〈18〉たくさん学んだ
診療所を出ると、さらにさっぱり道がわからなかった。
これは絶対にアーヴァインとはぐれないようにしなくては。
ここで捨てていかれないためには、喧嘩腰にならないよう下手に出るべきかもしれない。
そう意気込むオーレリアの方をアーヴァインはじっと見て、それから嘆息した。
「お前、あのままだったらさすがに危なかったのはわかっているな?」
「うん」
オーレリアは子供のように素直にうなずいた。それなのに、アーヴァインは顔をしかめる。いつもその顔だ。
「うん、じゃない」
「今度から、一度に相手にするのは三人までにする」
「……今回のことで学んだのはそれだけか?」
そんなはずはない。たくさん学んだ。
首を振ったら、すでに崩れていた髪型が解けた。オーレリアはそれをほぐしながら思い起こして口惜しくなる。
「やっぱりドレスは駄目だ。裾を踏まれたんだ。そしたら身動きが取れなくて」
「ほう」
「それと、認めたくはないけど、体が鈍ってる。勘も鈍った。鍛え直さないと」
毎日美味しいものを食べて踊っている場合ではなかった。飼い馴らされた猫のようになっている自分が情けない。
最大級の反省をしているというのに、アーヴァインは苛々して見えた。
「そうじゃない」
「えー?」
不正解だと。何がいけないのだ。
真剣に眉根を寄せて考えるオーレリアに、アーヴァインは厳しい顔を向けた。少し柔らかい表情をしていたかと思えば、すぐにこれだ。
そして、言われたひと言がこれである。
「お前は女だっていう自覚がなさすぎる」
「そんなことないぞ。男だったらドレスは着ない」
一体何を言うのやら。不可解な。
けれど、アーヴァインは、ちっともわかってないというような顔をした。急に手を伸ばし、オーレリアの長い金髪に触れる。
きょとんとして立ち止まると、アーヴァインは下ろしているオーレリアの髪を、オーレリアの首にマフラーのようにして巻いた。
「自覚があるっていうのなら、傷を作るな。痕が残るだろうが。それから、いくら腕っぷしを鍛えても気を失ったら終わりだ。何をされるかわかったものじゃない」
通りかかったショーウインドーに自分たちの姿が映る。金髪の下の首筋には、絞められた指の跡がくっきりと残っていた。アーヴァインはオーレリアと向き合っている間、ずっとこれを見ていたのだ。無茶をするなと言いたくもなったのだろう。
余計なお世話だとは思わない。オーレリアも逆の立場なら思わず口うるさくなってしまうだろう。
「そうだな。気をつけるよ」
ポツリと零したら、アーヴァインは疑わしげな眼をした。まったく信じていないふうだ。
「秒で忘れるなよ」
「人を健忘症みたいに言うな」
さすがに秒はない。もう少しくらいは覚えているつもりだ。
「あんたってさ、いつも丁度いい時に現れるよな。雛が落ちてきた庭先にも来たし」
そう言ったら、何故か余計にアーヴァインの顔が険しくなった。いつも以上に低い、聞き取りにくい声が零れる。
「あの時はお前に謝りに――」
「え?」
「なんでもない」
なんでもないと怒ったように言う。もうこの話題はいいとばかりに小言をくれた。
「とにかく、今後は何かあっても自力でなんとかしようとするな。いつでも俺が通りかかるわけじゃない。何かあってから時間を巻き戻せると思うな。大体お前は――」
こってり叱っておかないと懲りないと思われたのだろうか。口うるさい。
この時、ずっと後ろを黙って歩いていたコリンがボソボソと嫌にかすれた声でつぶやいた。
「なんでひと言、心配をかけるなって言わないんでしょうね?」
オーレリアとアーヴァインは、とっさに、は? と声を漏らして振り返った。
そうしたら、コリンがすっかり拗ねていた。
「なんですか、その息ピッタリな振り向き方」
「どうした、コリン?」
やんわりと問いかけてみるが、コリンは不機嫌だった。
「いーえ、別にっ。ただ、なんでアーヴァイン様はひと言、『俺に心配かけるな』って言えないのかなって思っただけです」
その途端、アーヴァインが顔を引きつらせていた。それはそうだろう。
「家族にだろ? 兄さんのこと放ってきたし、捜してるよな?」
アーヴァインなら、心配よりも『迷惑をかけるな』の方がしっくりくる。しかし、何故かコリンはプリプリと怒っていた。
「さあ? でも、紳士ならそういう気遣いをするものなんじゃないですか? ユリシーズ様なら、相手が誰でも言いますよ。女性扱いしていないのはどっちですかね?」
「コ、コリン?」
気の弱い子だと思うと、いきなり軍人に意見する。さっきもゴロツキに体当たりした。そうした勇気も持っている。
ちぐはぐなようでいて、そうでもない。コリンはいつでもオーレリアのことを第一に考えてくれている。オーレリアの危機には立ち向かうし、違うと思えばそれを言う。
ずっと昔に助けてもらった恩を、コリンはいつまでも忘れないつもりらしい。
アーヴァインがコリンにやり込められた。額を押さえて黙っている。
痛快――なんて言ってはいけない。いけないが、顔が笑ってしまう。
笑いを堪えているところに汗を流した兄が駆け寄ってきた。
「オーレリア!!」
待っていてくれたらよかったのに、走り回って探してくれていたようだ。これは悪いことをした。
すっかり汚れているオーレリアと、何故か隣にいるアーヴァインとを見比べ、兄は肩で息をしながら泣きそうな顔になった。
「ごめんな、兄さん。ちょっとゴロツキに絡まれたんだけど、この『通りがかりの親切な人』が助けてくれてさ」
ポンポン、とアーヴァインの二の腕を叩く。
ゴロツキと喧嘩したことは内緒だ。首も髪で隠してた。
アーヴァインも言わない方がいいと思ったのか、ムスッとして黙っている。
「アーヴァイン、助かったよ……」
「首に縄をつけておいた方がいいんじゃないか?」
犬かよと突っ込みそうになったが、ここはやめておいた。兄がオーレリアの手をギュッと握り締め、悲愴な顔を向けてくる。
「女の子が軽はずみにうろついたら駄目だ。オーレリアに何かあったらと思うと、居ても立っても居られなかったよ。もう僕に心配させないでくれ」
本当だ、言ってる。笑ってはいけないのに面白い。
アーヴァインをチラリと見ると、バツが悪そうにそっぽを向いた。
これを手本にするのは、アーヴァインには無理だろう。それから、しなくていいと思う。
こんなことを言わなくても、心配しているから怒ったのはなんとなくわかったから。
アーヴァインが治療費を負担すると言ってくれたのも、オーレリアが父に頼むと今日の詳細を家族に語らなくてはならなくなるからだったりするのだろうか。ドレスの汚れはコケたとか言ってごまかせても、治療費はごまかして捻出できない。
仏頂面の下で色々と気を遣ってくれているのだ、これでも。
だからオーレリアはちゃんと感謝している。