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令嬢は樽と共に  作者: 五十鈴 りく
本編

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30/84

〈30〉交代

 親父のいる港町アストリーへ向けて、一番早い船でも出航は翌日の昼であった。もどかしいが、それに乗るしかない。


 オーレリアは、自分では落ち着いているつもりだった。それでも、周りからしてみれば危なっかしく見えたのかもしれない。

 船に乗るために馬車を使った道中、兄がずっとオーレリアの肩を抱いて摩ってくれていた。


 コリンは御者台にいる。そちらに乗ると言ったのだ。コリンも動揺している自分を見せたくないのかもしれない。

 荷物は少なく、コリンがトランクをひとつ持ってくれただけだ。


 馬車を降り、船着き場に行くと、兄がアストリー行きの船の切符を買った。予約は父がしてくれてある。

 オーレリアが見慣れている貨物船ではなく、豪華な客船だ。乗るのは人生で二度目である。


 オーレリアたちが急いでも、船は出航の時間にならなければ出ない。慌てても駄目だ。血が凍ったように冷えた心臓を抱えながら、オーレリアは客船へと近づく。


 すると、船にかかる跳ね橋の手前に背の高い青年の姿があった。小さいながらに手荷物を持っているから、見送りではない。乗客だ。

 白いシャツにツイードのベスト、チーフタイ――脚が長くてスタイルがいい。アーヴァインみたいだなと思ったら、アーヴァインだった。


 いつもより前髪がいくらか額にかかっていて、よく見ないと誰だかわからなかった。そもそも、軍服以外の恰好を見たことがなかったのだ。

 オーレリアがあんぐりと口を開けていると、兄が不意に後ろからオーレリアの肩に両手を載せた。


「動揺する君を送り届けるのに、一番の適任はアーヴァインだ。昨日のうちに頼んでおいたから」

「い、いや……」


 後ずさろうとしたオーレリアを、兄はいつになく力を込めて押した。そして、アーヴァインに向かって微笑む。


「お前は今までとにかく真面目だったから、休暇が余っていて助かるよ」


 すると、アーヴァインは顔をしかめた。


「その真面目っていう評価も、近頃は怪しいところだ」


 それは、オーレリアを助けに走ってくれたせいだろうか。オーレリアが顔を強張らせたせいか、アーヴァインは気まずそうに目を背けた。


「いや、冗談だ」

「でも、急じゃないか。無理言ったんだろ?」

「数日間、俺が抜けたくらいでどうにかなるほど軍は脆弱じゃない」


 それはそうかもしれないけれど。

 アーヴァインを見上げるオーレリアの視線は、いつになく弱々しかったに違いない。親父のことがあるのと、私服のアーヴァインを見慣れていないから戸惑いも大きい。ただでさえ複雑なものを抱えているこの状況だ。普段通りには振る舞えなかった。


 社交場でのことは一旦置いておこう。今のオーレリアには処理できない。


「僕の大事な妹を頼んだよ」


 と、ユリシーズはアーヴァインに向け、船の切符を手渡す。アーヴァインはうなずいてそれを受け取った。


 ――人がよすぎる。

 困っているから、不安そうだから、つき合ってくれる。


 いつでもそうだ。文句を言っても、結局のところはつき合ってくれる。

 こういう人だから好きではあるのだ。それでも、この優しさは時々不可解だ。


 見返りもなく、どこまでも助けてくれる。アーヴァインが何を考えているのかがさっぱりわからない。

 オーレリアがぼうっとしたせいか、アーヴァインが短く言った。


「行くぞ」

「あ、ああ……」


 この時、トランクを抱えたコリンが、噛み締めた歯の奥からつぶやく。


「ユリシーズ様の裏切り者……」


 どうやら、この交代を不服としているようだ。

 兄は、聞こえなかった振りをしてそそくさと去っていった。



     ◆



 オーレリアは、兄がアーヴァインと交代したことに関し、嬉しいというよりも戸惑いの方が強い。今は余計なことを考えている場合ではない。浮ついた気分にはなれないのだ。


 部屋はふたつ取ってあって、片方にオーレリア、もうひとつにアーヴァインとコリンである。一人で着られる簡単なワンピースしか持ってきていない。それでも、こんな女性らしい服装のオーレリアを見たら、親父は気が遠くなるかもしれない。



 しばらく船室にいた。部屋は今のオーレリアの自室よりも少し手狭かという程度の広さはある。調度品も陸の客室と変わりないほどに整えられていて、居心地が悪いということはない。

 それでも、じっとしていると気が塞ぐ。不安が募る。


 オーレリアは甲板で潮風を浴びたくなった。

 港町で育ったのだ。潮の香りに心が落ち着くはずだ。


 甲板の上に立つと、日差しが柔らかく降り注いでいた。懐かしい海の香りが鼻腔をくすぐる。人がまばらな甲板でオーレリアは船べりに立ち、海を眺めた。波が船とぶつかって立てる音がどこか遠い。


 大きな船だから、海面まで離れている。下を見ていると、揺れる波が心を乱すようだ。

 潮風が懐かしいからこそ、思い起こすのは昔のことばかり。


 いつも怒鳴り合っていて、それですら一緒に過ごした時間は楽しいものだった。

 心で繋がっているから、離れてもそれは変わらない。けれど、そんなものは生きているから言えることだ。


 いつかはオーレリアを置いて逝ってしまうのだとしても、それは今であってはいけない。まだ、少しも心の準備ができていないのだ。返さなくてはならない恩が溢れている。


 考えれば考えるほどにつらくなって、オーレリアの目から涙が頬を伝うことなく海に落ちた。海水が塩辛いのは、こんなふうに泣いている人が多いからだと嫌だなと思う。


 その時、オーレリアの肩をグイッと引き戻す手があった。


「あんまり乗り出すな。危ない」


 これくらいで落ちたりしない。

 それでも、アーヴァインはどう声をかけていいものか迷ったのだろう。肩に載った手からじんわりと熱が伝わる。


 何かを言わないとと思った。それでも、上手く切り返せない。涙を溜めた目で一度アーヴァインを見ると、それから船べりに載せた手を祈るように組んでうつむいた。


「ごめん、今、ちょっと……」


 上手く言えない。

 来てくれてありがとうと礼のひとつも言いたいけれど、気持ちが落ち着かない。


 今まで、こんな不安は知らない。世界がひっくり返ったほどに足元がおぼつかないのだ。


 アーヴァインは何も言わなかった。ただ無言で、組んだまま小刻みに震えるオーレリアの手を片手で包み込むようにして握る。

 少し強めに、それでも痛くはない。


 震えは止まらないけれど、心の中に楔のようにして何かが打ち込まれたように、揺れる気持ちに拠りどころができたような感覚だった。


 ほんの少しだけ繋がって、触れ合っている。それだけで違うのだ。

 オーレリアにとって、アーヴァインが特別であることは、もう疑いようのないことで――。


 それからしばらく、アーヴァインは無言のままオーレリアの隣にいた。

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