〈5〉強敵
目を回した兄、ユリシーズと、その胸倉をつかんだままの妹、オーレリア。
屋敷の中は騒然とすらしなかった。シーンと静まり返り、時が止まったかのようにして誰も動かない。
どうしよう、どうしよう、とオーレリアは内心では焦っていたが、どう取り繕えばいいのかわからなかった。
そこに男の低い声が降る。
「ユリシーズ!」
階段の上から誰かが駆け降りてきた。オーレリアがそちらに首を向けたのとほぼ同時に、その男は階段の手すりを飛び越えてオーレリアの間合いに着地した。
兄の胸倉から手を放し、新手の男に応戦しようとしたオーレリアだったが、その男は素早かった。
その男に腕をねじられたが、喧嘩慣れしているオーレリアはすかさず足を後ろに蹴り上げた。――ただ、ドレスが邪魔でまったくもって威力がなかったのが残念なところだ。
その上、腕をつかまれたオーレリアの方が足払いを受けた。普段ならこれも躱せたはずが、ハイヒールが滑った。もうこんな格好は二度としないと思ったオーレリアだが、そのまま床に押しつけられたのである。
「わぁ! あ、姉御っ!」
コリンが騒いでいる。無様なところを見せてしまって恥ずかしいが、この男、強い――。
多分、こんな慣れない格好をしているせいばかりではなく、相手も厄介なのだ。
そこで目を回していた兄が慌てて止めに入った。
「ちょっと待て、アーヴァイン! 手荒な真似は止めてくれ!」
「賊を取り押さえただけだろ」
賊ときた。
上流階級の人々にはそう思われても仕方がないところかもしれない。
「賊じゃなくて、間違いなく僕の妹だ」
「まだそんなことを……」
兄に言われ、そのアーヴァインと呼ばれた男は手をゆるめた。オーレリアはその手を振り解くと、その場に座り込んだまま、ムスリとアーヴァインとやらを睨みつけた。
兄と同じくらいの年頃の青年で、茶色の髪を軽く撫でつけ、詰襟に腕章のついた制服を着ている。顔立ちは精悍、眼力が鋭い。筋骨隆々というわけではないが、引き締まった体つきだ。こうした体格が一番喧嘩には向いている。
アーヴァインは、しげしげとオーレリアを見た。ひどく訝しげだ。
「ほら、似てるだろ?」
兄は、あんまりな仕打ちをした妹に優しく手を差し伸べる。
「ユーフェミア、驚かせてしまってごめんよ。覚えてないだろうけど、僕らは兄妹なんだよ」
怒っていないらしい。寛大だ。
オーレリアとしても、投げ飛ばしてしまったのは悪かったなと思った。それでも、素直にはそれが言えなかった。
「あたしはオーレリアだ。昔はユーフェミアだったとしても、今はこの名前で生きてきたんだから、あたしのことはオーレリアって呼んでくれないと」
すると、兄はチラリと両親を見遣り、それから納得した様子でうなずいた。
「オーレリアだね。僕たち、随分離れていたから、お互いのことを知らないけど、これからゆっくり話してくれるかな?」
優しい。でも。
――なんてナヨナヨとした喋り方をする男だろうか。
そのことにオーレリアは少なからず驚いた。お上品な人たちは男でもこんななのだ。
背筋がゾワゾワする。駄目だ、これは駄目だ、馴染めない。
「顔は似ているが、本当に大丈夫なのか?」
アーヴァインが冷めた目を向けてくる。余計なお世話だ。
兄はそれでもオーレリアを気遣ってくれているらしい。そっと微笑む。
「彼は僕の友人で、アーヴァイン・ウィンターっていうんだ。軍人だから少し気が荒いところもあるけど、いいヤツだからさ」
気が荒いのはどっちだ、とアーヴァインの目が雄弁に語っている。うるさい。
「……別に、こんなのどってことないし、いいけど。こっちこそごめんな、兄さん」
オーレリアも投げ飛ばしてしまったことは反省している。やっと謝ると、ユリシーズは嬉しそうに、けれどおずおずとオーレリアの手を握った。
「おかえり」
ピンと来ないひと言だった。だから、『ただいま』とは返せない。
固まっていたオーレリアの後ろで、両親が抱き合って泣いている。コリンもついでに泣いている。
なんだかな。
当事者のはずのオーレリアは、まったくもって感じるところがない。むしろ、そこにいるアーヴァインほどには部外者のような気分だった。
使用人たちの微妙な空気。
こんなふうにしてやってきたオーレリアが、この屋敷の中で浮いてしまうのは当然と言えば当然の成り行きであった。