〈16〉気分転換の予定
ほしいものなんて最初から考える気もなかった。とりあえず馬車が停まって商店街に降りた時、オーレリアは伸びをしたい気分だった。
人の行き来の多い往来。吹き抜ける風まで忙しなく感じる。
ここには貴族だけではなく、様々な労働階級の人がいる。こうした人たちの姿を見るとほっとしてしまうオーレリアは、やはり本来は『そちら側』にいるべきなのだろう。
それでも、家族が納得するまでは一家団欒を続けてもいいかな、くらいには考えているのだ。
こうしていると、ふと思い出すことばかりだ。親父たちは元気にしているかなと。
「どの店に入る?」
と、兄が問いかけてくる。オーレリアは困った挙句、思いついた。
「ああ、そうだ。大きめのジョッキがほしい。グラスだとワインが少ししか入らないから、何回も注ぐのが面倒だろ?」
「えぇと……」
「高いのじゃなくていいんだ」
もう少し可愛いものを要求してほしかったとして、だとしても樽をねだられた母よりはマシだろう。
「わかったよ。じゃあ、雑貨屋を見て回ろうか」
「ありがと、兄さん」
ほんの気晴らしだ。社交場みたいに気の滅入るところにばっかり顔を出していたら嫌になる。たまにはこうして気楽に出かけたいだけのことだ。
カラン、とドアベルを鳴らして兄が先に店に入った。ショーウインドーには宝石箱や香水瓶、女の子の好きそうな可愛らしい小物がたくさん並んでいる。
――この店、絶対違うと思ったが、まあいい。本気でジョッキがほしいわけではなかったから、オーレリアは兄の後に続いて店に入ろうとした。
その時、見知らぬ人の大声がした。
「スリだっ! 捕まえてくれ!!」
ああ、よくある日常の叫びだ。
スられた人には悪いが、オーレリアは野次馬根性で首を伸ばした。住んでいた港町ではこういうことは日常茶飯事だったのだ。なんとなく懐かしい。
どんなスリだろうかと走り去る姿を見ると、子供だった。街頭でのスリは貧民層の孤児が多い。それをさせている大人がいるとも言うが。
まったく体に合っていないぼろ布のようなシャツとパンツ。靴は履いていなかった。十歳になるか、ならないかというところだ。
そして、オーレリアはその子供を見てすぐにわかった。あれは初犯だ。
必死の形相で走っている。ゆとりもなく、慣れた感じもしない。あれではすぐに捕まる。
捕まった子供がどういう目に遭うのかなど、誰にだってわかる。
オーレリアはとっさに、段染めになったドレスの裾を持ち上げて走った。
今では三センチヒールでこんなに走れる。自分の成長を褒めてやりたい。
「ああ! 姉御っ!」
「お嬢様!」
コリンがついてくる。ケイトは声だけ追ってきた。
あの子供はどちらに曲がっただろう。
オーレリアは一瞬立ち止まり、十字路で進路に迷うが、すぐにまた駆け出した。多分、人気のないところへ逃げるはずだから、こっちだと思った。でも、それがいけない。人目がないところで捕まれば余計にひどい目に遭わされる。
それがわかっていて見過ごすのは嫌だった。あんなに痩せた小さな子供、強く殴られれば死ぬかもしれない。それでも、憂さ晴らしに平気で殴るようなヤツもいる。
案の定、子供は捕まっていた。オーレリアは立ち止まり、ドレスの裾を下ろすと物陰から様子を見た。
「返しておくれよ!」
そこは石橋の下の通路で薄暗い。それでも昼間だから、そこで起こっていることくらいは見える。
硬貨が詰まっているらしき小さな袋を、ガラの悪い男が子供から取り上げていた。つるんでいる仲間が四人。全部で五人だ。
男たちは子供を二人がかりで押える。平均してニ十代半ばくらいの集団だ。
子供一人をいたぶって恥ずかしくないのか。ないからやるのだろうが。
男が袋を高く放り投げると、硬質な音がする。結構たくさん入っているようだ。
「坊主、いい仕事したな。でも、次からはもっと気をつけろよ」
そんなことを言って口元を歪めた男の顔に嗜虐心を見た。オーレリアは物陰から飛び出し、子供を殴りつけようとする男の手を受け止めた。いきなりドレスを着た令嬢が拳を受け止めたのだから、男はそれなりに驚いていた。
「な、なんだぁ?」
それでも、オーレリアは間髪を容れずに男の頬に自分の拳をめり込ませた。
久々の感触だ。腕は少し鈍っている。そのまま、子供を押さえつけていた男の脛を蹴った。二人、続けて。
「いっ!」
「てぇっ!」
子供を庇いながら五人の相手はさすがにきつい。オーレリアは子供に向かって言った。
「早く逃げな!」
「え……っ」
「考えるな、急げ!」
けれど、男たちはそこまでマヌケではなかった。子供をしっかりと捕まえ、その子の腹に膝蹴りを食らわせる。
細い体は簡単に吹き飛んで、子供はゲホゲホとむせて地面に倒れた。そんな姿を見て、男たちはゲラゲラ笑うのだ。
オーレリアの堪忍袋の緒がプツリと切れた。
「くたばれっ!」
令嬢にはあるまじき発言をして、オーレリアは一番近くにいた男に拳を叩き込んだ。オーレリアの拳は親父に鍛えられた自慢のひとつである。躱す暇さえ与えず、ノックアウトした。
次は胸倉をつかんで投げ飛ばし、その次はみぞおちに肘鉄を入れてやった。思った以上に腹筋がついておらず、深く入ってしまったら、男が激しくむせ込んだ。
それでも、ちっとも悪いとは思わない。さっき、小さな子供にしたのと同じことをされただけだ。
――ただ、やっぱりドレスはいけない。裾を踏まれてオーレリアは転んだ。
「うあっ!」
マズいなと思ったが、目の前にはまだ倒せていない男が一人立っている。その男がオーレリアの首を遠慮なく片手で締めてきた。
「っ!」
さすがにこうなると力が入らない。それでも抵抗しようとしたら、ドレスの裾を踏んでいた男に羽交い絞めにされた。
殺す気はないだろう。けれど、怒りで少々我を忘れている。
「どこの誰だか知らねぇが、ふざけた真似をしてくれたじゃねぇか」
ギリギリと締め上げられ、喉が潰れる。
痛い。苦しい。
それでも、こんなゲスに怯えた顔は見せられない。
オーレリアは正面の男を睨みつけるのをやめなかった。そうしたら、男はさらにカッとなった。
そうなるだろうとわかっていてもやってしまうものである。これも性分だ。
「この……っ」
首を締める手がさらに強まる。
けれど、意識が飛びそうになる直前に男の手がゆるんだ。
「姉御っ!」
コリンが男に体当たりを食らわせたのだ。細い体でも、渾身の力を込めてぶつかれば転ばせることくらいできる。
オーレリアはなんとか呼吸を再開できた。後で倍にして返してやりたい。
ゴホッとむせていると、今度は背後で羽交い絞めにしていた男の腕が外れた。コリンは正面で一緒に倒れているし、誰だろうととっさに振り返ると、そこには黒い軍服を着たアーヴァインがいたのである。
どこから湧いたんだろう、とオーレリアは唖然とした。