〈41〉予行練習
オーレリアがホールに戻ると、アーヴァインばかりでなく、兄とエリノアも心配そうにしていた。オーレリアは扇で顔を隠しながら目だけで笑ってみせる。
「ちょっと野暮用で」
「なんだかすっきりした顔をしているね?」
兄がすぐ、そこに気づいた。オーレリアはうんうん、とうなずく。
「まあね。ハリエットと和解した。多分」
「そうなのか? 信じていいかどうかは……」
アーヴァインが素直に呑み込めないのは、ハリエットの裏の顔をオーレリア以上に見てしまったからかもしれない。けれど、裏のそのまた裏は傷つきやすい女の子だったとも言える。
ハリエットの想いを兄とエリノアに聞かせるつもりはなかった。ハリエットもきっと嫌がるし、オーレリアは兄たちには曇りない幸せを築いてほしいのだ。
だからこそ、オーレリアはごまかすように笑っておいた。
「信じるよ。もう何もしないって。だから、いいんだ」
三人はスッキリしなかったかもしれないが、ハリエットの婚約披露の場はこうして和やかに幕を閉じたのだった。
お色直しをした後の、白地にグレーのレースがかかったドレスと清らかな真珠もハリエットにはよく似合っており、だからか彼女は晴れやかな笑顔を浮かべていた。
それを見守る婚約者の優しい目が、いつかハリエットの性格に驚くことはあるだろう。それでも、あの婚約者を見くびっているハリエットが思わず惚れるほどの度量を見せてほしい。
おめでとう、とオーレリアは二人に祝福を向けながら帰った。
◆
「――と、まあそういう事情だったんだ。とばっちりもいいとこだろ?」
オーレリアは翌朝、自宅の庭でアーヴァインと散歩をしながらハリエットとのやり取りを話した。終わってみると笑えるような内容だと今さらながらに思う。
アーヴァインはウィンター家のタウンハウスに住んでいるものだとばかり思っていたのだが、実際は軍の寮にいてあまり屋敷には戻っていないらしい。だから、二人が会う時はもっぱらコーベット家になるのだ。
アーヴァインは話を聞き終えると目を瞬かせた。
「そんなことで妹に嫌がらせをするものなのか……? とてもじゃないが信じられないな」
「男にとったら『そんなこと』かもしれないけどさ、ハリエットは真剣だったってことさ」
それを言うと、アーヴァインは目を眇めた。
「やけに庇うな?」
「う~ん、あの屈折具合も慣れたら可愛く思えてきてさ」
「……すごいな、お前」
ハハ、と軽く笑い飛ばすと、アーヴァインは柔らかく微笑んだ。
ああ、平和だなとぼんやり思う。
隣に好きな人がいて、もうすぐ婚約する。こういう幸せが世の中にはあると、ここへ来なければ知らないままだっただろうか。
庭を歩きながら、以前アーヴァインが登った木の辺りに差しかかる。それほど昔のことではないけれど、なんとなく懐かしい。
あの時の雛は無事に巣立っただろうか。立ち止まって木を見上げていると、アーヴァインはバツが悪そうに言った。
「実は、婚約式に交換する指輪を用意するのに、思えばお前の指のサイズを知らなかった」
「ああ……。そういえば、あたしも知らない」
「うん?」
「指輪なんてしたことないから、あたしも自分のサイズを知らないよ」
指輪なんてはめたことがない。そのことにオーレリア自身も始めて気づいたのだった。
呆れられたかなと思ってチラリとアーヴァインを見上げると、笑っていた。
「お前らしいな。じゃあ、今度指輪を合わせに、一緒に来てくれ」
「ありがと」
動じなくなったな、とオーレリアも可笑しくなった。
最初の頃は相性が悪いと思ったけれど、そうでもない。隣にいることが呼吸をするように自然に感じられる。
「婚約式って、結婚式の簡略化したものなんだよな? 白いドレスを着てするんだって」
婚約式をするのは貴族くらいだろう。庶民はやらない。
だから未知の世界ではあるけれど、結婚式なら少しはわかる。
「そうだな。結婚式に出席したことはあるか?」
「教会でやってるのを見たことはあるよ」
ただし、庶民の結婚式なんてものはそう形式ばったものではない。式すら挙げず、酒場で花嫁にベールだけつけて真似事のようなことをする人たちもいた。そこは先立つものがあるかないかの差だ。
小さな頃に偶然見た結婚式の様子を思い出そうとして、オーレリアは、はた、と気づいてしまった。
