〈5〉努力
それにしても、下町で行儀作法を知らず男親に育てられたオーレリアが婚約したのだ。将来的に伯爵夫人になることに、若干の引け目を感じなくもない。
だからこそ、再び行儀作法を習い始めたのである。
社交界デビューの前にも習ったのだが、身についたという気はあまりしていない。
なんとなく習っていたせいだろう。けれど、今回は以前と身の入り方が違う。
今はアーヴァインのためにというちゃんとした理由があるのだから、少々つまずいても頑張れる。
「……オーレリア嬢、爪先が外に向いていますよ」
行儀見習いの先生、ラングフォード夫人が眼鏡の奥の目をキッと怒らせる。
ただ歩くだけのことなのに、長年染みついたものはなかなか抜けない。それにしても、ドレスでほとんど見えない足元のことなのに、夫人はよく見分けられるものだ。
「あ、うん、悪い」
振り向きざま、すぐに謝った。しかし、余計に怒られた。
「そ、そこは、申し訳ございません、です!」
「そっか、そうだな。ごめん、先生」
「…………」
よし、もう一度最初からだと気合を入れて拳を握った。
今のオーレリアは、このように素直で真面目な生徒である。
――と、オーレリアが涙ぐましい努力をしている日々、アーヴァインが軍務の隙間にコーベット家を訪ねてきてくれた。
夕食を一緒にということで、それまでの少しの時間、二人はいつものごとく庭を散歩する。
ただ、この時、アーヴァインがどこか落ち着かないような難しい顔をしていた。こういう顔になるにはどのような理由が考えられるだろうか。
以前ならまだしも、婚約してからこういう顔をされたことはない。何が気に入らないのだろう。
婚約は絶対に破棄しないという約束だ。だから、婚約破棄を切り出される心配はしていない。
では、何か。
アーヴァインだって若い男だ。何かの弾みで別の女性に手をつけてしまったから、愛人を持つという話だったらどうしようか。結婚はするけれど、愛人を持たないという約束はしていないとか、そんなオチがあったりして。
そうか、世の中は厳しいのだから、こんなに幸せでいられるはずがなかった。
頭のどこかではそんなことも考えていたけれど、こういうオチかぁと妙に納得した。
オーレリアは一人でぐるぐると考えて無言になっていた。
この間、アーヴァインが何かを話しかけていたらしいが、まったく聞いていなかった。
「……どうした?」
気づかわしげに言われた。
「い、いや、どうもしない」
引きつった笑みを浮かべるオーレリアに、アーヴァインがどこか困惑して見えた。それから嘆息する。
「もしかして、ユリシーズから何か聞いたのか?」
兄は何か知っているらしい。
しかし、こんな内容はとても言えたものではないだろう。
そもそも、兄もこのところ仕事が忙しく、夕食の時くらいしか顔を合わせていない。その場に両親がいたのでは余計に言えないだろう。
「し、知らないよ?」
本当に知らない。聞いてない。
それなのに、アーヴァインはオーレリアの動揺を感じ取ったのか、急に手を握った。
ドキリとしてしまう。こんな時でもやっぱり、この人のことが好きだと思う。
アーヴァインは困ったように言った。
「演習のためにしばらくラティマーへ滞在することになった」
「えぇ?」
「早くて一ヶ月、長引けば三ヶ月は帰れない」
「…………」
オーレリアは手を握られたまま、無言で目を瞬いた。
ああ、愛人じゃなかった。
なんだ、言いにくそうにしてたから何事かと思えば、そんなことかと体から緊張が抜けていった。
「それで、当分は会えなくなるから――」
切ない目をされたが、オーレリアは安堵するばかりである。妙に明るい顔をしていたかもしれない。
「ああ、なんだ、そんなことか」
「そんなこと……」
オウム返しにつぶやいている。
もちろん、会えないのは寂しいけれど、オーレリアは子供ではない。軍務で赴くのだとわかっていて、それで行くなと言う気もない。仕方のないことだから大人しく待てるつもりだ。
それなのに、アーヴァインはそのオーレリアの物わかりのよさが気に入らなかったのかもしれない。
「そんなこと、な」
また繰り返している。
もしかして、傷ついたのだろうか。そんな、まさかとは思うけれど。
「い、いや、あたしも行儀見習いとか頑張って待ってるから、さ」
アーヴァインがいない間に上達して、帰ってきた時にはびっくりさせてやりたい。
それとも、アーヴァインはオーレリアに駄々をこねてほしかったのか。
拗ねてみせる自分を想像するだけで寒い。そういうのは無理だ。向いていない。
甘え下手でごめんな、と思う反面、どうしても無理だ。
アーヴァインはこの時、深々と嘆息した。顔が怖い。
「物わかりがよくて助かるけどな」
助かるけど、つまらない、とそんなひと言を呑み込んだのでなければいいけれど。
ところで、ラティマーというのはどの辺りだっただろうか――。




