〈30〉交代
親父のいる港町アストリーへ向けて、一番早い船でも出航は翌日の昼であった。もどかしいが、それに乗るしかない。
オーレリアは、自分では落ち着いているつもりだった。それでも、周りからしてみれば危なっかしく見えたのかもしれない。
船に乗るために馬車を使った道中、兄がずっとオーレリアの肩を抱いて摩ってくれていた。
コリンは御者台にいる。そちらに乗ると言ったのだ。コリンも動揺している自分を見せたくないのかもしれない。
荷物は少なく、コリンがトランクをひとつ持ってくれただけだ。
馬車を降り、船着き場に行くと、兄がアストリー行きの船の切符を買った。予約は父がしてくれてある。
オーレリアが見慣れている貨物船ではなく、豪華な客船だ。乗るのは人生で二度目である。
オーレリアたちが急いでも、船は出航の時間にならなければ出ない。慌てても駄目だ。血が凍ったように冷えた心臓を抱えながら、オーレリアは客船へと近づく。
すると、船にかかる跳ね橋の手前に背の高い青年の姿があった。小さいながらに手荷物を持っているから、見送りではない。乗客だ。
白いシャツにツイードのベスト、チーフタイ――脚が長くてスタイルがいい。アーヴァインみたいだなと思ったら、アーヴァインだった。
いつもより前髪がいくらか額にかかっていて、よく見ないと誰だかわからなかった。そもそも、軍服以外の恰好を見たことがなかったのだ。
オーレリアがあんぐりと口を開けていると、兄が不意に後ろからオーレリアの肩に両手を載せた。
「動揺する君を送り届けるのに、一番の適任はアーヴァインだ。昨日のうちに頼んでおいたから」
「い、いや……」
後ずさろうとしたオーレリアを、兄はいつになく力を込めて押した。そして、アーヴァインに向かって微笑む。
「お前は今までとにかく真面目だったから、休暇が余っていて助かるよ」
すると、アーヴァインは顔をしかめた。
「その真面目っていう評価も、近頃は怪しいところだ」
それは、オーレリアを助けに走ってくれたせいだろうか。オーレリアが顔を強張らせたせいか、アーヴァインは気まずそうに目を背けた。
「いや、冗談だ」
「でも、急じゃないか。無理言ったんだろ?」
「数日間、俺が抜けたくらいでどうにかなるほど軍は脆弱じゃない」
それはそうかもしれないけれど。
アーヴァインを見上げるオーレリアの視線は、いつになく弱々しかったに違いない。親父のことがあるのと、私服のアーヴァインを見慣れていないから戸惑いも大きい。ただでさえ複雑なものを抱えているこの状況だ。普段通りには振る舞えなかった。
社交場でのことは一旦置いておこう。今のオーレリアには処理できない。
「僕の大事な妹を頼んだよ」
と、ユリシーズはアーヴァインに向け、船の切符を手渡す。アーヴァインはうなずいてそれを受け取った。
――人がよすぎる。
困っているから、不安そうだから、つき合ってくれる。
いつでもそうだ。文句を言っても、結局のところはつき合ってくれる。
こういう人だから好きではあるのだ。それでも、この優しさは時々不可解だ。
見返りもなく、どこまでも助けてくれる。アーヴァインが何を考えているのかがさっぱりわからない。
オーレリアがぼうっとしたせいか、アーヴァインが短く言った。
「行くぞ」
「あ、ああ……」
この時、トランクを抱えたコリンが、噛み締めた歯の奥からつぶやく。
「ユリシーズ様の裏切り者……」
どうやら、この交代を不服としているようだ。
兄は、聞こえなかった振りをしてそそくさと去っていった。
◆
オーレリアは、兄がアーヴァインと交代したことに関し、嬉しいというよりも戸惑いの方が強い。今は余計なことを考えている場合ではない。浮ついた気分にはなれないのだ。
部屋はふたつ取ってあって、片方にオーレリア、もうひとつにアーヴァインとコリンである。一人で着られる簡単なワンピースしか持ってきていない。それでも、こんな女性らしい服装のオーレリアを見たら、親父は気が遠くなるかもしれない。
しばらく船室にいた。部屋は今のオーレリアの自室よりも少し手狭かという程度の広さはある。調度品も陸の客室と変わりないほどに整えられていて、居心地が悪いということはない。
それでも、じっとしていると気が塞ぐ。不安が募る。
オーレリアは甲板で潮風を浴びたくなった。
港町で育ったのだ。潮の香りに心が落ち着くはずだ。
甲板の上に立つと、日差しが柔らかく降り注いでいた。懐かしい海の香りが鼻腔をくすぐる。人がまばらな甲板でオーレリアは船べりに立ち、海を眺めた。波が船とぶつかって立てる音がどこか遠い。
大きな船だから、海面まで離れている。下を見ていると、揺れる波が心を乱すようだ。
潮風が懐かしいからこそ、思い起こすのは昔のことばかり。
いつも怒鳴り合っていて、それですら一緒に過ごした時間は楽しいものだった。
心で繋がっているから、離れてもそれは変わらない。けれど、そんなものは生きているから言えることだ。
いつかはオーレリアを置いて逝ってしまうのだとしても、それは今であってはいけない。まだ、少しも心の準備ができていないのだ。返さなくてはならない恩が溢れている。
考えれば考えるほどにつらくなって、オーレリアの目から涙が頬を伝うことなく海に落ちた。海水が塩辛いのは、こんなふうに泣いている人が多いからだと嫌だなと思う。
その時、オーレリアの肩をグイッと引き戻す手があった。
「あんまり乗り出すな。危ない」
これくらいで落ちたりしない。
それでも、アーヴァインはどう声をかけていいものか迷ったのだろう。肩に載った手からじんわりと熱が伝わる。
何かを言わないとと思った。それでも、上手く切り返せない。涙を溜めた目で一度アーヴァインを見ると、それから船べりに載せた手を祈るように組んでうつむいた。
「ごめん、今、ちょっと……」
上手く言えない。
来てくれてありがとうと礼のひとつも言いたいけれど、気持ちが落ち着かない。
今まで、こんな不安は知らない。世界がひっくり返ったほどに足元がおぼつかないのだ。
アーヴァインは何も言わなかった。ただ無言で、組んだまま小刻みに震えるオーレリアの手を片手で包み込むようにして握る。
少し強めに、それでも痛くはない。
震えは止まらないけれど、心の中に楔のようにして何かが打ち込まれたように、揺れる気持ちに拠りどころができたような感覚だった。
ほんの少しだけ繋がって、触れ合っている。それだけで違うのだ。
オーレリアにとって、アーヴァインが特別であることは、もう疑いようのないことで――。
それからしばらく、アーヴァインは無言のままオーレリアの隣にいた。




