〈8〉いってらっしゃい
アーヴァインが出発するのは、オーレリアがそれを告げられてから五日後のことだった。
わりとギリギリまで言わなかったということだ。いい加減に言わなければと思いつつも引き延ばしていたのだとしたら、やはり言いにくかったのだろう。
しかし、そのせいで、オーレリアは出発するアーヴァインに何を持たせるのかをまったく決められなかったのだ。時間が足りなさすぎる。
結局、下手に品物を渡す方が不吉な気がしてしまった。その品物だけがオーレリアの手元に戻り、当の本人が戻らなかったり――と、それが遺品になりそうで。
兄にそれを言ったら笑われたが。
「品物なんて用意しなくていいんだよ。手紙でも書いて渡せばいいんじゃないか? ほら、オーレリアはアドラムさんにマメに手紙を書いているじゃないか」
「あ、ああ……」
確かに、離れて暮らす親父にはよく手紙を出している。
ただし、手紙の内容を兄は知らない。
最新の手紙の内容は――ベッドのシーツを洗ったのはいつだ? だった。
気づかせてやらないと、何ヶ月だって洗わない。自分の臭いが染みついているから、臭くったって気づかない。絶対、即答できるくらい最近じゃないはずだ。
コリンに言わせると、こんなのは手紙じゃないらしいが。ちなみに、親父から返事が来たことは一度もない。
「手紙な、手紙」
なんて書けばいいんだろう。
全然、見当もつかない。
帰りを待っているなんて、そんな面白みのないことを書いてある手紙を渡されても、いざという局面で絶対に帰らないといけないという気分になれない気がする。
チラリと兄を見た。兄は、ニコニコと笑っている。オーレリアも笑って返したが。
「…………」
兄に相談してはいけない。この兄は、恥ずかしげもなく愛しているとか言い出せる人種なのだから。
なんの参考にもならないことだけは間違いない。そんなこと、オーレリアに書けるわけがないのだ。
結局、部屋に戻って一人で考える。
お気に入りの樽をテーブルにして、ペンの先を紙の上でさまよわせるから、何度もインクが落ちて便箋を駄目にした。相手がアーヴァインに変わるだけでこんなにも難易度が高くなる。
う~ん、う~ん、と唸りながら考え、そして何度も書き直した。
字がもう少し綺麗だったら、文章がマズくてもごまかせたのに。
「まあ、今さら気取っても仕方ないか」
最後には諦める。気持ちが籠っていればそれでいいかと。
アーヴァインは出立の朝に顔を見せてくれた。ホールで彼を迎え入れる。
父は早くから会社に出かけていて不在だったが、兄はアーヴァインの顔を見てから行くと言って残っていた。
「早くお戻りになれることを祈っていますよ」
母は白手袋の手でアーヴァインの手を握って労う。
アーヴァインも微笑んで答えた。
「ありがとうございます。なるべく早く戻れるように尽力します」
それから、兄はアーヴァインの肩をポン、と叩いてから抱擁した。
「うちの妹は目を放すと危険だから、気が気じゃないと思うけど」
「まったくだ」
ボソッと賛同した。そこはオーレリアを庇ってくれてもいいところではないのか。
兄はまたアーヴァインの肩をポンポン、と叩いて、それから手を振って出ていった。
「じゃあ、戻ったらゆっくり話そうな」
「ああ」
実際、兄もやることがたくさんあるのだ。父に任せきりにはできない。本当はアトウッドのことが気がかりなままなのだ。
母は気を利かせたつもりなのか、そうっと後ろに下がっていく。メイドたちも一緒に下がっていく。
ただ、コリンだけは堂々とオーレリアのすぐそばにいた。ニコニコと微笑んでいる。
上機嫌だ。遠慮しない。
アーヴァインはコリンが近いせいか、何か言いにくそうにしている。
「ちゃんと待ってろよ」
短く、それだけ言った。オーレリアは大きくうなずく。
「うん!」
こういう令嬢らしくない仕草はラングフォード夫人に怒られるかもしれないが、つい。
それでも、一日千秋の思いであなた様のお帰りをお待ちしておりますわ、とかなんとか答えたら、出発前のアーヴァインにかえって不安を与えそうな気もする。
人前でならまだしも、普段から自分らしくない振る舞いはしなくてもいい。
「あのさ、これ」
封をした手紙をアーヴァインに差し出す。ずっと握っていたから少しヨレた。しかも、渡すのが照れ臭いので妙にぶっきらぼうになる。
アーヴァインは心底驚いた様子で目を瞬かせている。
「俺に?」
「なんでこのシチュエーションであんたに伝書鳩になってもらうんだよ! アーヴァイン宛てに決まってるだろ」
照れ隠しに喚くオーレリアに、アーヴァインは小さく声を立てて笑った。
「いや、こういうことをすると思わなかったから驚いた」
「そんなすごいことは書いてないし!」
「じゃあ、ここで開けていいか?」
「駄目に決まってるだろ!!」
ハッとして振り返ると、母を含めた屋敷の皆がニヤニヤしていた。――居たたまれない。
針の筵とはこのことか。
それでも、アーヴァインは多分喜んでいた。
「ありがとう。向こうに着いたら読む」
「う、うん」
オーレリアが想像していた以上に喜んでくれたのかもしれない。表情からそれが伝わった。
だから、オーレリアも嬉しかった。これから離れなくてはならないのに、今だけはあたたかな気持ちだった。
ただ――。
「わぁ、奇遇ですね! 僕もアーヴァイン様にお手紙を書きました。はいどうぞ! ピンチになったら読んでください!」
コリンの手紙は封筒にすら入っておらず、四つ折りにされていたが、びっしりと文字で埋め尽くされているのが見えた。
アーヴァインが受け取るのを若干躊躇したように感じられた。あんまり楽しいことは書いてなさそうだ。
「……ありがとう」
「いーえ」
コリンは笑顔だが、アーヴァインの表情は硬い。あの手紙に呪われないといいなと思う。
「じゃあ――」
二人分の手紙を収めると、アーヴァインは手を上げて去っていった。その背中が完全に見えなくなると、コリンはククク、と声を立てて笑った。
「姉御の手紙って、基本一行以上ないですよね。アーヴァイン様、開けてびっくりしそうですよ」
「……あんたが書きすぎなんじゃないのかい」
大体、何を書いたのだか。
想像がつかなくもないから、訊くのをやめた。




