〈15〉破棄前提
その翌日。
仕事を終えて帰ってきた父は上機嫌だった。
「オーレリア、君の評判は上々だったよ。皆から綺麗な娘さんだと言われたし、うっかりワインをかけてしまいそうになった令嬢への対処も寛大だと褒めていた。うん、よかったよかった」
どうやら、社交界デビューは上手く乗り切れたらしい。
兄もうんうんとうなずいている。
「一時はヒヤッとする場面もあったけど、なんとかなったね。ああ、アーヴァインにも礼を言っておかないと。また次も頼みたいし」
嫌がりそうだが、来てくれるのなら頼みたい。
アーヴァインには今さらボロを出す心配をしなくていいから気が楽だ。
しかし、そのさらに翌日――。
今度は何故か父は肩を落とし、ゲッソリとした様子で帰ってきた。
「まあ、どうなさったの、あなた!」
母が心配して駆け寄るものの、具合が悪いということではなさそうだ。ただ疲れて見える。
「い、いや、それがね。オーレリアの評判がよいから、次から次へと求婚者が現れて……」
ほう、とオーレリアは他人事のようにしてつぶやいた。
やはり、上流階級には金に目が眩む男が多いらしい。しかし、オーレリアが素で接したら一発で引くだろう。
「アーヴァインにエスコートしてもらったけど、兄の友人でしかないからなぁ。やっぱり駄目か」
兄もそんなことをぼやいている。
どうやらアーヴァインは虫よけにはならなかったらしい。
アーヴァインのことだから、あの時連れていかれた先でオーレリアとの関係を訊かれた時、正直に兄に頼まれただけだと答えたのだろう。
ちょっと気を遣って嘘のひとつでもついてくれたらよかったが、そこまで甘えるなと返されそうだ。
「やっとこうして家族で過ごせるようになったのに、もうお嫁にやるなんて考えられないわ」
母が悲しげに首を振る。オーレリアとしても、嫁に行く気は今のところどこにもない。
「いいよ、片っ端から連れてくれば。ちゃんと全部断るよ」
そう言ったのに、家族は不安そうにする。この場合の不安は、オーレリアがどうやって断るのか、その手段に対する不安かもしれなかった。
「誰かと婚約まではしてもいいかもしれない。でも、嫁に行くのは数年後にしてくれたら嬉しいのだが」
行くなとは言わない。むしろ、行き遅れてくれるなと思っているのではないか。
しかし、残念ながら、オーレリアはエリノアが嫁いできて邪魔になるようなら古巣に戻ろうかな、くらいに軽く考えている。
「婚約な、婚約」
婚約くらいなら、破棄してもいい。離婚するのではないから、少々体裁が悪かろうともマシだろう。
父はテーブルの端の席からオーレリアをじっと見ると、ささやく。
「アーヴァインくんはどうだね? とても似合っていたが」
「あ、うん、そこな」
やっぱりその名前が出てくる。ただ、母は何かが気がかりのようだった。
「ウィンター伯爵は少し、その、気難しい方だけれど、どうなのかしら?」
あのアーヴァインの爺さんだったら、そりゃあ短気で頑固だろう。わかりやすいなとオーレリアは可笑しくなった。
それがニコニコしているように見えたのか、兄は意外そうに言った。
「アーヴァインの両親は事故で亡くなっていてね、次の伯爵はアーヴァインだ。でも、アーヴァインは大事な跡取りのくせに軍に入って、伯爵はおかんむりでね。あんまり関係はよくないんだ」
「へぇ。そうなんだ?」
伯爵より軍人の方が似合っているのに。
「そういう溝があるからか、アーヴァインは結婚とか敬遠している節があって……。口に出しては何も言わないけど、家を継ぎたくないんじゃないかと思う時がある」
「あ、別にいいよ。婚約って、結婚未遂じゃないか。直前で破棄していいんだろ? しばらくの虫よけになればいいんだ」
とても軽く言った。オーレリアにとってはその程度のことだったのだ。
下町なら、誰と誰がくっついて三日で別れたとか、そんなことはザラにある。ただ、貴族間ではそれが滅多にないから目立つのだということをオーレリアはよく知らない。
「いや、その、破棄を前提とするのはどうなんだろう……」
「うん、まあ、アーヴァインが嫌だったらいいよ。一応訊いといて」
嫌だと高確率で言いそうだが。
その場合、どうやって父の株を落とさずに切り抜けるのかを考えなくてはならない。オーレリアにとって、結構な難題だった。
◆
やはり、アーヴァインはすごい剣幕で怒ったらしい。
チッ。やっぱりか。
これ以上面倒ごとに巻き込んでくれるなと思っているのかもしれない。
そうなると、何か別の手を打たなくてはならない。どういう手を使うのが効果的だろうか。
人見知り作戦を続行して、ひと言も口を利かずにいるのはどうだろうか。夫婦になったからといってまともに会話もできないような娘では家に戻されるはずだ。
それがいいかな、と思いつつオーレリアは数日を過ごした。
この都へ来てひと月。
そろそろ屋敷の外で買い物くらいはしてみたいという気になった。もちろん、一人では許可が下りない。
兄と、コリンと、メイドのケイトと、御者のロドニーで商店街まで出かけることになった。
「オーレリアは何がほしいんだい?」
にこやかに訊ねてくる兄に、オーレリアは首を捻った。
「これから考えるよ」
「……そうなのかい?」
気分転換に出かけたかっただけなのだ。ほしいものは外の空気かもしれない。