〈12〉アトウッド
丸三日かけて馬車がアトウッドに着いた時、兄が言っていた意味もわかった。確かに肌寒い。
けれど、空気がとても美味しかった。都はこんなに澄んでいないし、オーレリアが育った港町はもっと潮を含んでいる。こんなふうに体中の血を入れ替えて綺麗にしたような清々しい気分にはならない。
馬車から降りたオーレリアは思いきり深呼吸していた。コリンもそれに倣う。
兄は初めてではないからか、そんなことはしなかった。書類を見ながらあれこれと考えているらしい。
緑織り成すアトウッドの葡萄畑。
葡萄の実は成っているけれど、小粒だから収穫にはまだ早いのだろう。葡萄は順調に育っているように見えた。あの瑞々しい葡萄がやがて美味しいワインになるのだ。そう考えただけでオーレリアもウキウキした。
しかし、コーベットの馬車が着くなり、葡萄農家だか醸造所だかの男たちが近づいてきた。皆、なかなかに強面だ。ワイン造りは力仕事なのか、体格もいい。
「……また来たのか、コーベットさんよ。それも御曹司直々に」
額に枝で引っかいたような傷のある中年男が偉そうに言った。本当に偉そうだ。
それに対し、兄は腰が低い。
「ご無沙汰しております。お仕事の邪魔をするつもりはありませんが、少しだけお話をさせて頂きたく――」
しかし、向こうの対応は冷たいものだった。
「話ならあんたの部下に散々しただろう? あんた方も大概しつこいな」
これには後ろにいた男たちも鼻で笑っていた。イラッとしたので言い返そうとしたら、兄が先にそれを察し、オーレリアの手首をつかんだ。口を挟むなということらしい。
仕方がないので黙って立っている。けれど、内心はやっぱりイライラだった。
「そう簡単に諦めがつくことではありません。どうすれば以前のような取引をして頂けるのか、その道を探るべくやってきたのです」
「仮にそっちの会長が出てこようと、我々の考えは変わらない。諦めて帰ってくれ」
なんとも頑なだ。
以前はずっと取引をしていたのに、どうして急に手の平を返すようなことをするのだろう。
いや、以前からコーベットとの取引を見直したいと思っていたが、年寄りが許さなかったところ、その年寄りが段々減ってきて、それで若手が好き勝手動き始めたという話か。
「とにかく、ここにはあんたたちを泊めるような家はないから、日が暮れないうちに帰ることだ」
とことん冷たい。
兄はしょんぼりしていた。身分も財産も持っていながら、それでも偉ぶらない兄だが、こんな連中には偉そうにしてやればいいのにとさえ思った。
アトウッドワインの名が知れ渡るのに、コーベット商会だって一役買ったはずなのだ。それをこの態度なのだから。
それでも兄は彼らの機嫌をこれ以上損ねたくないらしい。
オーレリアは兄の手をするりと抜けて前に出た。
「ここにトンプソンさんっている?」
メガネにおさげの女がいきなり割って入ったので、彼らはきょとんとしていた。兄は青ざめて見えたが、別に問題を起こすつもりはない。
この場で一番いつも通りだったのはコリンだろう。オーレリアの隣でニコニコしていた。
「トンプソン? ああ、まあ、いるな」
「そっか、会わせてほしいんだけど。あたしはオーレリア・アドラムだ。アストリーに住むアドラムの娘が挨拶に来たって言えばわかると思う」
メガネをかけたくらいでコーベットの長男と顔が似ていると覚られないものかなと思ったけれど、誰も突っ込まなかった。それはオーレリアの言動が間違っても貴族令嬢らしくなかったからだろう。
「アドラム……聞いたことがあるような?」
誰かがボソッとそんなことを言った。
オーレリアは兄の方を向かないまま、小声でこっそりと告げる。
「兄さんは馬車で待ってなよ」
これに対し、兄は答えなかった。
兄が一緒だと先方と話ができないかもしれないとオーレリアが判断したのだが、兄は自分の無力さを痛感して落ち込んでいる。別にこの現状は兄の能力のせいではないはずだが。
何がどうなってここの皆がこんなに頑ななのかは知らないけれど、まずは探りを入れてみるべきだろう。敵視されている兄よりは、オーレリアの方がまだやりやすい。
「それで、トンプソンさんはここのどの辺りにいるんだ?」
にこやかに話しかけているというのに、彼らの反応は微妙だった。
「さぁ。その辺にいるんじゃないか?」
兄に対するほどではないにしても、不親切だ。
「だから、その辺って?」
「ヤツに張りついてるわけじゃねぇんだよ。自分で探しな」
冷たい。トンプソンもこんなだったらどうしようか。
親父は多くを語らなかったが、義理にはうるさい人間だから、筋の通らないような男ならつき合わないはず。
まあいい。そこは自分で判断しよう。
「わかったよ。探してくる」
あっさりと返し、オーレリアはアトウッドの道を歩き出す。
オーレリアは、ここ最近で培ったはずの『行儀作法』をちょっとだけ横に押しやって、当分の間、オーレリア・アドラムに戻ることにした。
それを知ったら、ラングフォード夫人は卒倒するかもしれないけれど。