誓いの言葉を述べて、指輪を交換して、そして――。
花嫁のベールを捲り、花婿が花嫁の肩に手を添え、誓いの口づけを交わす。それが結婚式だ。
オーレリアはそこに思い至り、内心では激しく動揺していた。ちゃんと、できるかなと、自信がない。
急に黙ったオーレリアに、アーヴァインは首を傾げる。
「どうした?」
「えっ、いや、その……」
オーレリアは首を大きく振って、辺りに誰もいないかをしっかりと確認した。
その上で大きく深呼吸をし、気持ちを落ち着ける。――落ち着かないが、もう仕方がない。
アーヴァインの軍服の袖を引き、木の陰へ隠れるようにして移動した。アーヴァインは不思議そうではあったが、抵抗せずについてくる。
そして、オーレリアは木の裏側でボソリと、アーヴァインの目を見ずに言った。
「あのさ、あの時……あたし痺れてたし、あんまりよくわかってなくて。ああいうのって、『した』っていうのかな」
「何が?」
ここで訊き返すのはやめてほしい。わかりにくい言い方をしている自覚はもちろんある。あるのだが、これがオーレリアの限界である。
アーヴァインの袖を握り締める手に無駄な力が籠るばかりだ。
「だって、さ、結婚式って……するじゃないか。婚約式でも似たようなことするんだろ? ちょっと勝手がわからなくて」
一部、聞き取れないほど小声になってしまうのもオーレリアの限界によるところだ。
ああ、無理だな。まだちょっと難しい。作戦を練り直して今度にしよう。
オーレリアがそういう結論に達して力を抜いた時、アーヴァインの方が今さらになって気づいた。
「ああ、アレか。練習は必要だな」
「れ、練習……」
淡々と、甘い空気の漂わない口調でそんなことを言われた。
練習という表現は間違っていないのかもしれないが、なんとなく頂けない。
あまり乗り気でないのだな、とオーレリアは受け取ったのだが、それはアーヴァインなりの照れ隠しだったのかもしれない。低い声でボソリとつぶやく。
「言っとくが、俺がお前のことばかり考えるようになっていたのは、お前が思うよりずっと前だろうな。お前はいつだって自然に俺のことを引っかき回していた」
「へっ?」
急に握っていた袖を振り払われた。そして、すかさずアーヴァインの大きな手がオーレリアの頬を包む。背中が木にぶつかった。退くところがない。
どうしようかと戸惑っているうちにアーヴァインの顔が近づいた。
「やっと捕まえた」
そんなことを言ったかと思うと、アーヴァインはオーレリアの口を塞いだ。
互いの熱を溶け合わせるかのようにして唇が擦れる。
ほぼ不感だったあの時とはまったく違い、恥ずかしいとかそんなことを考える間もないほど、アーヴァインの小さな動きのひとつひとつがオーレリアに響いてくる。
緊張で体が強張ったまま、こちらも何かしなくちゃいけないのかと困惑しているうちに息が続かなくなった。苦しくなったオーレリアがアーヴァインの腕を強くつかむまで、アーヴァインは自らやめようとはしなかった。
顔を離すと、二人とも息が上がっていた。この時になって恥ずかしさが押し寄せてきたけれど、アーヴァインはそんなオーレリアを軽く抱き締めた。アーヴァインの心音も早くて、それにほっとする。
ただ――誓いの口づけはこういうものだっただろうか。
こんなに長かったかな、と思い出そうとするけれど、頭がほわほわとしていて使い物にならない。
「腰が引けてる」
柔らかな、笑いを含んだ声で言われた。
「え、そ、そりゃあ……」
仕方ないじゃないか。慣れていないんだから。
「自然にできるまで、もうしばらく練習は必要だな」
ん、とうなずいて曖昧な返事をしておいた。多分それも、嫌ではなかったからだ。他の男とは絶対に無理だと思うのに。
その返答に気をよくしたのか、アーヴァインは顔を合わせるとは『練習』と言った。
そして――。
婚約式は結婚式の簡略化されたものであり、誓いの口づけはないのだということをオーレリアが知ったのは婚約式当日である。
目を逸らしたアーヴァインは確信犯だった。
【 The End 】
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました!
ここで完結ではありますが、また番外編や続編を書く可能性はあるかも?




