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令嬢は樽と共に  作者: 五十鈴 りく
本編

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28/84

〈28〉偉大な兄

 その日の晩、オーレリアは自室でワインを飲みつつ樽に拳を叩きつけていた。

 自己嫌悪と、それと、正体不明のやり場のない感情によって。


 本気でどこかに雲隠れしたい心境だった。入れる穴もないことだから、この樽の中にでもしばらく収まっていようかと真剣に考えてしまうが、それはそれで逃げ場がなくて困る。


「あぁ、モヤモヤする……」


 あんまりにも樽をドスドスと叩くから、兄が不審に思ったようで扉をノックした。


「オーレリア、大丈夫かい?」

「う~ん」


 オーレリアがドアを開けると、ガウンを羽織った兄が立っていた。樽の上のワインを見て、ニコリと笑う。


「僕にも飲ませてもらえるかな?」

「いいよ」


 むしろ、一人で飲むよりも気がまぎれるかもしれない。グラスを取り出して豪快にワインを注ぐ。オーレリアがたっぷりと注いだワインを、兄は優雅に口に含んだ。


「アーヴァインのこと、気にしてるんだろう?」


 そのひと言に動揺して、オーレリアはワイングラスの軸を折ってしまいそうなほど力強く握りしめていた。


「や、そ、それは……」


 あれからずっと、食事をしていても入浴していても、アーヴァインのことを考えていた。気がつくと、オーレリアはすぐ自分の唇に触れている。

 人助けのためにやむなく行った行為を、いつまでも気にしているのはオーレリアの方だ。


 しかし、兄が言った言葉の意味はオーレリアが考えていたものとは違った。


「アーヴァインなら君に自分を責めてほしくないだろうから、いいんだよ。アーヴァインはさ、グレンダ嬢にはこれが最初で最後だってきっぱりと言うんじゃないかな。グレンダ嬢もきっと、そこは覚悟していると思う」

「なんだよ、それ?」

「その人だけを見ているのなら余計に、自分に気がないことは痛いほどにわかるはずだ。ハリエット嬢は、諦めるも振り向かせるもグレンダ嬢次第だと言うんだろう。そのきっかけを最後に与えた――まあ、やり方はよくないけれど」


 よくないどころの話ではない。グレンダにもそこまでの義理があるわけではないと言うし、本当に彼女の真意がよくわからない。

 オーレリアが苦しめばいいと思ったにしても、そもそもハリエットにそこまで恨まれる覚えがないのだ。

 彼女のように笑顔で塗り固められた人の心は読めない。それが怖い。


 オーレリアがそうやって沈んでしまうからか、兄は心配そうだ。


「なるようにしかならないよ。だから、いつもの元気なオーレリアに戻っておくれ。父様も母様も心配しているから」


 兄にしては楽天的なことを言う。


「なんだよ、大人しくっておしとやかな方が令嬢らしいだろ?」

「そういうの、今さらいいよ」


 なんて言って苦笑された。

 兄はグラスを樽の上に置くと、急に腕を広げる。


「おいで、オーレリア」

「うん?」


 オーレリアは首を傾げながらグラスを置くと、両手を広げる兄の前に回り込む。兄は、いつかのやり直しをするようにして、ふわりとオーレリアを包み込んだ。その上で、よしよしと頭を撫でてくる。


 まったくの子供扱いだ。小さい頃にできなかったから、今頃やってみたくなったのだろうか。


「不安な時、誰かに抱き絞められると少し心が落ち着くだろう?」

「ああ、そうかもしれないね」


 兄の腕は頼りないけれど、それでも、優しさが伝わる。


 ――誰と比べて頼りないと思ったのか。

 そこを突き詰めていくと、また胸の奥が騒がしい。そのことを、兄はどうやってだか察した。


「こういうのは本来なら身内じゃなくて好きな男が一番なんだけどね」

「なっ!」


 何言ってる、とオーレリアは怒鳴りたくなったが、呂律が回らなかったのだ。

 兄は妙にニコニコしていた。


「顔が赤いよ、オーレリア」

「ワイン飲みすぎた!」

「いつも、ワインなんて水と一緒だから酔えないって言ってるじゃないか。いつからそんなに弱くなったんだい?」


 意地悪だ。兄が意地悪になった。

 アーヴァインが優しくなったから、代わりに兄が意地悪になったのだ。


 言い返せもせずに不貞腐れたオーレリアの頭を、兄はまた撫でてくる。払い落したくなったが。


「可愛いなぁ」


 兄でなければ叩きのめしたいひと言である。今まで、オーレリアに向かって『可愛い』なんて言った男が他にいただろうか。そんな命知らずはいない。

 しかし、兄はあまつさえ繰り返す。


「今日のオーレリアはいつになく可愛い」

「兄さん、そろそろ怒るよ?」

「えっ? そこ、怒るところかい?」


 噛み合わない兄妹である。

 それでも、今日は兄の方が上手(うわて)であった。


「アーヴァインを見るオーレリアの表情がいつもと違って、うっとりと恋してるみたいに見えたよ」


 ガッ、とワイングラスを引っかけて樽の上に零した。勿体ない。


「そ、そんなわけ――っ」


 ない。恋する乙女なんて柄か。

 下町で育って、喧嘩に明け暮れて、男たちを蹴飛ばして生きてきたオーレリアに限って、そんなはずはない。


 ただ、それならばどうしてこんなに動揺してしまうのだ。この感情の動きに見合った説明を、他にどうつければいいのだろう。


 ずっと、アーヴァインがグレンダの横にいて一緒に踊るところを想像してしまう。グレンダは嬉しそうに胸を押しつけていて、アーヴァインは迷惑そうにしつつも実はまんざらではないのではないか――と考えて苛々する。


 いつも、何かあると助けてくれたから、アーヴァインに甘え癖がついている。

 他人なのに。兄の友達だからといって、妹の面倒まで見る理由は別にない。


 オーレリアとアーヴァインは他人だ。他人同士、間には何もない。あるのは隙間だけ。

 その隙間を埋めたいと心のどこかで願っているから、そのなんとも言えない関係に寂しさを覚えてしまうのだとしたら――。


 兄はクスクスと声を立てて笑っている。妹がこんなに困っているのに、なんで嬉しそうなんだと揺さぶってやりたくなった。


「恥ずかしいかもしれないけど、認めたら楽になるよ。愛しい気持ちは止められないから」

「……それ、エリノアに言いなよ」

「いつも言っているさ」


 なんてすごい兄だろうか。

 アーヴァインならまず言わないだろう。兄みたいに歯の浮くようなことをスラスラ言えるようになったら、それはもう別人だ。


 そういう言葉が常にほしいわけじゃない。何も言わなくても、そこにいるだけで不思議と安心する。そんなところに、もしかすると惹かれているのかもしれない。


「な? アーヴァインはいいヤツだって最初に言った通りだろ?」


 オーレリアは曖昧に、ん、と唸ってごまかした。


「大丈夫だよ。それこそアーヴァインは虎じゃないんだから、逃げなくていい」


 いや、虎の方がいいかもしれない。今は虎の方が怖くない。


 少しも好きじゃないと、迷惑だと言われることがこんなにも怖い。

 なんとなく、グレンダの心境を思うと切なかった。


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