくしっかりと反省させてやらなくては。
ふぅ、とため息をついたら、それをラルフが拾った。
「どうした?」
「いや、あのキンブルってヤツよりジョージさんの方がよっぽど組合長に向いてるんじゃないのか? あんな仕打ちをして、どういうつもりだか」
「昔はあそこまでひどくなかったんだがな。年々面倒くさいオヤジになってる。年のせいかな?」
「年で片づけていいのか? どう考えてもダメだろ」
「まあな。今までは交渉なんかは強固な姿勢で行ってくれて、アトウッドにとっては利になることもしてくれた。でも、今回のことはさすがに許容できないな」
「だろ?」
ガルムもわふぅ、と相槌を打ってくれた。
そういえば、コリンはどうしているだろう。
オーレリアがアドラムのところからコーベットに移ってからは特に、こんなに長く話さない時はなかった。
社交場には連れていっていないけれど、それ以外の外出はいつも一緒だ。オーレリアの家族だと思うからか、コリンはすぐにコーベットの屋敷に馴染んだ。
オーレリアがアーヴァインと結婚したら、アーヴァインと暮らす屋敷でも同じように使用人たちに馴染めるだろう。けれど、さすがに今のアトウッドに置き去りは心細いに違いない。
父か、コーベットの誰かが到着するにはまだ時間がかかるだろう。
そんなことを考えているうちにオーレリアたちの方がアトウッドに戻った。
オーレリアやラルフではなく、馬で乗りつけた兄に視線が集まっている。ただ、以前のようにツンケンしているのではなく、どこか恐れている。
それは誘拐された兄を誰も助けようとしないで見捨てたからかもしれない。
相当に怒っているだろうと怯えている。
どんな対応をされてもコーベット商会は温厚な態度を崩さなかった。だから、なんだって許してくれると思って甘く見ていたのだろうか。
それでも兄はあからさまな怒りは見せない。馬から降りて手綱を引いて歩く兄の一挙手一投足に視線が集まる。
そのせいか、誰もオーレリアには注目しなかったので、オーレリアの顔がコーベットの御曹司とそっくりでもまだ気づかれないのだった。
尽力してくれたジョージたちに兄の無事を知らせて礼を言うのが先だとは思うが、オーレリアはまずキンブルに文句を言ってやりたくて仕方がなかった。
「兄さん、ちょっと寄るところがあるから先にジョージさんのところに行っててよ」
「えっ? オーレリア――」
兄は何か言いかけたが、オーレリアは構わずに荷馬車から飛び降りる。オーレリアに引き続きガルムも飛んだ。一緒に来てくれるらしい。
「ちょっと待て! 俺も行くから!」
ラルフが荷車の御者台から焦って言ったが、オーレリアは待たなかった。さっさと駆け出す。
腹は立つが、手を上げるつもりはないし、罵りたいわけではない。少々文句を言ってやるだけだ。
勢いでキンブルの家までやってきたオーレリアだったが、そこに行き着くまでに妙に嫌な臭いがするなと思った。
焦げ臭い。焦げ臭いと思ったら、煙も流れてきた。
誰が焚火をしているのかと思えば、火元はオーレリアが目指しているキンブルの家だった。
煙が立つと、皆がわらわらと集まってくる。この乾燥した空気では火の回りも早いだろう。
「中に人はっ?」
近くにいた女性に訊ねると、怯えた顔をして首を振られた。
「わ、わからないよ。もう逃げているといいけど……」
逃げていたらいい。でも、逃げていないとしたら――。
オーレリアは足を止めることなく、そのままキンブルの家に近づいて窓から中を覗いた。
煙でよく見えない。
扉を開けたら、中から煙がもうもうと出てきて、オーレリアは少し煙を吸ってむせてしまった。この時、テーブルのところに足が見えた。誰かが机に突っ伏して寝ている。
ゴホゴホとむせて、それからオーレリアはなるべく煙を吸わないように息を止めて中に踏み入った。
誰かが後ろで叫んでいたけれど、よく聞こえない。これ以上煙が出ると前が見えなくなる。
オーレリアはさっき見た足の位置を手探りしながら急いだ。柔らかいものに手が当たったので、それを力いっぱい引きずる。
そうしたら、椅子から体が落ちた。そこでハッと意識を取り戻したらしい。
「なっ、こ、これは――っ」
慌てて取り乱したキンブルの声がする。その直後、やはり煙を吸ってむせる。
オーレリアは苦しそうに体をくねらせるキンブルをひたすら入り口に向かって引っ張った。
太っていて重たいし、息が続かない。一緒に火に巻かれるのは嫌だ。
キンブルは道連れとしては最悪の部類である。
もう放っておこうかな、とチラッと考えたが、嫌いだからこそキンブルのことを一生抱えて生きたくない。嫌いだけど、死ねばいいと思うほど憎くはない。
もう少し頑張ろう、とオーレリアは腕に力を込めた。
「オーレリア!」
名を呼ばれた。
兄ではなかった。ラルフだ。
オーレリアが入り口から顔を出すか出さないかというところでラルフが一緒にキンブルを引きずり出してくれた。
なるべく家から離れないと、と急いで逃げる。やっと息がつけたら涙が出た。
安全だと思えた位置でキンブルを放り出し、涙を拭いて大きく息をした。ほっとしたらその場でへたり込んでしまったが、達成感はある。もうちょっと痩せろという思いでキンブルの背中を睨んだ。
キンブルの家の方は男手が集まって消火に当たっていた。
ちょっと扱いが悪かったために顔を擦り剥いてしまったキンブルは、しばらく茫然自失だったが、我に返ったらキッとオーレリアを睨んだ。
「仕返しにワシの家に火を放って焼き殺そうとしたな!」
とんでもないことを言われた。呆れてものが言えない。
これにはラルフが怒ってくれた。
「殺されても文句言えないような仕打ちをしたのはキンブルさんだ。でも、こいつはそんなあんたを助けに躊躇いなく家に飛び込んであんたを引っ張り出してくれたのに、よくそんなことが言えるな」
キンブルはガタガタと震え、信じられないものを見るような目でオーレリアを見た。
オーレリアはひとつため息をつく。
「助ける義理はなかったなって、片足突っ込んでから思ったけど、とっさに体が動いたんだから捨てておけないだろ」
「ワ、ワシは……」
「なあ、あんた重たかったよ。重たいから諦めたくなったし。ここのワインが美味いのは知ってるけどさ、飲み過ぎないでちょっと痩せなよ」
な? と指摘してやると、キンブルは急に燃え尽きたような、疲れたような表情になった。
キンブルの顔を見たら言ってやりたいことが山ほどあったのに、もういいやという気がして、キンブルの丸い肩をパシンと叩いた。




