〈31〉父娘
陸地が見えてくると、オーレリアには船の進みが遅く感じられてもどかしかった。
まだか。まだ着かないのか。
もう昼下がりだ。朝には着けると思ったのに――。
あそこにもう見えている。オーレリアが毎日家と往復していた倉庫が遠目に見えるのに。
荷物をまとめて甲板で右往左往していた。
「とりあえず落ち着け」
アーヴァインに言われ、オーレリアは足を止めたが、気持ちは逸ったままだった。
船が停まる時の衝撃が待ち遠しい。早く早くと急かすように船員を見ていたら、それもアーヴァインに止められた。
「船員を睨むな。もうすぐだから」
「う……」
「皆姉御に会いたがってますから、喜びますよ」
コリンはどこかのん気なことを言う。喜ぶゆとりなんてないだろうに。
そんなことをしていると、碇が下ろされ、波止場に跳ね橋がかかる。船員が挨拶をしながら乗客を見送るところだが、オーレリアはそれをすり抜けて跳ね橋を誰よりも先に駆け抜けるのだった。
ワンピースの裾を乱し、はしたないとささやかれながらも、そんなことはどうでもいい。
倉庫には立ち寄らず、まっすぐに家へと向かった。港からは近い。
走りながら、やつれた親父とどんな顔で対面したらいいのだろうと怖くなる。それでも、足は止まらなかった。
ここを出てひとつの季節が巡った程度だ。まだそんなにも時が経ったわけではない。
それなのに、ここにいた時の自分がひどく遠い。
毎日何回も上り下りしていた鉄階段は相変わらず錆が浮いて汚くて、オーレリアはヒールの靴でカンカンと音を立てながら階段を駆け上った。
鍵なんてろくにかけた覚えもない扉を思いきって開く。
「親父!!」
悲痛な叫びが狭い室内に響いた。そして、すぐ近くでくぐもった声が返る。
「んぁ?」
気の抜けるような声だった。オーレリアは目を疑った。
髪を振り乱して駆け戻ったオーレリアが目にしたのは、粗っぽく板を打ちつけて修繕された机の前でホットドックを頬張る親父の姿だったのだ。
痩せたと。どこがだ。相変わらず筋肉の塊じゃないか。
「な、な、な、な……っ」
あまりのことに言葉が出てこない。そんな娘を上から下まで眺め、親父はホットドックを飲み込んだ。
「なんだてめぇ、出戻るのが早すぎらぁ! バカじゃねぇのか!」
それだけ言うと、親父はまたホットドックにかぶりつく。丁度昼飯の時間だった。いつもこうして決まった時間に家で昼飯を食べてから仕事に戻る。つまり、いつものルーティンをこなせる程度には元気なのだ。
「何が寝たきりだ! 瘦せ細っただっ! 殺しても死なないくらいにピンピンしてるじゃないかっ!!」
心配した分、その反動で腹が立って、オーレリアは目にいっぱい涙を浮かべながら拳で殴りかかるという裏腹な行動に出ていた。
しかし、その渾身の一撃を親父はあっさりと分厚い手の平で受け止めた。しかも、食べるのをやめない。
「なんだこの弱っちい拳は。大体そのナリで殴りかかるんじゃねぇよ。恰好が変わってもバカは直ってねぇじゃねぇか」
「ふざけるな、このバカ親父がっ!!」
罵倒し合ってギャアギャア騒いでいると、昨日別れたような気がしてきた。
――オーレリアが部屋の片づけなんて何ひとつしないまま、何も持ち出さずに行ったのは、またひょいっと帰ってくると思っていてほしかったからだ。ここを忘れて去るんじゃないと。
いつも、他愛のない一方的なメッセージを送ったのも、ちゃんと意味がある。
干し肉の賞味期限が近いと書いた。つまり、オーレリアの目が届かなくても、『ちゃんとメシを食え』という意味。
靴だってそうだ。ボロ靴なんて履いていて転んだらどうする。いつまでも若いつもりでいないで体を労われ。
二人にしかわからないやり取りだとしても、それで十分だった。
口汚いが、親父はちゃんとわかっている。そういう男だから。それは育ててもらったオーレリアが一番よく知っている。
そんな時、階段を上ってくる足音がした。
「頭、ご無沙汰してます!」
明るい声だ。その瞬間、コリンが最初から親父がピンピンしていることを知っていたのだと気づいた。
「おお、コリン。このバカにつき合わせて悪ぃな。元気だったか?」
親父がコリンには少し優しい。
その間も親父は止めたオーレリアの拳を片手でギリギリ絞めてきた。痛みに悶絶したが、コリンは気づかずニコニコしていた。
「見ての通り、元気です! 向こうで皆さん親切にしてくれてますし、なんとかやれてます。でも、頭や皆と会えないのはちょっと寂しくて」
「そうか。それで妙な嘘をついたわけか?」
親父の笑顔が不気味だった。こめかみに青筋が浮いている。
コリンの頬を冷や汗が一筋流れた。
「い、いや、僕が一人で考えたわけじゃないですよ? 人足の皆も、頭は姉御に会いたくても会いたいなんて言える人じゃないのをわかっているから、こうでもしないと二人を会わせられないなってことになりまして……」
「ほぅ」
親父はやっとオーレリアの手を放してくれた。まったく、馬鹿力は衰えを知らない。手がジンジンする。
「コリン、あんたのあの涙はなんだったのさ。迫真の演技すぎるよ」
じっとりと睨むと、コリンは目を泳がせた。
「頼まれたお使いの往復に全力疾走をした後、屋敷に入ってから息を止めてみたら苦しくて泣けてきました。姉御を騙すのならそれくらいしないと」
「……殴っていいかい?」
「ひゃっ」
コリンは頭を抱える素振りを見せたが、顔には緊張感がない。
これが狂言であってくれてよかったのも事実だ。本当だったら立ち直れない。
よかったと心底思った。
そこでようやく、オーレリアは気がついた。
「なあ、コリン。アーヴァインは?」
その名前に親父の耳がピクリと動く。コリンは、あはっ、と明るく笑った。
「倉庫で待っていてもらってます!」
「倉庫……。皆いるよな?」
「皆さんお仕事中でしたよ」
と、コリンは悪びれもせずに答える。気の荒い連中のところに、見ず知らずの男をポイッと置いてきたわけだ。
「皆にはちゃんと客人だって伝えたんだろうね?」
「はい。姉御についた『悪い虫』ですって紹介しました!」
「……最悪だ」
オーレリアは慌てて、今度は来た時とは逆に家を飛び出した。なんだぁ? と父が不可解そうな声を上げているが、今は構っていられない。
嫌な予感しかしないのだ。




